シャロームを所有する

私は預言の賜物の回復を願っている。しかし私は預言の賜物を否定する方々を心から尊敬し感謝している。私が預言の賜物を熱心に求めて聖書に従うためなら…私は預言の賜物を否定する方々を不満に思い…全て感謝せよと語る聖書に逆らってよいだろうか?預言を認める牧師先生だけ尊敬し…預言の賜物を否定する牧師先生含む5役者や教団教派の方々を尊敬せず…互いに尊敬しなさいと語る聖書に逆らってよいだろうか?自分が建てたい御言葉を建て上げるために他の御言葉を壊してできた砂の上に自分が建てたい御言葉を建て上げ…家を建ててよいのだろうか?

「何故、他の国々のように日本はリバイバルしていないのだろうか……使徒、預言者、伝道者、牧師、教師が鍵であることを神が隠しておられるからだ。神が隠し続けておられる理由は……神が世界で最も美しい御霊の実を与えた日本のエクレシアの御霊の実をさらに磨き続けるためだ」

他の国々はリバイバルしているのに、何故、日本だけが、他の国々のようにリバイバルしていないのだろうか?

日本の教会(エクレシア)のリーダーたちの目が開かれていないからか?……そうではない。

神は神の計画と戦略と目的のために日本のエクレシア(教会)のリーダーたちの目からリバイバルの鍵を隠し続けておられたからだ。

……何故、神は日本のエクレシアのリーダーたちの目からリバイバルの鍵を隠し続けておられたのだろうか……?

……日本人の御霊の実である愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制……これら9つの御霊の実を磨き続けるためだ。

日本のエクレシアは神の秘蔵の宝石のように神のふところに隠されていて御霊の実を磨かれ続けている。

日本がかつて海外に門を閉ざし鎖国していたように……海外に存在している現代の使徒に神が預けておられる新しい啓示が日本に入って来ることができないように、日本のエクレシアのリーダーである牧師先生たちが門を閉ざし続けていたからこそ、日本のエクレシアの御霊の実は磨きに磨かれ続けて美しい宝石のようになっている。

エスキリストのことを知らない日本人の「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」でさえも、そのあまりの美しさに海外の国々は大いに驚いている。

「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」は日本人が日本の長い歴史の中で何世代にも渡って長年育て、はぐくみ続けてきた才能だ。

神は日本人に、「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」を賜物として、才能として与えてくださっている。

そして、神はこの日本のエクレシアの御霊の実をさらに磨きに磨くために、海外で神の御国の働きをしている現代の使徒や現代の預言者たちが日本のエクレシアに近づいたり、触れたりはほとんどさせなかった。

日本のエクレシアのリーダーである牧師先生たちが心を1つにして一致して、「海外で神の御国の働きをしている現代の使徒たちや現代の預言者たち」に向かって「私はあなたたちの教えを私の教会に受け入れない」…と心の中で言っていることによって、日本のエクレシアの門を閉ざし続けてしまっていることを神が「良し」…と許可し続けることによって、日本のエクレシアの御霊の実は磨きに磨かれ続けて美しい宝石のようになっている。

海外にいる現代の使徒や現代の預言者が神から預かっている啓示や油注ぎが入って来るなら、「使徒預言者、伝道者、牧師、教師でなくても預言することができる」という啓示と油注ぎも日本のエクレシアに入って来るので、御霊の実を磨く専門学校であった日本のエクレシアに日本以外の他の国々ではすでに建て上げられている「預言の賜物の活性化」についての啓示と教えが入って来ることになる。

日本のエクレシアのリーダーであり日本のエクレシアの門である日本の牧師先生たちは、「預言の賜物の活性化」についての啓示と教えが入ってくることを拒み続けている。かつて日本が外国のキリスト教を拒んで鎖国していたように門を閉じ続けている。

……しかし、それすらも神の計画であり、神の戦略の1つだ。神は日本のエクレシアに「預言の賜物の活性化」についての啓示と教えと知識の鍵を与えない期間を他の国々よりも比べものにならないほど長びかせることによって、日本のエクレシアの御霊の実が磨きに磨き続けられるようにした。

