シャロームを所有する

私は預言の賜物の回復を願っている。しかし私は預言の賜物を否定する方々を心から尊敬し感謝している。私が預言の賜物を熱心に求めて聖書に従うためなら…私は預言の賜物を否定する方々を不満に思い…全て感謝せよと語る聖書に逆らってよいだろうか?預言を認める牧師先生だけ尊敬し…預言の賜物を否定する牧師先生含む5役者や教団教派の方々を尊敬せず…互いに尊敬しなさいと語る聖書に逆らってよいだろうか?自分が建てたい御言葉を建て上げるために他の御言葉を壊してできた砂の上に自分が建てたい御言葉を建て上げ…家を建ててよいのだろうか?

1️⃣~4️⃣「①創世記1章のはじめからあったイエスキリスの十字架の啓示と預言『はじめからあった光』=創世記1章1節、『ただ1度だけ死んだ光』=創世記1章2節、『死からよみがえった光』=創世記1章3節、『死から復活した初穂となった光、父なる神に最初に良しとされた光、高く上げられて闇に永遠に打ち勝った光』=創世記1章4節」…創世記1章

1️⃣(創世記1章1節から存在していた光はただ1度だけ死んで、死からよみがえった=創世記1章3節)

創世記1章で神が最初に名前をつけた描写が書かれているのは「昼」と「夜」だ。…"神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕があり、朝があった。第一日。"(創世記 1章 5節)

しかし、昼が昼と名づけられ、夜が夜と名づけられた創世記1章5節よりも前の創世記1章2節には水についての描写が書かれている。神が昼と夜を名づける描写は創世記1章5節に書かれているのに、神が昼と夜を名づける前の創世記1章2節から書かれている水のことを 神が「水」と名づけておられる描写が創世記1章5節よりも前に書かれていないのは何故なのだろうか…何故なら、神によって昼が昼と名づけられ、夜が夜と名づけられるよりもっと前から…創世記1章2節よりもっと前から、神は水を創造しておられ、水を「水」と名づけておられ、水はすでに存在していたからだ。

水だけではなくて光も昼と夜が名づけられる前から神によって「光」と名づけられていて、すでに存在していた。

それまで全く存在していなかった光が創世記1章3節の時に神によってはじめて創造されて存在するようになったのではない。…もしそうであったとしたら…創世記1章1節で はじめに神が天と地を創造された時には まだ光は存在していなくて、天と地は真っ暗だったのだろうか…?…創世記1章1節のはじめのはじめから闇が存在していたのだろうか…?…創世記1章1節の時はサタンも闇もまだ全く存在せず光が満ちていた。創世記1章3節よりも前から…創世記1章2節よりも前から…光は「光」と名づけられていて、すでに存在していた。創世記1章3節で神は「光あれ」と語られて「光」の名を呼び「光」に命じておられる。まだ全く存在していないものの名を呼ぶことができようか?…神ならできるだろう。まだ全く存在していないものの名を呼んで命じることによって、まだ全く存在していなかったものを創造して存在するようにさせることも神ならできる。しかし、…「神は混乱の神ではなく、平和の神だからです。」…と聖書は語っている。神は正しい神の順序で事を行われる。…神は まだ全く存在していないものを創造し、神に創造されて存在するようになったものに名前をつけ、存在させたものの名を呼ばれる。

昼と夜が名づけられた創世記1章5節よりも前の節で光が「光」と名づけられ、水が「水」と名づけられる描写が書かれていないのは、創世記1章2節よりも前に神は光を「光」と名づけ、水を「水」と名づけておられたので、1度名づけたものをもう1度 名づける必要はなかったからだ。…神は創世記1章2節よりも前に光のことを「光」と名付けておられ、光はすでに存在していた。

しかし、創世記1章2節よりも前から神によって「光」と名づけられて存在していた光は創世記1章2節の時には失われていた。だから、創世記1章2節では光についての描写が書かれていない。…"地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。"(創世記 1章 2節)

創世記1章2節の時よりも前に存在していたが、創世記1章2節の時には失われていた光を、神は創世記1章3節の時に復活させてくださった。…"神は仰せられた。「光があれ。」すると光があった。"(創世記 1章 3節)

2️⃣(昼は夜のフタ【蓋】)

"また、箱の上には、贖罪【蓋】を翼でおおっている栄光のケルビムがありました。"(ヘブル人への手紙 9章 5節)

