シャロームを所有する

私は預言の賜物の回復を願っている。しかし私は預言の賜物を否定する方々を心から尊敬し感謝している。私が預言の賜物を熱心に求めて聖書に従うためなら…私は預言の賜物を否定する方々を不満に思い…全て感謝せよと語る聖書に逆らってよいだろうか?預言を認める牧師先生だけ尊敬し…預言の賜物を否定する牧師先生含む5役者や教団教派の方々を尊敬せず…互いに尊敬しなさいと語る聖書に逆らってよいだろうか?自分が建てたい御言葉を建て上げるために他の御言葉を壊してできた砂の上に自分が建てたい御言葉を建て上げ…家を建ててよいのだろうか?

「何故、隣人をさばいてはならないのか?『私は目が見える』と言ってはならないからだ」

主は何故、「隣人をさばいてはならない」と言われたのか?

愛がないから?そうではない。神と隣人を愛しているからこそ、自分自身の目に神の御心からずれているように見える隣人を見ると、怒り、不満、悲しみ、教えたい思いが押さえきれないほど泉のように沸き出てくる。それは、神を愛し、隣人を愛しているからだ。

中には「自己顕示欲を満たし」「他者を見下し優越感に浸り」ストレスを発散させたい、「自分で自分自身が価値があると思える証拠がほしい」…といった動機で隣人を教えたり、教えようとする人もゼロではないだろうが…。

神を愛し、隣人を愛しているからこそ、教えたい。自分の教えに同意して従わない者に怒り、苛立ち、不満、悲しみを感じても、それでも教えようとする人は神を愛し、隣人を愛しているからこそ教えようとする。

神を愛し、隣人を愛している人は、ストレスをその身に負うことになろうとも、教えようとすることをやめない。

そして、自分の教えに同意しない者、従わない者に怒ったり、苛立ってしまったりして、主に「愛が足りないことを赦して下さい。もっと愛の人につくり変えてください」といったことを祈る。

御心にかなった祈りなので愛はさらに増し加えられる。しかし、自分の教えに同意し従わない者に怒ったり、苛立ってしまう原因は愛が足りないからではない。

神を愛し、隣人を愛しているからこそ、自分の教えに同意し従わない者に怒ったり、苛立ってしまっているなら、隣人をさばいてしまうのは愛がないからではない。

神は何故、隣人をさばいてはならないと語っておられるのだろうか?隣人をさばくだなんて愛がないことをしてはならないから?

そうではない。「隣人をさばくだなんて『私は見える』と言っているにも等しいこと」をしてはならないからだ。

エス様は『私は見える』と言ってはならないと言われた。

エス様は「もし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。」とも言われた。

「あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません」とは=「あなたがたの罪は残る」ということだ。何故か…人を赦さない罪、人をさばく罪は、『私は見える』と言っているに等しいことであるからだ。

エス様は「あなたがたは今、『私たちは目が見える』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。」と言われた。

『私は見える』と心の中で信じている者は隣人をさばく。

『私は見える』と心の中で信じている者は=善悪の知識の木の実を心の中に宿し、持っているので、心の中、あるいは言動によって隣人をさばく。隣人をさばくことが善悪の知識の木の実を宿すものが生じる実であるからだ。

『私は見える』と信じている人は心に苛立ち怒りを感じることは避けれない。心の苛立ち、怒りは善悪の知識の木の実を宿す者に必ず与えられる刑罰としての呪いであり、荊(いばら)であるからだ。

エス様は「わたしはさばきのためにこの世に来ました。それは、目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」と言われた。

確かに、イエス様は目を開くために来てくださった。しかし、イエス様は目を開くためだけでなく、目を閉じるためにも来てくださった。

目を開くためだけでなく、善悪の知識の木の実によって開いてしまった目を再び閉じてくださるためにもイエス様は来てくださった。

"そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。
このようにして、ふたりの目は開かれ、"
創世記 3章 6〜7節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会

エス様は善悪の知識の木の実によって開いてしまった目を閉じ、再びエデンの園にいさせるために、エデンの園でアダムがすべきだったがし損ねた「すべての事について主に感謝して生きる」という生き方ができる特権を回復させるためにも来てくださった。

どのようにすれば善悪の知識の木の実によって開いてしまった目を閉じていただくことができるのだろうか?

自分の善悪の知識、善悪の判断は不完全であることを認め、善悪の知識の木の実を手放し放棄して、唯一、善悪の知識を完全に知り尽くしておられる主に王冠を捧げることによって、心の中がエデンの園のようになり、シャロームに満ちた神の御国となる。

心の中がいつもエデンの園であるなら、どこに行っても、どこにいても、エデンの園のようになる。

善悪の知識の木の実を心に宿すなら…さばくなら…隣人が間違っていると決めつけるなら…その罪の刑罰として土地、心が呪われて、荊(いばら)が生え…苛立ち、不満、怒りという蕀(いばら)が心に生える。

善悪の知識の木の実を心に宿す者、『私は見える』と言い、隣人が間違っていると決めつけて、隣人の上に立ち、王のようにふるまう者の王冠は呪われて荊の冠となる。

善悪の知識の木の実を心に宿し、荊の冠を頭にかぶっているなら…土地=心が呪われて荊(いばら)が生えているなら、心に苛立ちが生えていれば、どこに行っても、どこにいても、棘が心に突き刺さる。

不完全な善悪の知識しかなく、不完全な判断しかできないのに、完全な善悪の知識を知り尽くし、完全な判断ができる王であるかのように隣人が間違っていると決めつけ、王ではないのに王のようにふるまい自称した罪の刑罰を、まことの完全な王であるイエス様が身代わりに受けてくださった。荊の冠を…。

十字架で、その荊の冠を頭にかぶりながら「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」ととりなしてくださったイエス様に王冠を捧げることによって、

自分自身が不完全な善悪の知識、不完全な判断しかできない者であることを認め、隣人が間違っていると、「神の御心は隣人がこうすることだ」と心の中で決めつけることをやめて、

善悪の知識の木の実を放棄し、王冠を主に捧げるなら、荊の冠の呪い、土地、心に生える荊(いばら)、苛立ち、怒りから救い出され解放され、

心はシャロームに満ちた神の御国となる。

隣人が間違っていると決めつけなくなれば、隣人が自分の助言を受け入れなくても、「主はこの隣人を『私が良いと思う方向』とは別の方向に導こうとしておられるのかもしれない」…といったことを思えるようになり、心は荊、苛立ち、怒りから守られる。

「もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。
しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。」…イエス様が語られたこのことばの直前に書かれていること、この1つ前の節でイエス様が語られていることは何であろうか?

主の祈りだ。

"私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。
私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』〔国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。〕
もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。
しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。"
マタイの福音書 6章 12〜15節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会