シャロームを所有する

私は預言の賜物の回復を願っている。しかし私は預言の賜物を否定する方々を心から尊敬し感謝している。私が預言の賜物を熱心に求めて聖書に従うためなら…私は預言の賜物を否定する方々を不満に思い…全て感謝せよと語る聖書に逆らってよいだろうか?預言を認める牧師先生だけ尊敬し…預言の賜物を否定する牧師先生含む5役者や教団教派の方々を尊敬せず…互いに尊敬しなさいと語る聖書に逆らってよいだろうか?自分が建てたい御言葉を建て上げるために他の御言葉を壊してできた砂の上に自分が建てたい御言葉を建て上げ…家を建ててよいのだろうか?

6️⃣【滅私奉公とはどのようなことか】 【①「滅私奉公」と「奉仕を捧げること」は同じではない】【②滅私奉公しすぎると「うつ病」になる】【③裕福な者も期待が長引くと「うつ病」になる】【④神の国とその義『だけ』しか求めない滅私奉公は「うつ病」になる】

 

前回のブログで滅私奉公の時代が満ちて過ぎ去ろうとしていることについて書かせていただいた。

 

6️⃣【滅私奉公とはどのようなことか】

 

6️⃣【①「滅私奉公」と「奉仕を捧げること」は同じではない】

 

滅私奉公とはなんであろうか?滅私奉公とは=「捧げることのできる上限をはるかにこえて捧げること」だ。「捧げることのできる上限以内か、上限を少しこえるくらい」であれば、滅私奉公ではない。捧げることのできる上限をはるかにこえた滅私奉公を捧げると心や体は病気になってしまう。

聖書は滅私奉公を要求していない。滅私奉公とは「自分を殺して捧げること」であり、聖書は「自分を生かせ」と語っている。このようなことを語れば、今も滅私奉公をして神とキリストの体に仕え続けてくださっている方々が「自分を殺すのではなく自分の肉を殺すのです。自分の肉を殺せば自分の霊魂が生かされるのです」……とお思いになられるかもしれない。

聖書は「肉=罪」とは語っていない。

聖書に書かれている"だれも自分の身を憎んだ者はいません。かえって、これを養い育てます。それはキリストが教会をそうされたのと同じです。"……この聖書箇所の「だれも自分の身を憎んだ者はいません。かえって、これを養い育てます」とある「自分の身」……はもとのギリシア語では「自分の肉」ということばが使用されている。……という話しを聴いたことがある。

6️⃣【②滅私奉公しすぎると「うつ病」になる】

聖書は語っている……"期待が長びくと心は病む。望みがかなうことは、いのちの木である。"……と聖書が語っている。

期待が長びくと心は病む……と……聖書は「うつ病」ということばがまだなかったであろう頃から、期待が長引くと「うつ病」になると警告している。

「こんなしょうもないこと」「こんな肉的なこと」「こんな世的なこと」……と思い自分の心が望むこと願うことを我慢し続けて「期待」を長引かせ続けるなら「うつ病」になる。

上限をこえない範囲での断食は霊肉魂を潤し豊かにするが、上限をあまりにもこえた断食をして肉体に食事を与えなさすぎると、どんなに霊が豊かに満たされていようとも肉体も魂も弱り果てて死ぬのと同じように、心に喜び、楽しみを与えなさ過ぎて期待を長引かせすぎると心が弱り果てて、心が病んで「うつ病」になる。

断食しすぎると肉体が死ぬのと同じように、心に喜び、楽しみを与えず期待を長引かせる「心の断食」をしすぎると心は病んで「うつ病」になる。心が病んで弱り果てると肉体の免疫が下がり病気になりやすくなり、喜びや楽しみによってストレスが消されることなく、ストレスが増大し続け過ぎると肉体の健康がすり減り続けて、肉体も病気になる。

「心の断食」の悪影響は肉体の断食ほどにはすぐには現れてこない可能性が高い。「心の断食」の悪影響は何年、何十年後以降に現れてくることもある。何年、何十年と蓄積し続けた「心の断食」の悪影響が何年、何十年後以降に山を動かす癒しの奇跡の力によってしか動かすことができない心の病となって突然姿を現すこともある。しかし、突然現れたのではなくて、水面下で蓄積され続けていただけである可能性が高い。「心の断食」をし過ぎて心が病んでしまう前に肉体にも心にも様々な不調や症状が警告として届けられているが……警告を無視し続けると心は病んでうつ病になる。

6️⃣【③裕福な者も期待が長引くと「うつ病」になる】

この世のありとあらゆる富みと豊かさを持っているにもかかわらず「うつ病」になる人々がいる。期待していることがあまりにも高すぎるからだ。この世のありとあらゆる富みと豊かさ、ありとあらゆる幸いを持っていても「足りない」「もっとほしい」と思っているので、その『あまりにも高すぎる期待』が満たされなければ「期待」が長引くことになるので「うつ病」になる。

