シャロームを所有する

私は預言の賜物の回復を願っている。しかし私は預言の賜物を否定する方々を心から尊敬し感謝している。私が預言の賜物を熱心に求めて聖書に従うためなら…私は預言の賜物を否定する方々を不満に思い…全て感謝せよと語る聖書に逆らってよいだろうか?預言を認める牧師先生だけ尊敬し…預言の賜物を否定する牧師先生含む5役者や教団教派の方々を尊敬せず…互いに尊敬しなさいと語る聖書に逆らってよいだろうか?自分が建てたい御言葉を建て上げるために他の御言葉を壊してできた砂の上に自分が建てたい御言葉を建て上げ…家を建ててよいのだろうか?

「サタンはこの地上の王であるかのように見せかけているが、神はアダムの時から今に至るまで地上を人間に与えておられる」

最近、「御国を来たらせたまえ」と祈るための時間を過ごすようになっていたが、何日もしないうちに「御国を来たらせたまえ」と祈っている私の日本語のことばに違和感を感じるようになった。

何故、私が願う以上に御国をこの地に来たらせたいと願っておられる主に「御国を来たらせたまえ」とお願いしているかのようなことばを言わなければならないのだろうか…

もっと違和感のないことばはないだろうか…そう思った時、こんなことばが思い浮かんだ。「主よ。御国を来たらせてくださっていいですよ」「主よ。あなたはこの地に御国を来たらせたいと私以上に願っておられますよね。私もこの地に御国を来たらせてほしいと願っています。御国を来たらせてくださっていいですよ…」

その時、私が思ったことのないことばが次々に思い浮かびはじめた。

神は私たちが神に「許可すること」「ドアを開くこと」を待っておられる。

①「神の権威」と②「神に贖われた神の子である聖徒たちにイエスキリストの御名によって天の御国を地上に来たらせる権威、天の御国の鍵が与えられていること」を理解し、信じている者が神に「許可」するだけで、神の御国は地上に来ることができる。

神は「許可」を待っている。人間がドアを開いてくれるのを待っている。天の御国の鍵を与えられている神の子である聖徒たちがドアを開いてくれるのを待っている。

神はドアを開くことができない。ドアを開く者がいなければ地上の人や地上にあるものに神は介入できない。

何故なら神は地上を人間に与えたからだ。神は地上を人間に与えたので、人間の許可がなければ=人間がドアを開かなければ、地上に入ることができず、神の御国を地上に来させることができない。

神は天を自由に開くことができる。天の御国を地上に近づけることもできる。しかし、天の御国を地上に入らせることはできない。

だから、天の父なる神が遣わしたイエスキリストを王として受け入れる者に、神の御国をこの地上に来たらせる権威、天の御国の鍵を与えた。

神は地上を人間に与えたので、人間は天の御国が地上に入れないように閉じることもできるし、反対に、天の御国が地上に入ることができるように開くこともできる。そのような地上の鍵、地上に関する権威を神は人間に与えておられる。

サタンはそのような地上の鍵をアダムからだまし取って今に至るまでずっと持っているかのように見せかけているが、サタンはそのような地上の鍵を持っていない。

サタンはアダムをだましたが、地上の鍵はアダムの手から奪えていないので、サタンは地上の鍵を一度も手にしたことはない。

神が人間に与えたものをサタンは自分のものにはできない。サタンは地上の鍵を持っていないので、地上の鍵を持っている人間たちに、神の御国が地上に来ないように閉じてもらい、サタンが人間や地上にあるものに介入できるように人間にドアを開いてもらう必要がある。

エペソ人への手紙4章 27節に書いてある"悪魔に機会を与えないようにしなさい。"ということばの元々の意味は「悪魔にドアを開かないようにしなさい」という意味のギリシア語が使用されていると耳にしたことがある。

神から離れれば離れるほどサタンにドアを開くことになる。人間が神から離れる選択をして離れれば離れるほど、その人間にサタンは影響を及ぼし介入することができる。

サタンはドアを開けることはできない。人間に開いてもらう必要がある。

サタンは力はあっても地上にたいして権威はない。地上に関する権威、地上の鍵は人間が持っている。サタンは人間にドアを開いてもらわないと地上で何もできない。

サタンはこの地上に神の御国が来れないように門を閉じることができないなら、何故、神の御国が地上に来ることが妨げられている場所が存在するのだろうか?