そして、御霊の実を磨きに磨き続けた日本のエクレシアに預言や知識のことばや知恵のことばといった御霊の賜物の油が注がれる時が来る。

使徒たちが神の御国を大きく拡大し続けていた時期にも、まだ律法の中に深く浸され磨き続けられていたサウロに聖霊の油が注がれてパウロになった時、律法の中に深く浸され磨き続けられていたパウロであったからこそ、現された神の偉大な栄光を人々は見た。

預言の賜物が活性化されることによって他の国々が神の御国を大きく拡大し続けている現代においても、御霊の実を磨きに磨き続けている日本のエクレシアに預言の賜物を活性化する啓示と油が注がれる時、日本のエクレシアと国々のエクレシアは神がこれほどまでに日本のエクレシアの預言の賜物を活性化することを先伸ばしにし続けて御霊の実を磨きに磨き続けた意味を知るようになる。

何故なら……神は神の宝石である日本のエクレシアを箱入り愛娘のままで終わらせることはないお方であるからだ。いつだって神は御自分の手の中にある最も良いものを神の民である全世界のエクレシアにプレゼントしてくださるお方であるからだ。

日本がリバイバルするために必要な鍵となることは、日本のエクレシアのリーダーである牧師先生たちが現代の使徒たちや現代の預言者を現代の使徒、現代の預言者として受け入れ、日本のエクレシアの門を開くことだ。

そして、日本のエクレシアにおいて、日本うまれ日本育ちであるメイドインジャパン使徒預言者、伝道者が立ち上がるようになることが日本がリバイバルするために必要不可欠な鍵だ。

日本には日本うまれ日本育ちの使徒預言者や伝道者はまだどこにもいないのだろうか?

それぞれの国々には使徒預言者、伝道者がいるのに日本にだけは与えられていないのだろうか?

何故、「他の国々には使徒預言者や伝道者がいるのに、日本には牧師と教師しかいない」…といったようなことばが日本のエクレシアの中でささやかれ続けているのだろうか…?

神は日本にも日本うまれ日本育ちの使徒預言者や伝道者を与えてくださっている。

……しかし、日本の使徒預言者や伝道者のひとりひとりは離れ小島のように孤立してしまっている。日本の使徒預言者や伝道者は日本の牧師、教師から拒絶されてしまっていて切りはなされている。

日本の牧師、教師から拒絶されて切りはなされている日本の使徒預言者や伝道者も、自分たちを拒絶し続けている日本の牧師、教師を拒絶して切りはなしてしまっている。

自分が使徒であること、預言者であること、伝道者であることを日本の霊的リーダーである日本の牧師先生たちが認めてくれなかったことにたいして、彼ら彼女らの多くが返した応答は……自分が使徒であること、預言者であること、伝道者であることを認めてくれなかった牧師を「牧師」として認めないことだった……。

「認めてくれないから認めないこと」は自然な応答であると言えるだろう。認めてもらえない傷と痛みにはさっさとふたをして閉じ、心も閉じて、顔も見たくないから足の裏のちりをさっさと払い落として立ち去り2度と戻って来たくはないと思うのが当然の応答であり自然な応答であると言えるだろう。

……しかし、「認めてくれないから認めない」といった自然な応答をしていながら、主に高く上げていただくことは期待できない。「認めてくれないから認めない」といった自然な応答をしている者を主が高く上げてくださらないのは自然なことであり、「刈り取り」であり、「刈り込み」であるからだ。それでももし……主が高く上げてくださったのであれば、それは不自然なことであり、例外的なことであり、神の約束と祝福を引き出す条件を満たしていない者であったにもかかわらず、神が一方的に与えてくださった恵みであり、あわれみと言えるだろう。……日本の牧師先生たちにねたませ、うえ渇かせ、求めさせて、神が使徒預言者、伝道者を日本のエクレシアに与えるためだ。

