シャロームを所有する

私は預言の賜物の回復を願っている。しかし私は預言の賜物を否定する方々を心から尊敬し感謝している。私が預言の賜物を熱心に求めて聖書に従うためなら…私は預言の賜物を否定する方々を不満に思い…全て感謝せよと語る聖書に逆らってよいだろうか?預言を認める牧師先生だけ尊敬し…預言の賜物を否定する牧師先生含む5役者や教団教派の方々を尊敬せず…互いに尊敬しなさいと語る聖書に逆らってよいだろうか?自分が建てたい御言葉を建て上げるために他の御言葉を壊してできた砂の上に自分が建てたい御言葉を建て上げ…家を建ててよいのだろうか?

「①エデンの園でサタンが人を誘惑することに成功したのは、神が人を意図的に まだ未完成のままにしておられたからだ。神は陶器師のように創造した最高の作品を火の中に入れて麦のようにふるいにかけて試すことによって、神の完全な創造を完成させる①」…創世記1章

1️⃣(混乱が洪水のように押し寄せる時代に備えるために、≪神の不動の主権≫について深く理解することによって、砂ではなくて不動の岩の土台に移動する)

前回のブログでイエスキリストの十字架の啓示と預言は創世記のはじめのはじめである1章1節~5節にすでに書かれていたことについて書かせていただいた。

アダムとエバが善悪の知識の木の実をくちにした後の創世記の3章15節の時よりも前…アダムとエバが善悪の知識の木の実をくちにするよりも前…太陽も月も星もなかった時から…イエスキリストの十字架の啓示と預言は創世記のはじめのはじめである1章1節~5節にすでに書かれていたことについて理解することは…砂の土台から岩の土台に移されるような大いなる変革の時をもたらす鍵となり、主なる神と聖書全体についての理解力が大きく変革される招きのドアとなる。今のコロナウィルスの時代は…この地上に混乱の時代が洪水のように押し寄せる時に備えて足場を補強しておくべき時であり、警告の角笛が鳴り響いている時だ。今、コロナウィルスによって、警告の角笛が鳴り響いている。コロナウィルス以上の混乱が洪水のように押し寄せる時代に備えよ…と警告する角笛が鳴り響いている。だから今は、これまで以上に足場をさらに補強するために与えられ備えられている恵みの時だ。

コロナウィルスの時が深まってきていた2020年11月頃、私は≪神の主権≫ということを深く思い巡らすようになり、≪神の主権≫について私のブログに書くようになった。そして、私がブログを書きはじめた最初の時から…私が書いたほとんどの内容の主軸は≪神の主権≫を認めてへりくだることに置かれていたことについて、2021年の5月1日頃から、深く思い巡らすようになった。私がブログを最初に書きはじめた時は、≪神の主権≫について書こうとしている自覚はまだなかった。「全てのことについて神に感謝できるようになること」と「全ての人を尊敬することができるようになること」について書きたいと思って、ブログを書きはじめただけだった。しかし、≪神の主権≫について深く思い巡らしながら日々を過ごしていると…「全てのことについて神に感謝できるようになること」と「全ての人を尊敬することができるようになること」のためには≪神の主権≫を認めてへりくだることが必要不可欠であることについて、2021年の5月1日頃から思い巡らすようになった。

2️⃣(神の完全な主権について深く理解する時、神の愛について、義について深く理解できるようになる。しかし、「砂」、「泥」が≪神の完全な主権≫についての理解をにごらせている)

多くのクリスチャンにとって「全てのことについて神に感謝できるようになること」と「全ての人を尊敬することができるようになること」があまりにもハードルが高くなってしまっている理由は……神が「愛なる神」であることと、神が「義なる神」であることについては、心から深く認め知っていても、≪神が完全な主権者であることについての理解≫がまだ不十分であるからだ。本当に≪神が完全な主権者であることについて深く理解して深く認めることができている人≫は…全てのことについて神に感謝することができている生活という実が生じ…全ての人を尊敬することができている生活という実が生じる。

聖書が「神がすべての事を益としてくださる」と語っていることばに同意してへりくだることによって、神の主権の下に身を避ける者は➡️➡️全てのことについて神に感謝することができるようになり、➡️➡️全ての人を尊敬することができるようになる。何故なら、神の主権の下には神のシャロームが満ちているからだ。

