シャロームを所有する

私は預言の賜物の回復を願っている。しかし私は預言の賜物を否定する方々を心から尊敬し感謝している。私が預言の賜物を熱心に求めて聖書に従うためなら…私は預言の賜物を否定する方々を不満に思い…全て感謝せよと語る聖書に逆らってよいだろうか?預言を認める牧師先生だけ尊敬し…預言の賜物を否定する牧師先生含む5役者や教団教派の方々を尊敬せず…互いに尊敬しなさいと語る聖書に逆らってよいだろうか?自分が建てたい御言葉を建て上げるために他の御言葉を壊してできた砂の上に自分が建てたい御言葉を建て上げ…家を建ててよいのだろうか?

1️⃣~5️⃣【 キリストの体であるエクレシアを成長させ建て上げるために主に捧げられ続けた滅私奉公の犠牲が天に満ちる時、『滅私奉公の時代』の次の時代がはじまる 】 【 1️⃣滅私奉公の時が満ちる 】 【 2️⃣神からの啓示はどのような背格好をしているのかを知らなければ、神からの啓示が来ているかもしれないのに気づくことができない 】 【 3️⃣滅私奉公が破綻しはじめているのは主の手の中に捧げられた滅私奉公が満ちて、主が「あなたがたは わたしのために忠実に惜しみなく滅私奉公を捧げ続けてくれた…

 

【  1️⃣滅私奉公の時が満ちる  】

2022年は戦後77年の年であり、2022年の7年前の時に……今年が戦後70年の年であると知った時、「そうか……今年は戦後70年の年だったのか」と思い、70という数字は聖書的に非常に特別な数字であることを思いめぐらしながら、私は戦後70年である年に入っている今、戦後70年ということについて神様が何か教えてくださらないだろうか……?となんとなく思って、軽い気持ちで思いめぐらし、軽く待ち望んでみた。軽く待ち望んでみたというのは、この頃の私は預言の賜物の活性化ということについてほとんど知らず理解していなかったので、神様からなんらかの返答があるとはほとんど期待しておらず、軽い気持ちで、試しに神様に聞いてみよう……というような軽い動機だった。

しかし、そのように私が「戦後70年の年に入っている今、戦後70年ということについて神様が何か教えてくださるだろうか……」と薄いかすかなペラペラの信仰による軽い思いつきからの気持ちでほんの数秒くらい待ち望んでみた時、私の思いの中に「滅私奉公が終わる」ということばが浮かび上がった。

【  2️⃣神からの啓示はどのような背格好をしているのかを知らなければ、神からの啓示が来ているかもしれないのに気づくことができない  】

私の思いの中に浮かび上がったのは「わたしは滅私奉公を終らせる」ではなく「滅私奉公が終わる」ということばだった……ほとんどの場合、神様からの啓示は「わたしは〇〇〇〇〇」ということばでは来ない。ほとんどの場合はひとり言や思いつきと同じことばが思い浮かぶ。しかし、「~してみようか……」とか「~してみるのはどうだろうか……」というひとり言や思いつきのことばの群れの中に私のひとり言や私の思いつきや私のイメージではない、神からの願い・志し・ビジョン・アイデアがある。神からの語りかけや啓示を求め待ち望む時……「わたしは〇〇〇〇〇」といったようなことばとか「〇〇〇〇〇しなさい」とか、誰かが自分に語りかけているようなことばを待っていても、いつまでたっても来ない可能性の方が高い。「神からの啓示という待ち合わせ相手」は神から送られて来て私の思いの中にすでに到着しているにもかかわらず……いつまで待っていても会うことができない……などということになる可能性が高い。待ち合わせ相手である神からの啓示が「わたしは〇〇〇〇〇」ということばや「〇〇〇〇〇しなさい」とか、誰かが自分に語りかけているようなことばで来ると思い込んでいるからだ……待ち合わせ相手の背格好や服装や容姿を知らなければ待ち合わせ相手が到着していても気づくことができない……私も気づくことができずに預言の賜物を求めることをあきらめたり、あきらめそうになったりしたことが何度も何度もある。

戦後70年の年に私の心に強く思い浮かんだことばも「わたしは滅私奉公を終らせる」といった誰かに語りかけるかたちのことばではなく「滅私奉公が終わる」という私のひとり言とか私の思いつきのようなことばだった。

【  3️⃣滅私奉公が破綻しはじめているのは、主の手の中に捧げられた滅私奉公が満ちて、主が「あなたがたは  わたしのために忠実に惜しみなく滅私奉公を捧げ続けてくれた。滅私奉公はもう十分だ」と語っておられ、滅私奉公の次の段階にキリストの体であるエクレシアが進むことができる段階になっているからだ  】

しかし、私が戦後70年の年に、ひとり言とか思いつきとかと同じようなことばではあったが、私の心に思い浮かんだ「滅私奉公が終わる」ということばが、私のひとり言や私の思いつきではなく、主が「わたしは滅私奉公を終らせる」と語られた啓示だったと思える理由は……牧師先生たちの中で、信徒リーダーたちの中で、教会の中で、キリストの体の中で、常に高く上げられ続けていた「滅私奉公」が破綻しはじめているのを現実に色々と見続けてきたからだ。戦後70年よりすこし前から破綻しはじめている「滅私奉公の破綻」は戦後77年となった今年の2022年以降はさらに今まで見たことがないほど大きくなってきている現状が牧師先生たちの中にも、信徒リーダーたちの中にも、教会の中にも、エクレシアの中にも見られるようになってきている。

