独身でも平気な人には「独身の賜物がある」と言われているのを耳にすることがある。
しかし、これは賜物ではない。賜物であるなら、求めれば与えられるが、これは求めても与えられないからだ。これは神の選びと定めによることであり、人間の願いや努力によることではない。
だから、これは「独身の賜物」と表現するよりも「独身の油注ぎ」と表現することがふさわしい。
「独身の賜物」ということばは、以下の聖書箇所からのものだろう。"私の意見では、もしそのままにしていられたら、そのほうがもっと幸いです。私も、神の御霊をいただいていると思います。"(コリント人への手紙第一 7章 40節)
この箇所に書いてある「私も、神の御霊をいただいていると思います。」の「神の御霊」を「神の賜物」と置き換えて解釈し、「私も、神の賜物をいただいていると思います」から「独身の賜物」ということばで表現されるようになったのだろう。
しかし、「私も、神の御霊をいただいていると思います。」の「神の御霊」を「神の油注ぎ」と置き換えて解釈し、「私も、神の油注ぎをいただいていると思います」から「独身の油注ぎ」とするほうが表現としてはもっとふさわしい。
御霊の9つの賜物はどの賜物であっても、信仰によって求め、活用できている実感がなくても、信仰によって活用すればするほど大きく育て続けることができる。
このような御霊の9つの賜物とは違って、「独身の油注ぎ」は求めても与えられない。
もちろん、「独身の油注ぎ」がなくても、聖書に書いてある通りに、天の御国のために独身を選択することはできる。
しかし、その人は「独身の油注ぎ」がないので、独身であることが平気でいられるのではない。そのように、独身であることが平気ではなく、寂しさ等を感じるが、天の御国のために独身を選択し続けることはできる。
聖書に書いてある「人から独身者にさせられた者」と「天の御国のために、自分から独身者になった者」には「独身の油注ぎ」は与えられていない。人間の願いや努力によることではないからだ。
独身であることが平気な「独身の油注ぎ」がなく、「独身であることは寂しいけど主のために独身であり続けたい」といった神からの願いや志しもなく、互いに結婚したいと願っている相手がいるなら、独身であり続けることはあまりおすすめできない。
独身であり続けるよりも、結婚することによって、神の御国のためにもっと多くの実を結ぶことができるように神が御心によって計画し、そのようにデザインしておられる人かもしれないからだ。
聖書に以下のように書いてある。"「ただ、それが許されている者だけができるのです。
というのは、母の胎内から、そのように生まれついた独身者がいます。"
神の選びによって神から与えられている油注ぎ。独身であることが平気な心。これが「独身者の油注ぎ」だ。これは神の選びと定めによることであり、人間の願いや努力によることではない。
"弟子たちはイエスに言った。「もし妻に対する夫の立場がそんなものなら、結婚しないほうがましです。」
しかし、イエスは言われた。「そのことばは、だれでも受け入れることができるわけではありません。ただ、それが許されている者だけができるのです。
というのは、母の胎内から、そのように生まれついた独身者がいます。また、人から独身者にさせられた者もいます。また、天の御国のために、自分から独身者になった者もいるからです。それができる者はそれを受け入れなさい。」"
マタイの福音書 19章 10〜12節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会