「私たちが迫害者に捕らえられた時すべきことは『イエスキリストの御名を否まないこと』なのであって『殉教者として迫害者に殺されること』ではない…殉教できる信仰だけでなく、迫害者に捕らえられた窮地から救い出されると信じる信仰を備える…」
今回はこのようにタイトルを本文にも書かせていただいた。私が今回伝えたいことは今回のタイトルに書いてあることだ。そのことをご理解いただいたうえで以下のことばを読んでいただきたい。
…「私は殉教するつもりはない」…こんなことばを言えば、既存の教会の多くの敬虔なクリスチャンの方々から非難を受けることになるのかもしれない。
何故なら、「殉教するべきだ」と疑いなく信じているのだから。
「もしも、サタンが人々によって自分を迫害し自分を十字架につけ、『十字架から降りれるものなら降りてくるがいい』と自分を嘲ろうとも、信仰を守り通して殉教する」と…そのように考え、それが当然だと疑いなく信じているのだろうから。
当然のことながら「殉教」は非常に尊いことだ。
しかし、非常に尊いことだからこそ、そこに敵の偽り…「すり替え」が隠されている。
敵のその「すり替え」がどこにあるのかをあばき明らかにするために、1つ質問させてもらおう…「イエスキリストの御名を信じる者たちを殺そうとしている人々に、あなたが捕らえられた時、あなたはどうしますか?」…このように質問すれば…「私は殉教します」と即答する人たちがたくさんいるかもしれない。あるいは、「その時になってみないとわからないけど、殉教を拒む者にはなりたくない…」と知恵ある返答の仕方をする人たちもたくさんいるかもしれない。
もちろん「殉教」は非常に尊いことだ。しかし…敵の「すり替え」によって見落としていることがある…。
私たちがすべきことは「イエスキリストの御名を否まないこと」であって「殉教者として殺されること」ではない。
しかし、敵は「殉教者として殺されること」が私たちのすべきことだとすり替えて、偽り、錯覚させ、目隠しをして見えなくしている。敵にとって、クリスチャンに信仰によって殉教者として死なれることは神の御国の力と神の栄光を地に来たらせることになる脅威的なことだが、敵にとってそれ以上に大打撃となる可能性のあることについて気づかれてしまうよりは受ける打撃が少なくてすむ。だからクリスチャンが敵に与える打撃が少なくてすむ選択しかしないように、敵にとって打撃が少なくてすむ道しかないかのようにクリスチャンの目を遮ろうとしている。
「私は殉教します」と即答する方々に質問したい。迫害者に捕らえられたら自分は殺されると決めつけ、殺されることを規定路線にしてしまっていませんか?
「私は殉教します」という告白は「あきらめ」と表裏一体…とまでは言えなくとも、紙一重のことばだ。
あなたが殉教するかしないかはあなたの決めることではない。あなたが殉教するかしないかは神の御手の中にある。あなたが決めるべきこと…あなたが信仰によって選択すべきことは「イエスキリストの御名を否まないこと」と、イエスキリストの御名を否まないあなたを神が大きな死の危険から救い出して栄光を現してくださることをあなたが迫害者に殺される寸前まで…あなたが殺されてしまうまで期待し続けることだ。殺されたとしても、生き返り迫害者たちを驚愕させ、栄光を現すことがあるかもしれないと期待し続けることだ。
あなたが殉教するかしないかは神の御手の中にある。しかし、あなたが「私は殉教する」と勝手に信じて勝手に決めてしまうなら、神の御手にあるべきものを、あなたの手につかみとることになり、あなたが信じて決定してしまっているあなたの筋書きのとおりに、あなたは殉教して死に、イエスキリストの再臨の日まで眠り続けることになる。
絶体絶命の窮地から神があなたを救い出すことによって、あなたを迫害し殺そうとする者たちに神の栄光を現そうと神が予定しておられたとしても、あなたが「私は殉教する」と心の中で決意し告白し、殉教による肉体の死を受け入れているなら、あなたのための神の予定はキャンセルされ、あなたはあなたの信じている筋書きのとおりに迫害者に殺され、肉体は死んで殉教し、主の再臨の日に復活することになるだろう。
以上のことを踏まえて私は…もう1度言おう「私は殉教するつもりはない」…最後までイエスキリストの御名を否むことはしないが…殉教するつもりはない…私の肉体が死ぬ寸前まで、肉体の死から主が救い出してくださることを信じ期待し続ける。
もしも、サタンが人々によって私を迫害し十字架につけ、「十字架から降りれるものなら降りてくるがいい」と嘲ってくるようなことがあれば…十字架から降りるだけでなく、重力を味方につけつつ、私の下で勝利を確信して嘲笑っているサタンに勢い良く飛び蹴りをして、そのままサタンを踏みつけることができると私は信仰によって信じ期待し続ける。……こんなことを言えば、既存の教会の多くの敬虔なクリスチャンたちは「なんということだ…クリスチャンとしてあるまじき信じられない行為だ…」…とあきれ果てるのだろうか…?
では…もう1つ質問させてもらおう。「キリストの体である教会(私)の定位置は十字架の上ですか?それとも、敵の頭の上ですか?」この質問にどんな解答を持っていますか?