 

【  4️⃣滅私奉公の時代=「ロゴスの時代」から➡️「レイマの時代」へと季節が移り変わる時代  】

 

キリストの体であるエクレシアの中で「滅私奉公」する者たちこそが最も祝福され繁栄することができていた。しかし「滅私奉公」を実行し続ける方々は、「滅私奉公」の次の時代においては先頭グループではなくなる……もっと正確なことばで表現するなら……主のために捧げ「滅私奉公」していれば誰でも祝福され繁栄する時代ではなくなる。次の時代では……主のために捧げ「滅私奉公」しているのに貧しくなり弱くなる者たちがキリストの体であるエクレシアの中に見られるようになる。滅私奉公の次の時代では……主のために捧げ「滅私奉公」しているのに貧しくなり弱くなる者たちもいれば、主のために捧げ「滅私奉公」して大いに祝福され繁栄する者たちもいる。滅私奉公の次の時代では「滅私奉公しなさい」と主に語りかけられて「滅私奉公」している者たちは祝福され繁栄することができるが……聖書に書いてあるからとか、牧師先生が礼拝メッセージの時に語っていたから……といった理由で「滅私奉公」していても心身に大きな負担を背負うことになるだけで、たいした実が結ばれることなく、ハイリスクなのにローリターンになる者たちが増えはじめる。

【  5️⃣聖書に書かれた文字であるロゴスに仕えるだけでなく、神の息をまとっている聖書の御言葉であるレイマに仕える者が祝福され繁栄する時代  】

滅私奉公の時代は聖書に書かれた文字であるロゴスに仕えていれば誰であっても祝福され繁栄することができていた。滅私奉公の時代は聖書に書かれた文字であるロゴスに仕えていれば誰であっても祝福され繁栄することができていた時代であるから、「滅私奉公の時代」は「ロゴスの時代」と言うこともできる。

しかし、滅私奉公の時代の次の時代では聖書に書かれた文字であるロゴスに仕えていれば誰であっても祝福され繁栄することができるのではなく、ひとりひとりそれぞれに与えられているレイマに仕える者が祝福され繁栄することができるようになる……社会においても、言われたとおりにみんなと同じことをする者が求められていた時代はほとんど過ぎ去った過去になっている……ロゴスは聖書に書かれた文字だ。聖書に書かれた文字であるロゴスが神の息をまとうとレイマになる。聖書に書かれたどれかの文字の上に主の臨在がとどまっているので、主の臨在がとどまっており神の息をまとったロゴス=レイマの御言葉に仕える者が祝福され繁栄することができる時代が滅私奉公の時代=ロゴスの時代の次の時代であるレイマの時代だ。

聖書のどの文字の上に主の臨在がとどまり待っておられるのかを人や牧師先生に教えてもらうことはできない。貴方のために主の臨在がとどまり貴方を待っておられる聖書箇所を人や牧師先生は知らない。聖書に書かれた文字であるロゴスや牧師先生に語られたメッセージを徹底的に実行してさえいれば祝福され繁栄できた時代は過ぎ去りはじめている。

これまでの時代においては「滅私奉公」する者たちや「滅私奉公」する群れの上に最も豊かな油注ぎと繁栄と祝福があったが、今後は「滅私奉公」をしてくださる方々の油注ぎはなくなりはしないが徐々に減少する。「滅私奉公」をしてくださった方々の「滅私奉公」と「犠牲」により「滅私奉公」の時が満ち「滅私奉公」が満ちて次の段階に入りはじめているからだ。「滅私奉公」の次の段階、「滅私奉公」の次の時代がはじまり、主のためエクレシアのため「滅私奉公」していれば祝福され繁栄できた時代が過ぎ去ると「滅私奉公」する者たちや「滅私奉公」するグループはキリストの体の先頭ではなくなり、「滅私奉公」をする者たちの上にとどまっていた油注ぎは、「滅私奉公」をする者たちのグループの上にあった時よりもさらに偉大な油注ぎとなって、「滅私奉公」の次の段階を建て上げる者たちを待っている。

「滅私奉公」の時代には「滅私奉公」して「聖書に書かれた文字であるロゴス」に仕えて従順すれば従順するほど、「牧師先生」に仕えて従順すれば従順するほど、捧げれば捧げるほどに祝福され繁栄することができていたが、「滅私奉公」の次の時代では神がそれぞれに与えておられる「レイマ」にとどまり仕える者が祝福され繁栄することができる時代へと季節は移り変わる。「滅私奉公」をしてくださった方々の犠牲が天に満ちる時、時が満ちて「滅私奉公」の次の段階がはじまる。

キリストの体であるエクレシアの中のあちらこちらで滅私奉公を捧げ続けている方々の心身の健康が壊れ破綻しはじめている今の現状は主の手の中に捧げられた滅私奉公が十分に満ちていて、主が「あなたがたは  わたしのために忠実に惜しみなく滅私奉公を捧げ続けてくれた。滅私奉公はもう十分だ」と語っておられ、滅私奉公の次の段階にキリストの体であるエクレシアが進むことができる段階になっていることの現れだ。……"「民は幾たびも、持って来ています。主がせよと命じられた仕事のために、あり余る奉仕です。」"
出エジプト記 36章 5節