聖書が「神がすべての事を益としてくださる」と語っていることばに深く同意することが困難になってしまっているのは……≪神の主権について≫の理解と真理が「砂」、「泥」によって、にごらされてしまっていて、見えずらくなっているためだ。

だから、≪神の主権について≫の理解と真理をにごらせている「砂」、「泥」を取り除き、➡️➡️≪神の主権について≫の理解と真理の啓示のドアが開かれる時、➡️➡️義なる神の愛の高さ深さ広さについて深く理解することができるようになり、➡️➡️「神がすべての事を益としてくださる」と語る聖書のことばに深く同意できるようになり、➡️➡️全てのことについて神に感謝できるようになり、➡️➡️全ての人を尊敬することができるようになることによって、➡️➡️神のシャロームが回復され、神のシャロームが満ちるようになる。

だから、「全てのことについて神に感謝できるようになること」と「全ての人を尊敬することができるようになること」のために必要不可欠な鍵は……≪神が完全な主権者であることを深く理解すること≫にある。

3️⃣(神の完全な主権の岩についての理解をにごらせている「砂」、「泥」を取り除き、岩の上に家を建てる)

≪神が完全な主権者であることの理解≫を大いに深めてくれる最高の教材は……『神の天地創造』だ。『神の天地創造』ほど≪神が完全な主権者であること≫を証明している最高の視覚教材は他に存在しない。

この≪神が完全な主権者であることを理解すること≫を助けてくれる最高の視覚教材となる『神の天地創造』とは、《創世記の3章15節がはじめの十字架の啓示と預言であるとする前提(土台、基)の上にある天地創造》のことではない。

《創世記の3章15節がはじめの十字架の啓示と預言であるとする天地創造のストーリー(歴史)》は、神が「愛の神」であることと、「義なる神」であることとを理解するための視覚教材としてはすぐれている。私自身もこの視覚教材によって神の愛と神の義について、霊的リーダーの方々から色々と教えてもらい、色々と理解することができた。

しかし、この《創世記の3章15節がはじめの十字架の啓示と預言であるとする天地創造のストーリー(歴史)》を視覚教材としていたのでは≪神の主権≫について深く理解することは難しいどころか、≪神の主権≫についての理解をぼやけさせ、にごらせてしまう。何故なら……≪神の主権≫とは=『神がそうすると決めたら誰ひとりとして絶対にくつがえすことができない』…これこそが≪神の主権≫であるからだ。『神の計画(願い)は必ずその計画(願い)のとおりになる』…それこそが≪神の主権≫だ。…だから、《創世記の3章15節がはじめの十字架の啓示と預言であるとする天地創造のストーリー(歴史)》を視覚教材としていたのでは「神の愛」と「神の義」については見ることができても、≪完全な主権者である神≫の偉大さと栄光は、にごらされてしまっていて、ぼんやりとしているために、ほとんど見ることができない。

何故なら、この《創世記の3章15節がはじめの十字架の啓示と預言であるとする天地創造のストーリー(歴史、解釈、理解)》は『神の第一志望(神の第一希望)が一時的にではあっても閉ざされ(延期され)てしまったストーリー(歴史)』であり、『神の願いのとおりにならなかったストーリー(歴史)』であり、『神の最初の計画のとおりにならなかったストーリー(歴史)』となっているからだ。

何故なら、この《創世記の3章15節がはじめの十字架の啓示と預言であるとする天地創造のストーリー(歴史、解釈、理解)》は以下のような天地創造のストーリー(歴史、解釈、理解)となっているからだ…。『神はアダムとエバが蛇の誘惑に勝利して善悪の知識の木から取って食べることなく、いのちの木から取って食べることによって、永遠のいのちを得ることを願い計画しておられたが、アダムとエバは蛇に誘惑されてしまい、神の願い(計画)どおりにはならなかった。だから、一時的にではあっても神の願いは実現しなくなり、神の計画は延期になってしまった…。』しかし、『もしもアダムとエバが蛇に誘惑されてしまい善悪の知識の木から取って食べてしまって失敗してしまった場合でも、イエスキリストの十字架によって贖い救い、完全な回復ができるように、神は最初から備えてくださっていた…』そのようなわけで、『残念ながら、蛇に誘惑されてアダムとエバが善悪の知識の木から取って食べてしまったために神は【進路変更】をすることになった』…このように《創世記の3章15節がはじめの十字架の啓示と預言であるとする天地創造のストーリー(歴史)》は『神が【進路変更】をすることになったストーリー(歴史)』となっている……
……しかし……完全な主権者である神に【進路変更】は存在しない。完全な主権者である神は最初から計画されていたことを最初から計画されていたとおりに【進路変更】することなくまっすぐに完成させる。