創世記1章2節の時にはすでに闇についての描写が書かれており、すでに闇が存在していた。創世記1章2節の時にすでに闇が存在していたのは、創世記1章2節の時にはすでにサタンと悪霊が存在していたからだ。サタンと悪霊が全く存在していないのであれば、闇は全く存在しない。

黙示録の中で「悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇」と書かれているサタンは創世記1章2節の時にはすでに存在していたので、創世記1章2節の時にはすでに闇が存在していた。

創世記1章1節の時には、サタンはまだ全く存在していなかったので、闇も全く存在していなかった。闇がまだ全く存在していなかった時には昼も夜も存在していなかった。闇がなければ昼も夜も存在できないからだ。…「闇がないなら、夜がないだけでずっと昼なのではないだろうか」…と思うだろうか?

闇(夜)が全く存在しないなら、昼は存在しない。何故なら、昼とは=光によって夜が消し去られている時間のことであるからだ。光が夜を一時的に消し去っている時間が昼であるから、闇が全く存在していなかった創世記1章1節の時にはまだ昼は存在していなかった。

創世記1章1節の時にはまだ存在していなかった昼が創世記1章4節の時に はじめて存在するようになったので、神は昼を「昼」と名づけられた。それまで全く存在していなかった昼が「昼」と名づけられたように、それまで全く存在していなかったものがはじめて存在するようになった時に名がつけられる。名がつけられるのはそれまで全く存在していなかったものがはじめて存在するようになった時だ。

闇がまだ全く存在していなかった時、光はすでに存在していたが昼は存在していなかった。まだ闇が全く存在していなかった時に満ちていた光は昼という名ではなかった。夜を消す光が昼であるからだ。夜を消している光が昼なのであって、夜を消していない光は昼ではない。夜を消していない光は昼ではなくて光だ。だから、光に消されるべき夜がまだ存在していないなら、昼も存在することはできない。…白夜という現象がある。「白夜」と「創世記1章1節の闇がまだ全く存在していなかった時」とは別物だ。世界には白夜になる地域が存在する。白夜になる地域では白夜の時期になると何時になっても外が真っ暗にならない。しかし、白夜の時期であっても夜が全く存在しなくなっているのではない…見えなくなっているだけだ。白夜の時期にも夜は存在しているが白夜というフタによってフタされていて見えなくなっているだけだ。だから、この「白夜の時間」と「創世記1章1節の闇が全く存在していなくて光が満ちていた時」とは別物だ。

白夜は夜が全く存在していない時間ではない。白夜は地上に存在している夜を太陽の光が打ち消している時間だ。白夜は夜が全く存在していない時間なのではなく、夜が太陽の光によってフタされて見えなくなっている時間だ。フタの中に夜はまだ存在し続けている。白夜の時期が終わればフタされて見えなくなっていた夜は再びその姿を現す。白夜とは「長い昼」だ。長い昼であろうと昼であることに変わりはない。昼とは=「地上と天の大空に存在している夜の上に太陽の光でフタをしている時間」のことであり、この夜にフタをしているフタが昼だ。光が夜のフタとなる時に、夜のフタとなっている光が昼だ。光が夜のフタとなっている時に そのフタの名は昼と呼ばれる。

この夜にフタをする昼は太陽につかさどられている。長い昼である白夜も昼であることにかわりはないので、白夜も太陽につかさどられている。だから、もしも太陽が滅びてなくなれば、白夜になる地域が白夜の時期であろうともその地域の上の天の大空は暗くなり、その地域は暗くなる。もしも太陽がなくなれば白夜の明るさは地上から消えてなくなる。何故なら白夜も太陽につかさどられている昼であるからだ。太陽がなくなれば昼はなくなる。何故なら昼は太陽につかさどられているからだ。

昼とは夜が太陽の光によって、昼というフタによってフタされている時間だ。昼とは太陽の光によって地上が照らされることによって、地上の夜が消し去られている時間だ。この昼は大きいほうの光る物と聖書に書いてある太陽につかさどられている。新改訳2017年版では「つかさどらせた」ではなく「治めさせた」ということばが使われている。

"神は二つの大きな光る物を造られた。大きいほうの光る物には昼をつかさどらせ、小さいほうの光る物には夜をつかさどらせた。また星を造られた。"(創世記 1章 16節)