神の御国を拒む人間たちが地上にいるからだ。神の御国を拒もうとしてはいなくても、「創造主を王と認めない者」「自分が王になりたいと願っている者」「自分が王だと思っている者」このような人たちは神を拒んでおり、神の御国を拒み、サタンにドアを開いている。

サタンはサタンにドアを開いてくれる人間がいなければ地上で何もできない。

だから、黙示録の獣の刻印はサタンをあらわす、蛇とか竜とかではなく、人間をさしている六百六十六になっている。サタン自身は地上で権威がなく、地上で権威があるのは人間たちだからだ。だからサタンはこの六百六十六の権威、力を利用しているだけだ。

六百六十六は神を地上の王とせず、自分を地上の王とする者たちの集まりをあらわす数字だ。そのことが詩篇 2篇 2〜3節に書いてある。この詩篇 2篇 2節の地の王たち、治める者たちとは、それぞれの国の王や、会社の社長のことだけではない。

この詩篇 2篇 2節の地の王たち、治める者たちとは、創造主を受け入れようとせず、創造主を王とせず、創造主のかせを打ち砕き、創造主の綱を解き捨てようとする全ての人間が含まれている。

"地の王たちは立ち構え、治める者たちは相ともに集まり、主と、主に油をそそがれた者とに逆らう。
「さあ、彼らのかせを打ち砕き、彼らの綱を、解き捨てよう。」"
詩篇 2篇 2〜3節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会

"しかし、その国民たちは、彼を憎んでいたので、あとから使いをやり、『この人に、私たちの王にはなってもらいたくありません』と言った。"

"また、その刻印、すなわち、あの獣の名、またはその名の数字を持っている者以外は、だれも、買うことも、売ることもできないようにした。
ここに知恵がある。思慮ある者はその獣の数字を数えなさい。その数字は人間をさしているからである。その数字は六百六十六である。"
ヨハネの黙示録 13章 17〜18節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会

神の軍と悪魔の軍の2つの勢力の戦いであるということばを耳にしたことがあるが、

それは事実と異なる。実際は〇「神と神を王とする者たち」と●「神を王として受け入れず神に逆らう人間たち」の戦い。サタンはそこに便乗しているだけの存在だ。

旧約聖書に神に逆らう王と神に逆らう王の傍らにいて悪い入れ知恵をする者がいるのを見ることができる。

この地上において、サタンは神に逆らう王のような存在なのだろうか?そうではない。サタンは神に逆らう王のような存在ではない。サタンは神に逆らう王に入れ知恵する者でしかない。サタンは地上において権威も決定権も持っていない。

神は地上を人間に与えた。神は地上をサタンに与えていない。今も地上はサタンのものではなく、人間たちのものだ。

この地上はこの地上にいる全ての人間たち、すなわち「神を王とする人間たち」と「神を王としない人間たち」のものだ。サタンのものではない。サタンは地上の王である人間たちに悪い入れ知恵をすることしかできない。

サタンはこの地上に神の御国が来ないようにすることはできない。人間に悪い入れ知恵をして、神の御国を拒むようにそそのかして誘惑することしかできない。

だから、イエスキリストの御名によって天の御国の鍵が与えられている私たちは「御国を来たらせたまえ」と言って、天を開き、地上に近づけるだけでなく、神によって地上の王とされた人間の1人としてドアを開き迎え入れることができる。

最も簡単に神の御国を来たらせることができる場所は自分自身。「主よ。今日も私に神の御国を来たらせ、今日も私に神の御心をなしてください」と神に祈り「許可」するだけで「そうなる」と信じていれば信じている通りになる。

自分自身と同じくらい簡単に神の御国を来たらせることができる場所は「自分の家族」だ。

"ふたりは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」と言った。"
使徒の働き 16章 31節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会

神と神に逆らう人間たちの戦いにサタンが便乗して、神に逆らう人間に悪い入れ知恵をしているだけなんだったら、神に逆らう人間たちをどうにかすれば解決…と思うだろうか?そうではない。当然のことながら、神に逆らう人間たちをこの地上からいなくならせるための戦争や戦いを神の子である聖徒たちがすることを神は必要としていない。それこそサタンの悪い入れ知恵だ。

今はサタンの悪い入れ知恵に耳を傾けて聞き入れている者であれ、サタンの入れ知恵に心酔している者であれ、神からあまりに遠く離れ過ぎていてサタンにドアを大きく開きすぎてしまっているため、もはや自分では閉じれなくなってしまっいる者であっても、悔い改めて創造主を王として受け入れる可能性がある。

どんな人であろうともまだ生きてさえいるなら、悔い改めて創造主を王として受け入れることができるようになる可能性がある。それこそが不可能はない神の力、イエスキリストの十字架の力、神の御国の力だ。だから、その可能性を摘み取ってはならないとマタイの福音書 13章 24〜30節に以下のように書いてある。

"イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国は、こういう人にたとえることができます。ある人が自分の畑に良い種を蒔いた。
ところが、人々の眠っている間に、彼の敵が来て麦の中に毒麦を蒔いて行った。
麦が芽ばえ、やがて実ったとき、毒麦も現れた。
それで、その家の主人のしもべたちが来て言った。『ご主人。畑には良い麦を蒔かれたのではありませんか。どうして毒麦が出たのでしょう。』
主人は言った。『敵のやったことです。』すると、しもべたちは言った。『では、私たちが行ってそれを抜き集めましょうか。』
だが、主人は言った。『いやいや。毒麦を抜き集めるうちに、麦もいっしょに抜き取るかもしれない。
だから、収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい。収穫の時期になったら、私は刈る人たちに、まず、毒麦を集め、焼くために束にしなさい。麦のほうは、集めて私の倉に納めなさい、と言いましょう。』」"
マタイの福音書 13章 24〜30節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会