4️⃣(人間の願望と、“さまざまの思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶり”と、“はかりごと”によって捏造され、偽造され、つくりだされた≪神はサタンに計画を妨げられる神である≫という神話と要塞)

「アダムとエバが善悪の知識の木から取って食べてしまい失敗してしまったので、神は、イエスキリストの十字架によって贖い救い出す道(計画、歴史)に進路変更してくださった」…といった意見もあるだろう。…しかし、人間が愛と認めることができる愛や、人間が義と認めることができる義…人間が愛だと納得できる愛や人間が義だと納得できる義が…神の愛、神の義なのではない。何故なら……天が地よりもはるかに高いように神の愛と神の義は人間の愛と人間の義よりもはるかに高く深く広いからだ。"「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。--主の御告げ--
天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。
雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ、種蒔く者には種を与え、食べる者にはパンを与える。
そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。"(イザヤ書 55章 8〜11節)

人間が神に期待している理想の愛と義を神に押しつけ、人間が神に期待している理想の愛と義という箱の中に神を無理やりつめこめて閉じ込めようとするなら、人間の期待どおりではない完全な主権者である神の偉大な愛と義を理解することは困難であるため…エデンの園でアダムとエバがサタンに誘惑される前から、創世記の1章1節~5節にイエスキリストの十字架の啓示と預言があった事実を受け入れることは困難だ。何故なら、「ではアダムとエバがサタンに誘惑されて善悪を知る知識の木からとって食べることは最初から決まっていたことだったのか?」…と人間の愛と人間の義が反発しようとしてつまずきが生じてしまうからだ。

しかし、人間が理想として思い描く神の愛と義よりも、はるかに高く深く広く、人間の理想どおりではない完全な主権者である義なる神の偉大な愛について聖書は以下のように語っている……"なぜなら、神は、すべての人をあわれもうとして、すべての人を不従順のうちに閉じ込められたからです。"…………
…………すべての人を不従順のうちに閉じ込めたのは「誰」だと書いてありますか?「サタン」ですか?「善悪の知識の木から取って食べたアダムとエバ」ですか?「人の罪」ですか?すべての人を不従順のうちに閉じ込めたのは「神」だと書いてあるではありませんか。この事実を受け入れることができない人や認めたくない人は、愛の神はそんなことをなさるはずがない…それをしたのは「サタン」だ…「善悪の知識の木から取って食べたアダムとエバ」だ…「人の罪」だ…という神話をつくりだし…『すべての人を不従順のうちに閉じ込めることなどするはずがない神』を捏造し、偽造し、つくりだし…人間が「それでこそ愛の神だ…」と納得できる愛の神を得るために…誰も触れることができない完全な主権の座から神を引きずり下ろすことができるかのように、人間が神に期待している理想の愛と義という箱の中に神を無理やりにつめこめて閉じ込め、『サタンに計画を妨げられる神』を捏造してつくりだし、『サタンに計画を妨げられる神の天地創造のストーリー(歴史)』を捏造し、偽造してつくりだし、自分自身が『サタンに計画を妨げられる神のストーリー(歴史)』という箱の中で生き、そのようなことを信じている信仰のとおりに、自分自身が『サタンに計画を妨げられる神のストーリー(歴史)』の登場人物の1人であるかのように、自分自身が『サタンに妨げられてしまう人間のストーリー(歴史)』の中を歩いている。

『神の実際の史実とは異なる神の物語』をつくりだし、『人間が勝手につくりだした神話』を信じ、『サタンに計画を妨げられる神のストーリー(歴史)』を信じて同意してしまっている信仰のとおりに、『サタンに計画を妨げられる神』を信じている信仰という砂が土台となってしまっているために➡️➡️すべてのことについて神に感謝して生きることができる岩の上に建てられている安定がない。≪神が完全な主権者である≫という真理の岩を土台とするのであれば、神の民はすべてのことについて神に感謝して生きることができるようになる。

人間が「それでこそ愛の神だ…」と納得できる愛の神を得るために、完全な主権者である神の主権の一部分を引き裂き、完全な主権者である神の完全な主権のひときれをサタンに差し出してしまっているのは誰なのだろうか?