聖書に、大きいほうの光る物…と書いてある太陽がまだ創造されていなかった時から光はあった。昼が存在するようになり、昼が昼と名づけられる前から、太陽がまだ創造されていなかった時から、光は存在していた。サタンも闇もまだ存在せず、太陽もまだ存在していなかった時から光は存在していた。その時…闇はまだ全く存在せず光が満ちていた…けれども、それは昼という名ではなかった…その時…太陽はまだ存在していなかったが、光が満ちていた…太陽を必要としない光は昼ではない。太陽によってつかさどられていない光は昼ではない。

…その日、その時が来る…サタンも悪霊も闇もまだ全く存在せず、昼も夜もなく、太陽が存在していなくても光が満ちていた創世記1章1節の時のように…サタンも悪霊も闇も完全に消え去ることによって、夜も完全に消え去り、太陽の光によって夜を照らして夜にフタをする必要がなくなる時が来る。闇が全く存在しなくなるので夜も全く存在せず、光が永遠に満ち続ける時が来る。

3️⃣(神が光と闇の間に定められた区別と秩序=闇は光に打ち勝たなかった)

創世記1章1節の時には、まだサタンも闇も全く存在していなかった。神がサタンを創造したのではない。神が素晴らしく創造した御使いのリーダーが自分の素晴しさに魅入られてしまったために高ぶり、ごうまんになってしまったのでサタンになり、神が素晴らしく創造した御使いの何割かがサタンに従ってついて行ったので悪霊となった。そして、サタンと悪霊たちは、その時まではまだ全く存在していなかった闇を満たし、闇が存在するようになった。

そして、サタンと悪霊は闇を満たして光を消し去り、闇を満たして闇によって光にフタをした。

…闇が光を消し去ることなんてできるはずがないと思うだろうか?そのとおり。闇が光を消し去ることは絶対にない。聖書に「やみは光に打ち勝たなかった」と書いてあるので、闇が光を消し去る現象を決して見ることはできない。「やみは光に打ち勝つことがない」という神の定めた秩序は何者であっても絶対に変えることはできない。…しかし、創世記1章1節の時も、創世記1章2節の時も「やみは光に打ち勝つことがない」という神の秩序はまだ定められていなかった。この「やみは光に打ち勝つことがない」という神の秩序が定められるのは創世記1章4節の時だ。…"神は光とやみとを区別された。"
(創世記 1章 4節)…だから、創世記1章4節よりも前の創世記1章1節の時と創世記1章2節の時には光と闇との区別はまだされておらず、「やみは光に打ち勝つことがない」と神がお定になられた秩序はまだ定められてはいなかった。

創世記1章1節の時にはまだ全く存在していなかったサタンと悪霊がはじめて存在するようになった時、「やみは光に打ち勝つことがない」という神の秩序はまだ定められてはいなかったので、サタンと悪霊は闇を満たして光を消し去った。闇が光にフタされて闇が見えなくなるように、光は闇にフタをされて見えなくなった。しかし、父なる神は水の上を動いておられた神の霊(御霊)と「光あれ」と仰せられた父なる神のことば(イエスキリス)により再び光をよみがえらせた。そして、神は復活させた光を見て良しとされた。そして、この時に、神は もう2度と闇が光を消し去り、光が闇によってフタをされて見えなくなってしまうことがないように…必ず光が闇に打ち勝つ秩序…「やみは光に打ち勝つことがない」という秩序を何者も決して覆すことができない神の絶対的な権威によってお定めになった。神は光と闇との間に神の秩序を定めることによって、光と闇を区別された。神は「やみは光に打ち勝つことがない」という秩序を光と闇の間に明確に定め、「やみは光に打ち勝つことがない」という区別を光と闇の間に定められた。だから絶対に光と闇は混ざることがない。光がある場所に闇は存在できない。光がない場所でしか闇は存在できない。昼がない場所でしか夜は存在できない。神は光と闇の間にこのような秩序を定め、光と闇との区別を定められた。神は「やみは光に打ち勝つことがない」という秩序を光と闇の間に定め、光と闇の間に完全な秩序と完全な区別を置き、神の定め、神の秩序としてお定めになられた。