不義と不正によって、この世のありとあらゆる富みと豊かさを持つことはできるが……神は……不義と不正によって、この世のありとあらゆる富みと豊かさを持つようになった者の貪欲さを肥大させて「うつ病」にならせることができる。

しかし、不義と不正によって、この世のありとあらゆる富みと豊かさを持つようになった者が「うつ病」になれたならそれは神のあわれみだ。……最も不幸なのは、不義と不正によって、この世のありとあらゆる富みと豊かさを持つようになった者が何不自由なく生涯を終えて、死んで後に、神のさばきの座に立つことだ。

"私たちはみな、神のさばきの座に立つようになるのです。"
ローマ人への手紙 14章 10節

"まことに、あなたは彼らをすべりやすい所に置き、彼らを滅びに突き落とされます。"
詩篇 73篇 18節

6️⃣【④神の国とその義『だけ』しか求めない滅私奉公は「うつ病」になる】

もしかしたら何人かの「心の断食」をし過ぎているクリスチャンや牧師先生方を含む5役者の方々は聖書に書いてある"神の国とその義とをまず第一に求めなさい。"……とある御言葉を「神の国とその義『だけ』を求めなさい」……と勝手に頭の中で翻訳して人々に言い聞かせ、自分自身にも言い聞かせておられるかもしれない。

"神の国とその義とをまず第一に求めなさい。"……と書いてある聖書箇所は「神の国とその義『だけ』を求めなさい」とは語っていない。"神の国とその義とをまず第一に求めなさい。"……と語っている。

神の国とその義『だけ』を求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」……と聖書は語っていない。

神の国とその義『だけ』を求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」という聖書解釈がもし正しいのであれば……"あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです"……と語っている別の聖書箇所を否定することになる。

聖書は他の聖書箇所が他の聖書箇所を否定するような矛盾した書物ではない。聖書はイエスキリストであり、イエスキリストの中に矛盾は1つもないので、聖書の中にも矛盾は1つも存在しない……聖書は語っている……"主の書物を調べて読め。これらのもののうちどれも失われていない。それぞれ自分の連れ合いを欠くものはいない。それは、主の口がこれを命じ、主の御霊が、これらを集めたからである。"……と聖書が語っている

もし、聖書の中に、どこかの聖書箇所を否定しているかのように思える聖書箇所が1つでもあるとすれば、聖書に矛盾があるのではなく、衝突しているどちらかの聖書箇所の聖書解釈が間違っている可能性が高い。聖書の御言葉に矛盾があり、欠けがあると信じるよりも、私に欠けがあり、私の知識に欠けがあり、私の聖書解釈に欠けがあり、私の聖書解釈が間違っていると信じることの方がはるかにかんたんなことだ。

神の国とその義『だけ』を求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」……と聖書は語っていない。

聖書は語っている……"神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。"……と聖書は語っている……だけではなく……"あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです"……とも聖書は語っているので……「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、神の国と神の義が与えられるだけでなく、神が与えてくださると信じ期待し続けながら神に求めている第二、第三以降に求めている1つ1つも、神は与えてくださいます」……と聖書は語っていることになる。

神の国と神の義『だけ』しか求めていない人は神の国と神の義だけしか与えられない……聖書は"あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです"……と語っているからだ。

神の国と神の義『だけ』があれば他はいらない、神に求めることもしない……のであれば、その信仰のとおりに神の国と神の義以外のことについて不足だらけの日々を生きることになる。聖書は"「あなたがたの信仰のとおりになれ」"……と語っているからだ。

神の国とその義とをまず第一に求めるだけでなく、神の国と神の義の実現のため、第二第三以降のことを願う者に神は第一に願っている神の国と神の義だけでなく、神の国と神の義が実現するために必要な様々なこと、第二第三以降に願っている1つ1つのことをちょうど良い時に与えてくださる。

"こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。"

"それがみなあなたがたに必要である"…………"だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。"
マタイの福音書 6章 33節

神の国と神の義のために神に仕え、神のために人々に仕えることを優先し過ぎて『自分自身の心の願い』を無視し続けなさい……と聖書は語っていない。

「あなたがたのだれかに、耕作か羊飼いをするしもべがいるとして、そのしもべが野らから帰って来たとき、『さあ、さあ、ここに来て、食事をしなさい』としもべに言うでしょうか。
かえって、『私の食事の用意をし、帯を締めて私の食事が済むまで給仕しなさい。

……その後は断食して賛美して聖書を読んで徹夜で祈りなさい。毎日そうしなさい……と聖書は語っていない。

聖書は語っている"『私の食事の用意をし、帯を締めて私の食事が済むまで給仕しなさい。あとで、自分の食事をしなさい"……と聖書が語っている。

"ところで、あなたがたのだれかに、耕作か羊飼いをするしもべがいるとして、そのしもべが野らから帰って来たとき、『さあ、さあ、ここに来て、食事をしなさい』としもべに言うでしょうか。
かえって、『私の食事の用意をし、帯を締めて私の食事が済むまで給仕しなさい。あとで、自分の食事をしなさい』と言わないでしょうか。"
ルカの福音書 17章 7〜8節