シャロームを所有する

私は預言の賜物の回復を願っている。しかし私は預言の賜物を否定する方々を心から尊敬し感謝している。私が預言の賜物を熱心に求めて聖書に従うためなら…私は預言の賜物を否定する方々を不満に思い…全て感謝せよと語る聖書に逆らってよいだろうか?預言を認める牧師先生だけ尊敬し…預言の賜物を否定する牧師先生含む5役者や教団教派の方々を尊敬せず…互いに尊敬しなさいと語る聖書に逆らってよいだろうか?自分が建てたい御言葉を建て上げるために他の御言葉を壊してできた砂の上に自分が建てたい御言葉を建て上げ…家を建ててよいのだろうか?

3️⃣~4️⃣/4️⃣「①創世記1章のはじめからあったイエスキリスの十字架の啓示と預言『はじめからあった光』=創世記1章1節、『ただ1度だけ死んだ光』=創世記1章2節、『死からよみがえった光』=創世記1章3節、『死から復活した初穂となった光、父なる神に最初に良しとされた光、高く上げられて闇に永遠に打ち勝った光』=創世記1章4節」…創世記1章

3️⃣(神が光と闇の間に定められた区別と秩序=闇は光に打ち勝たなかった)

創世記1章1節の時には、まだサタンも闇も全く存在していなかった。神がサタンを創造したのではない。神が素晴らしく創造した御使いのリーダーが自分の素晴しさに魅入られてしまったために高ぶり、ごうまんになってしまったのでサタンになり、神が素晴らしく創造した御使いの何割かがサタンに従ってついて行ったので悪霊となった。そして、サタンと悪霊たちは、その時まではまだ全く存在していなかった闇を満たし、闇が存在するようになった。

そして、サタンと悪霊は闇を満たして光を消し去り、闇を満たして闇によって光にフタをした。

…闇が光を消し去ることなんてできるはずがないと思うだろうか?そのとおり。闇が光を消し去ることは絶対にない。聖書に「やみは光に打ち勝たなかった」と書いてあるので、闇が光を消し去る現象を決して見ることはできない。「やみは光に打ち勝つことがない」という神の定めた秩序は何者であっても絶対に変えることはできない。…しかし、創世記1章1節の時も、創世記1章2節の時も「やみは光に打ち勝つことがない」という神の秩序はまだ定められていなかった。この「やみは光に打ち勝つことがない」という神の秩序が定められるのは創世記1章4節の時だ。…"神は光とやみとを区別された。"
(創世記 1章 4節)…だから、創世記1章4節よりも前の創世記1章1節の時と創世記1章2節の時には光と闇との区別はまだされておらず、「やみは光に打ち勝つことがない」と神がお定になられた秩序はまだ定められてはいなかった。

創世記1章1節の時にはまだ全く存在していなかったサタンと悪霊がはじめて存在するようになった時、「やみは光に打ち勝つことがない」という神の秩序はまだ定められてはいなかったので、サタンと悪霊は闇を満たして光を消し去った。闇が光にフタされて闇が見えなくなるように、光は闇にフタをされて見えなくなった。しかし、父なる神は水の上を動いておられた神の霊(御霊)と「光あれ」と仰せられた父なる神のことば(イエスキリス)により再び光をよみがえらせた。そして、神は復活させた光を見て良しとされた。そして、この時に、神は もう2度と闇が光を消し去り、光が闇によってフタをされて見えなくなってしまうことがないように…必ず光が闇に打ち勝つ秩序…「やみは光に打ち勝つことがない」という秩序を何者も決して覆すことができない神の絶対的な権威によってお定めになった。神は光と闇との間に神の秩序を定めることによって、光と闇を区別された。神は「やみは光に打ち勝つことがない」という秩序を光と闇の間に明確に定め、「やみは光に打ち勝つことがない」という区別を光と闇の間に定められた。だから絶対に光と闇は混ざることがない。光がある場所に闇は存在できない。光がない場所でしか闇は存在できない。昼がない場所でしか夜は存在できない。神は光と闇の間にこのような秩序を定め、光と闇との区別を定められた。神は「やみは光に打ち勝つことがない」という秩序を光と闇の間に定め、光と闇の間に完全な秩序と完全な区別を置き、神の定め、神の秩序としてお定めになられた。