創世記1章4節で…"神は光とやみとを区別された。"(創世記 1章 4節)…と書いてあるように神は光と闇の区別(秩序)を定められた。しかし、創世記1章4節の前には神が光と闇の間に定められた区別(秩序)がまだなかったので、サタンと悪霊は闇によって光を消し去り、闇によって光にフタをすることができた…だが、「闇は光に打ち勝つことがない」という神の秩序、神の区別が創世記1章4節で定められた時以降、闇が光に打ち勝つことを見ることは2度とない。「やみはこれに打ち勝たなかった」と聖書に過去形で書かれているのは、闇が光に打ち勝つことは永遠にないからだ。

4️⃣(創世記1章5節=神は復活させた光を高く上げ「夜を消し去るもの」=「昼」という名を与えられた)

神は、「闇は光に打ち勝つことがない」という神の秩序、神の区別を創世記1章4節で定めた後で、光に昼という名を与え、闇に夜という名を与えた。神がシモンにぺテロという名を与え、シモンをぺテロとならせたように、神は光に昼という名を与えた。「光よ。あなたは闇に1度だけ消し去られ、闇にフタをされて見えなくされていたが、もはや2度とあなたが闇に消し去られ、闇にフタをされることはない。今から後、あなたはどんな時にも必ず闇を消し去り、闇の上にあり、闇に覆いかぶさり、闇に打ち勝つようになる。何者もこの秩序と定めを覆すことはできない。だから今、あなたを『昼』と名づける。あなたはどんな時にも必ず闇を消し去り、闇の上にあって、闇に覆いかぶさり、闇に打ち勝つ光=『昼』であるからだ。『昼』であるあなたが存在している場所に『夜』は存在することができない。」

「闇よ。お前は光を消し去り、光にフタをして見えなくしていたが、もはや2度とお前が光を消し去り、光にフタをすることはない。今から後、お前はどんな時にも必ず光に消し去られ、光はお前の上にあって、光はお前に覆いかぶさり、光はお前に必ず打ち勝つようになる。何者もこの秩序と定めを覆すことはできない。だから今、お前を『夜』と名づける。お前はどんな時にも必ず光に消し去られ、光の下にあり、光に覆われて見えなくなり、永遠に光に打ち勝つことがない闇=『夜』であるからだ。だから闇よ。今、お前を『夜』と名づける。もはや2度と『昼』が存在している場所に『夜』であるお前は存在することができなくなったからだ。」

エスキリスの十字架の啓示が一番最初に書いてあるのは創世記何章何節だろうか?創世記3章15節だろうか?

…アダムとエバを誘惑した蛇に神が語られた創世記3章15節のことばが救い主イエスキリスについて1番はじめに語られている聖書箇所なのだろうか?

"わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」"(創世記 3章 15節)

救い主イエスキリスの啓示、救い主イエスキリスの十字架の啓示と預言は創世記1章のはじめのはじめから書いてある。

救い主イエスキリスの啓示、救い主イエスキリスの十字架の啓示と預言は、アダムとエバがまだ蛇に誘惑されていなかった時より前から、アダムとエバがまだ存在していなかった時より前から、太陽も月も星もまだ存在していなかった時より前から、創世記1章のはじめのはじめから書いてある。

創世記1章のはじめのはじめから、救い主イエスキリスの啓示…救い主イエスキリスの十字架の啓示と預言は聖書のはじめのはじめから書かれている。

創世記1章1節=イエスキリスがはじめからあるように、光は創世記1章1節のはじめからあった。

創世記1章2節=イエスキリスがただ1度死なれたように、光は創世記1章2節で1度だけ死んだ。

創世記1章3節=イエスキリスが「3」日目によみがえられたように、創世記1章「3」節で光はよみがえった。

創世記1章4節=復活したイエスキリスがすべての名の上に高く置かれたように、復活した光は創世記1章4節で闇(夜)の上に高く置かれた。

創世記1章5節=復活したイエスキリスがすべての名にまさる名を与えられたように、復活した光は創世記1章5節で「夜」にまさる「昼」という名を与えられた。

創世記1章4節=死からよみがえられた初穂である長子イエスキリスの義によって義とされるように、父なる神がはじめに良しとされたのは1章4節で父なる神がよみがえらせた光であった。

"光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。"
ヨハネ福音書 1章 5節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会

"すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。"
エペソ人への手紙 1章 21節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会

"それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。"
ピリピ人への手紙 2章 9節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会

"初めに、神が天と地を創造した。
地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。
神は仰せられた。「光があれ。」すると光があった。
神は光を見て良しとされた。神は光とやみとを区別された。
神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕があり、朝があった。第一日。"
創世記 1章 1〜5節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会