しかし、誰がどのように信じようと神はサタンの手が全く届かない絶対的な主権の御座に着いておられる。しかし、サタンの手が全く届かない絶対的な主権の御座に着いておられる岩ではなくて、地上の「砂」の上に家を建てているなら、その人はその信仰のとおりの人生を刈り取り、収穫しながら砂の上を歩くことになる。

5️⃣(神が完全な主権によってすべての人を不従順のうちに閉じ込めたのは、すべての人に「あわれみ」を与えることによって、すべての人にイエスキリストの十字架の恵み=「いのちの木」から取って食べることができる恵みの機会、恵みの時を与えるため)

神は、"すべての人を不従順のうちに閉じ込められた"…これこそが人間の理解をはるかにこえた神の愛と義だ。神は、何故、すべての人を不従順のうちに閉じ込められたのだろうか?

神がすべての人を不従順のうちに閉じ込められたのは……すべての人に『神のあわれみ』を与えるためだ。"なぜなら、神は、すべての人をあわれもうとして、すべての人を不従順のうちに閉じ込められたからです。"(ローマ人への手紙 11章 32節)

「神のあわれみ」こそ、神の最も高く最も深く最も広い愛であり、神の栄光に満ちている愛だ。神はすべての人に神の最高の愛である「神のあわれみ」を与えようと最初から決めておられた…だから、創世記の1章1節~5節にイエスキリストの十字架の啓示と預言がある。神はすべての人に神の最高の愛である「神のあわれみ」=「イエスキリストの十字架の愛」を与えようと最初から決めておられた。すべての人に神の最高の愛である「神のあわれみ」=「イエスキリストの十字架の愛」を与えるために…サタンがアダムとエバを誘惑して、アダムとエバに善悪を知る木から取って食べさせることによって、アダムとエバとその子孫である全ての時代の全ての人間を不従順のうちに閉じ込める許可を≪神が≫≪サタンに与えた≫…このようにして、完全な主権者である神の天地創造ははじまった。

神はアダムとエバと、その子孫である全ての時代の全ての神の民をイエスキリストの十字架によって完成させると最初から決めておられた。だから、創世記のはじめのはじめである創世記の1章1節~5節にイエスキリストの十字架の預言が啓示されている。はじめから神はイエスキリストの十字架によって天と地の創造を完成させようと決めておられたからだ。完全な主権者である神の天地創造はアルファでありオメガであるイエスキリストの十字架からはじまり、アルファでありオメガであるイエスキリストの十字架によって完全に完成する。……これが『人間の理解をはるかにこえた完全な主権者である義なる神の愛に満ちた天地創造のストーリー(歴史)』だ。愛なる神、義なる神、完全な主権者なる神に栄光あれ。ハレルヤ。

"これは主のなさったことだ。私たちの目には、不思議なことである。』」"
マルコの福音書 12章 11節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会

"なぜなら、神は、すべての人をあわれもうとして、すべての人を不従順のうちに閉じ込められたからです。
ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。
なぜなら、だれが主のみこころを知ったのですか。また、だれが主のご計画にあずかったのですか。
また、だれが、まず主に与えて報いを受けるのですか。
というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。"
ローマ人への手紙 11章 32〜36節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会

"「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。--主の御告げ--
天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。
雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ、種蒔く者には種を与え、食べる者にはパンを与える。
そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。
まことに、あなたがたは喜びをもって出て行き、安らかに導かれて行く。山と丘は、あなたがたの前で喜びの歌声をあげ、野の木々もみな、手を打ち鳴らす。
いばらの代わりにもみの木が生え、おどろの代わりにミルトスが生える。これは主の記念となり、絶えることのない永遠のしるしとなる。」"
イザヤ書 55章 8〜13節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会