……しかし、自分が使徒預言者、伝道者であることを認めてくれない牧師先生たちを「牧師」として認め「牧師」としての働きをしておられることを心から感謝し、尊敬し、敬意を払う者が高く上げられることは神の王国においては自然なことであり、神の約束であり、神の祝福だ。

……そうではなくて反対に牧師先生を「牧師」として認めず尊敬せず、尊重せずに牧師先生に向かって「私は日本の教会の使徒(預言者)(伝道者)であり、私には日本の牧師たちにはできない高いレベルの預言の油注ぎがあり、日本の牧師たちにはできない高いレベルの癒しの油注ぎがある……なのに、日本の牧師たちは私を受け入れようとしない。日本の牧師たちは聖霊が遣わした私を拒絶したということは、聖霊を拒絶したのと同じだ。だから、日本の牧師たちは聖霊を拒絶している者たちだ……」……もし心の中でこのように思ったり、牧師先生たちに直接語ったりしてさばいているなら……"律法を知らないこの群衆は、のろわれている"……と言ったパリサイ人たちと中身は同じなのではないだろうか?

そして、日本の使徒預言者、伝道者が日本のエクレシアのリーダーである牧師先生たちの教会の門を乱暴にたたき、自分たちは「牧師」を「牧師」として認め尊敬し尊重していないのに、自分たちが「使徒」「預言者」「伝道者」であることを認めることを一方的に要求し続け、門を強盗のようにこじ開けようとした……だから、日本のほとんどの牧師先生たちは「自分の教会の信徒たちにはこんなやつらみたいには絶対になってほしくない」と強く激しく思うようになり……「使徒預言者、伝道者なんていなくても牧師がいれば十分じゃないか」……と考えるようになり……

……日本のエクレシアの門である牧師先生たちは一致して心を1つにして、自分の教会の信徒たちをあんなやつらみたいにならせる危険性のある預言の賜物が入ってこないようにしめ出してしまうことに心の中で同意してしまっているので……

……預言の賜物を用いることができ、預言の賜物の用い方や重要性について日本のエクレシアに教えようとする海外の使徒預言者や伝道者の教えが日本のエクレシアに入って来ないように、日本のエクレシアの門を閉じてしまっているので、かつて日本が鎖国して海外のものが日本に入ることを拒絶していたように、現代の使徒たち、現代の預言者たち、現代の伝道者たちが神から預かっている「預言の賜物の活性化」やその他の啓示と祝福と油注ぎは、現代の日本のエクレシアの中では、「キリスト教を禁止している国の聖書」のようにほとんど見聞きすることができない。

日本うまれ日本育ちのの使徒預言者、伝道者の心には、牧師先生たちに拒絶された傷があって、孤児の霊の要塞があり、人に認められることに激しくうえ渇く思いは「認められたいのに認めてくれないから認めない」という応答を深い傷口から流れ続ける血のように流れ川のようにめぐりめぐっている。

日本のエクレシアのリーダーである牧師先生たちの心には、自分たちは海外において見聞きされているような癒しができない、預言ができない……といったコンプレックス、劣等感がある。

日本うまれ日本育ちのの使徒預言者、伝道者たちは日本の牧師先生たちにはない、癒しの油注ぎ、預言の油注ぎを見せびらかしながら「私にはあなたたちにないレベルの癒しの油注ぎ、あなたたちにないレベルの預言の油注ぎがある」と言いながら、日本の牧師先生たちを尊敬せずに見下し、自分たちが一方的に尊敬されることを要求し、日本の牧師先生たちのコンプレックスの傷と劣等感をピンポイントで剣で深く突き刺した。

"軽率に話して人を剣で刺すような者がいる。しかし知恵のある人の舌は人をいやす。"
箴言 12章 18節

……しかし、それすらも神の計画、神の戦略の1つだ。

"彼らも、今は不従順になっていますが、それは、あなたがたの受けたあわれみによって、今や、彼ら自身もあわれみを受けるためなのです。
なぜなら、神は、すべての人をあわれもうとして、すべての人を不従順のうちに閉じ込められたからです。
ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。"
ローマ人への手紙 11章 31〜33節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会