創世記1章4節で…"神は光とやみとを区別された。"(創世記 1章 4節)…と書いてあるように神は光と闇の区別(秩序)を定められた。しかし、創世記1章4節の前には神が光と闇の間に定められた区別(秩序)がまだなかったので、サタンと悪霊は闇によって光を消し去り、闇によって光にフタをすることができた…だが、「闇は光に打ち勝つことがない」という神の秩序、神の区別が創世記1章4節で定められた時以降、闇が光に打ち勝つことを見ることは2度とない。「やみはこれに打ち勝たなかった」と聖書に過去形で書かれているのは、闇が光に打ち勝つことは永遠にないからだ。

4️⃣(創世記1章5節=神は復活させた光を高く上げ「夜を消し去るもの」=「昼」という名を与えられた)

神は、「闇は光に打ち勝つことがない」という神の秩序、神の区別を創世記1章4節で定めた後で、光に昼という名を与え、闇に夜という名を与えた。神がシモンにぺテロという名を与え、シモンをぺテロとならせたように、神は光に昼という名を与えた。「光よ。あなたは闇に1度だけ消し去られ、闇にフタをされて見えなくされていたが、もはや2度とあなたが闇に消し去られ、闇にフタをされることはない。今から後、あなたはどんな時にも必ず闇を消し去り、闇の上にあり、闇に覆いかぶさり、闇に打ち勝つようになる。何者もこの秩序と定めを覆すことはできない。だから今、あなたを『昼』と名づける。あなたはどんな時にも必ず闇を消し去り、闇の上にあって、闇に覆いかぶさり、闇に打ち勝つ光=『昼』であるからだ。『昼』であるあなたが存在している場所に『夜』は存在することができない。」

「闇よ。お前は光を消し去り、光にフタをして見えなくしていたが、もはや2度とお前が光を消し去り、光にフタをすることはない。今から後、お前はどんな時にも必ず光に消し去られ、光はお前の上にあって、光はお前に覆いかぶさり、光はお前に必ず打ち勝つようになる。何者もこの秩序と定めを覆すことはできない。だから今、お前を『夜』と名づける。お前はどんな時にも必ず光に消し去られ、光の下にあり、光に覆われて見えなくなり、永遠に光に打ち勝つことがない闇=『夜』であるからだ。だから闇よ。今、お前を『夜』と名づける。もはや2度と『昼』が存在している場所に『夜』であるお前は存在することができなくなったからだ。」

エスキリスの十字架の啓示が一番最初に書いてあるのは創世記何章何節だろうか?創世記3章15節だろうか?

…アダムとエバを誘惑した蛇に神が語られた創世記3章15節のことばが救い主イエスキリスについて1番はじめに語られている聖書箇所なのだろうか?

"わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」"(創世記 3章 15節)

救い主イエスキリスの啓示、救い主イエスキリスの十字架の啓示と預言は創世記1章のはじめのはじめから書いてある。

救い主イエスキリスの啓示、救い主イエスキリスの十字架の啓示と預言は、アダムとエバがまだ蛇に誘惑されていなかった時より前から、アダムとエバがまだ存在していなかった時より前から、太陽も月も星もまだ存在していなかった時より前から、創世記1章のはじめのはじめから書いてある。

創世記1章のはじめのはじめから、救い主イエスキリスの啓示…救い主イエスキリスの十字架の啓示と預言は聖書のはじめのはじめから書かれている。

創世記1章1節=イエスキリスがはじめからあるように、光は創世記1章1節のはじめからあった。

創世記1章2節=イエスキリスがただ1度死なれたように、光は創世記1章2節で1度だけ死んだ。

創世記1章3節=イエスキリスが「3」日目によみがえられたように、創世記1章「3」節で光はよみがえった。

創世記1章4節=復活したイエスキリスがすべての名の上に高く置かれたように、復活した光は創世記1章4節で闇(夜)の上に高く置かれた。

創世記1章5節=復活したイエスキリスがすべての名にまさる名を与えられたように、復活した光は創世記1章5節で「夜」にまさる「昼」という名を与えられた。

創世記1章4節=死からよみがえられた初穂である長子イエスキリスの義によって義とされるように、父なる神がはじめに良しとされたのは1章4節で父なる神がよみがえらせた光であった。

"光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。"
ヨハネ福音書 1章 5節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会

"すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。"
エペソ人への手紙 1章 21節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会

"それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。"
ピリピ人への手紙 2章 9節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会

"初めに、神が天と地を創造した。
地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。
神は仰せられた。「光があれ。」すると光があった。
神は光を見て良しとされた。神は光とやみとを区別された。
神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕があり、朝があった。第一日。"
創世記 1章 1〜5節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会