主に向かって手を上げる時、閉じた手ではなくて、開いた手を上げる。
それとは別に、主の勝利を宣言する時や、「主よ。あなたは力強いお方です」と宣言する時、握りこぶしを掲げる時もあるだろう。
しかし、主に向かって礼拝の手を上げる時は、開かれた手を上げる。私たちはそれを知っている。
主に向かって手を上げる時、閉じた手ではなくて、開いた手を上げるということを私たちの霊は最初から知っている。
手が届きそうで届かないくらい高い位置にあるものを取ろうとする時、私たちは閉じられた手ではなくて開かれた手を上げる。
そうすれば最も高いところにあるものに手がとどくことができるように私たちがつくられていることを私たちは知っている。
つまさき立ちして背伸びしたり、飛び上がればもっと高いところに手がとどくだろう。しかし、それは少しの間しかできないし、手を上げるだけよりもはるかに大きな負担が体にかかり、体を疲れさせる。
私たちの体はそのようにつくられていることを私たちは知っている。
私たちの体がそのようにつくられているのは、
イエスキリストの御名により、私たちが主に向かって開かれた手を高く上げる時、主に向かって礼拝の手を上げる時、
最も高い場所、いと高き方のおられる天の御国に触れることができるように私たちがつくられているからだ。
私が礼拝の祈りを主に捧げる時間に、礼拝の祈りによって主に礼拝の手を上げていた時…ことばが思い浮かんできたので、思い浮かんできたことばを語り、さらに思い浮かんだことばの続きを語ろうとすると、思い浮かんだことばの続きを語ることができた。
語ることばが途切れると、また思いの中にことばが浮かび、思い浮かんだことばを語り、続きを語った。それは以下のようなことばだった。
神の御国は闇に完全に勝利している。どれほど完全に勝利しているかは自然界の光と闇を見ると知ることができる。
神の御国は光。闇は光に全く触れることができない。かすかに一瞬すら触れることができない。
光の中に闇を入れることはできない。私たちはイエスキリストの血潮が塗られた門を通って光の中に入ることができる。
光の中に闇は存在できない。闇が存在できる場所は光が遮られた場所だけ。
闇は光のない場所にしか存在できない。
闇が存在できているのはそこにまだ光がないからだ。
闇がある場所に光が来れば、闇はすみやかに消え去るしかない。
神の御言葉は光。神の御言葉は主の祈りの中の「日ごとの糧」ではなく、「御国が来ますように」と語られている「御国」だ。
神の御言葉を聞くとき、神の御国が近づいている。神の御言葉を自分のものとして得る時、御国が来た。光である御言葉=神の御国が来たら、私の中にあった闇は消え去るしかない。
神の御言葉は「日ごとの糧」以上のもの「神の御国」だ。聖霊様の油注ぎも神の御国だ。
私は神の御言葉を主の祈りの「日ごとの糧」に分類していたが、神の御言葉は「日ごとの糧」ではなく、もっと力強く偉大な栄光に満ちた「御国」だ。
主の祈りの「御国」は=三位一体の神からしか受けれないもの。聖書、聖霊様の油注ぎ、癒しの賜物、等、他にも数えきれないほどあって、体、魂だけでなく、その時のその人にとって霊肉魂の祝福となるもの全て。天の祝福。
「日ごとの糧」は=神に贖われていない民も受けることができる神の恵み。地上にある良いもの。地上にある食物、眠り、笑い、等、他にも数えきれないほどあって、その時のその人の体、魂を祝福し健康にしてくれるもの、有益なもの全て。地上の祝福
「試み、悪」は=その時のその人の体や魂や霊に有害なもの全て。
だから聖書は地上のものではなく天のものなので、「日ごとの糧」ではなくて「神の御国」だ。
だから私は聖書を手に持ち言うことができる。『今、ここに神の御国がある』
神の御国は完全に闇を覆い尽くしている。その完全さがどれほどであるかは自然界の地と空を見れば知ることができる。
この世界中、地球上のどこにも、地の上に空がない場所は一点もない。
建物の中に空はないが、建物の上に空がある。バベルの塔の上にさえ空はある。
仮に今の科学力で宇宙に届く建物を築き上げようと、その建物の上に空がなくても、その建物の上に上があり、天があり、神の御国があり、その建物は神の御国の下にある。
地が天に覆い尽くされているように、神の御国は闇を覆い尽くし、神の御国に覆い尽くされていない闇、神の御国の下にない闇は一点もない。
『やみは神の御国に打ち勝たなかった。』(ヨハネの福音書 1章 5節
)
今も後も…そして、神はすでに、やみは神の御国に打ち勝たなかった…と過去形で語っておられる。何故なら神の御国の勝利が完全であるからだ。