…では、答え合わせをしましょう。イエス様の定位置は十字架の上なのだろうか?…違う。イエス様の定位置は十字架の上ではない。今、イエス様は十字架の上にはおられない。だから、イエス様の体である教会(私)の定位置は十字架の上ではなく、敵の頭の上だ。そのためにイエス様はただ1度十字架の上にあげられて下さったのだから。
だから…私は殉教する気はない…イエスキリストの御名を否まず殉教しそうになっている全ての窮地から主は私を救い出し、私を迫害し殺そうとする者に栄光を現すことによって、迫害者たちにさえも救われる機会を与えてくださる…そのように、私が死ぬ寸前まで信じ期待し…いや、死んだ後も生き返って迫害者たちが驚き惑うことすらも私は信仰によって期待し続ける。
私が「殺されて殉教すること」以上に神の栄光が現される筋書きを神は持っておられるかもしれないのだから。
敵は「殉教すること以上に神の栄光が現される」ことを恐れ、その可能性を封じてしまいたいと願って「殉教しなさい」と神のふりをして語り、そのような聖書的ではない、偏った聖書理解、間違った聖書解釈のパン種を私たちの信仰の中に混ぜ混もうとしている。
主が「わたしを信じなさい。わたしはあなたを迫害し殺そうとしている者の手からあなたを救い出し、わたしの栄光を現す」と語っておられる時、敵は神のふりをして、「わたしの名のために殉教することをおそれるな」と偽りを語る。
もし、私が迫害され殺されそうになっても、私を迫害し殺そうとする者たちが私を殺すことができず、私を殺そうとする者たちに神の栄光、力、奇跡が現され、私が殺されない以上のことを神がしてくださると私は期待し続ける。
ぺテロの時と同じで私も実際にできるかどうかは神の御手の中にあることだが、私が殺されて死ぬ直前まで期待し続けることが私の理想であり、私がそうありたいと願い、そうなるかもしれないと信仰によって期待している理想だ。
あなたは待ってましたと殉教の死を歓迎して受け入れるのですか?
あなたが信じた通りになる。神はあなたを殉教の死の危険から救う計画があったのに、あなたが最初から殉教して死ぬことを規定路線にして信じているなら神があなたに与えてくださっていた逆転勝利の可能性は閉ざされることになるだろう。
主の再臨の時に復活できる希望を手につかみながら、この地上で生きることを諦めて殉教しますか?
主の再臨の時に復活できる希望だけでなく、この地上での迫害者による大きな死の危険から救い出される希望をさいごまで手につかみ続けますか?
殉教するかもしれない大きな死の危険が目前に迫ってきた時の聖書的な模範については、ダニエル書 3章 17〜18節にこのように書いてある。"もし、そうなれば、私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。王よ。神は私たちをあなたの手から救い出します。
しかし、もしそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝むこともしません。」"
この時、この信仰のことばが神の御国を来たらせ、王の心をひっくりかえし、国をひっくりかえした。
日本のおびただしい殉教者たちが、自分たちを殺す迫害者たちの前で信仰を保ち続け神の栄光を現し続けた。
そのおびただしい殉教者の血によって多くの霊的な壁は打ち破られ、その恩恵を受けている私たちは自由に聖書を読み、親しみ続けることができている。
私たちはこのような信仰の父、信仰の母である方々を尊敬し、感謝し、その恵みを無駄にせず、信仰の父と信仰の母が殉教の血を流し打ち破ってくれた壁の先に立ち、前に進んで行くべきだ。
それとも、私たちは信仰の父と母の足あとをなぞるだけにとどまり、信仰の父と信仰の母が殉教の血を流し打ち破ってくれた壁の先に進んで行くことをしないのだろうか?
信仰の父と信仰の母が迫害者に殺され、殉教者としての栄光を現したように、
私たちは迫害者に殺され、殉教者としての栄光を現す信仰だけでなく、
迫害者がどんなに殺そうとしても殺すことができず、迫害者に殺されることなく神の奇跡と栄光を現すことができる信仰者、都市を王を国をひっくりかえすことができる信仰者として生きることができる。
私たちは信仰の父と信仰の母のように、迫害者に殺される敗者として神の栄光を現す勝利者となるだけでなく、
迫害者がどんなに殺そうとしても殺すことができない勝利者として神の栄光を生きて現し続ける勝利者となることができる。
何故なら私たちは歴史の中に数えきれないほど存在している信仰の父と信仰の母から「多くを受けた者」今、現在も数えきれないほど存在している信仰の父と信仰の母から「多くを受けた者」、唯一の霊の父から「多くを受けた者」であるのだから。
"まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。"
ヨハネの福音書 14章 12節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会
"ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。
それは、私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく、
むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。"
エペソ人への手紙 4章 13〜15節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会
"主人の心を知りながら、その思いどおりに用意もせず、働きもしなかったしもべは、ひどくむち打たれます。
しかし、知らずにいたために、むち打たれるようなことをしたしもべは、打たれても、少しで済みます。すべて、多く与えられた者は多く求められ、多く任された者は多く要求されます。"
ルカの福音書 12章 47〜48節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会
"もし、そうなれば、私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。王よ。神は私たちをあなたの手から救い出します。
しかし、もしそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝むこともしません。」"
ダニエル書 3章 17〜18節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会
"ところが神は、これほどの大きな死の危険から、私たちを救い出してくださいました。また将来も救い出してくださいます。なおも救い出してくださるという望みを、私たちはこの神に置いているのです。"
コリント人への手紙第二 1章 10節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会
"平和の神は、すみやかに、あなたがたの足でサタンを踏み砕いてくださいます。どうか、私たちの主イエスの恵みが、あなたがたとともにありますように。"
ローマ人への手紙 16章 20節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会
"まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。"
ヨハネの福音書 14章 12節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会