シャロームを所有する

私は預言の賜物の回復を願っている。しかし私は預言の賜物を否定する方々を心から尊敬し感謝している。私が預言の賜物を熱心に求めて聖書に従うためなら…私は預言の賜物を否定する方々を不満に思い…全て感謝せよと語る聖書に逆らってよいだろうか?預言を認める牧師先生だけ尊敬し…預言の賜物を否定する牧師先生含む5役者や教団教派の方々を尊敬せず…互いに尊敬しなさいと語る聖書に逆らってよいだろうか?自分が建てたい御言葉を建て上げるために他の御言葉を壊してできた砂の上に自分が建てたい御言葉を建て上げ…家を建ててよいのだろうか?

「①神の主権により神が開き神が閉じる①この地上のどこにも敵の勝利は微塵たりとも存在しない。現在だけでなく過去にも、未来にも敵の勝利はどこにもない。全地は神の主権と勝利で満ちている…それこそが神の御国のシャロームだ」

私たちが自分たちの目でこの地上を見渡したり、自分たちの耳でニュース等を聞く時、ひどく痛ましいことの数々を見聞きする。

私たちが見聞きするそれらの痛ましいことの数々は、まるで敵の勝利の数々であるかのように見えるかもしれない。

しかし、それらはどれ1つとして敵の勝利ではない。

ノアの時代、ノアたち8人といのちの息のあるすべての肉なるものが、二匹ずつ(雄と雌が)箱舟の中に入った時、神が箱舟のうしろの戸を閉ざされたと聖書に書いてある。(創世記 7章 15〜16節)

「箱舟に入る機会」、「ノアの箱舟の時代における救いの機会」を閉ざされたのは神だ。

もしも神がまだ開いておくと決めておられる戸を敵が閉じることができたなら、それは敵の勝利であり、神の敗北と言うことができるだろう。

だが神に敗北は1つもなく、敵の勝利は1つもない。すべての戸は神の主権によって神が決定したとおりに、神が閉じ、神が開くからだ。

「彼が開くとだれも閉じる者がなく、彼が閉じるとだれも開く者がない」と聖書に書かれている。これこそが神の主権だ。

そして、このような神の主権を、父なる神がイエスキリストにお与えになることについての預言が旧約聖書に以下のように書いてある。

"わたしはまた、ダビデの家のかぎを彼の肩に置く。彼が開くと、閉じる者はなく、彼が閉じると、開く者はない。"(イザヤ書 22章 22節)

またこうも書いてある。"ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、"(イザヤ書 9章 6節)

このように、イエスキリストの肩にダビデのかぎ(主権)を置く、主権(ダビデのかぎ)はイエスキリストの肩にあると聖書は語っている。

そして、イエスキリストが十字架にかかり、死んで、よみがえり、天に上げられ、父なる神の右の座(父なる神の主権の御座)に着かれたことによって、この旧約聖書イザヤ書 22章 22節に書いてある預言がすでに成就していることについて新約聖書ヨハネの黙示録に以下のように書いてある。

"ダビデのかぎを持っている方、彼が開くとだれも閉じる者がなく、彼が閉じるとだれも開く者がない、その方がこう言われる。"
ヨハネの黙示録 3章 7節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会

「彼が開くとだれも閉じる者がなく、彼が閉じるとだれも開く者がない」これが神の主権であり、イエスキリストが父なる神からお受けになった「ダビデのかぎ」=「神の主権」であり、神の永遠の勝利だ。イエスキリストを信じて救われた者たちが永遠のいのちを持っているのは何故か?イエスキリストを信じて救われた者たちは神と共に永遠の勝利を持っているからだ。死すらも、神と共に永遠の勝利を持っている者を閉じ込めておくことはできない。死をも打ち破る勝利…これが永遠のいのちだ。

①父なる神が、父なる神の主権によってイエスキリストをよみがえらせてくださったように、②父なる神から主権をお受けになったイエスキリストが私たちひとりひとりをよみがえらせてくださる。

①父なる神の主権によって→イエスキリストのよみがえり(使徒の働き 2章 24節)

②父なる神の主権をお受けになったイエスキリストによって→イエスを信じるひとりひとりのよみがえり(ヨハネ福音書 6章 40節)

①"しかし神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです。"
使徒の働き 2章 24節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会

②"事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。」"
ヨハネ福音書 6章 40節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会

"最後の敵である死も滅ぼされます。
「彼は万物をその足の下に従わせた」からです。"
コリント人への手紙第一 15章 26〜27節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会

"「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」"
コリント人への手紙第一 15章 55節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会

敵の勝利はこの地上のどこにもない。何故なら神の勝利、神の御国のシャロームが全地に満ちているからだ。

この地上で誰かが神の目に悪であることを行なったとしても、神の敗北ではなく、敵の勝利ではない。

神はその誰かがその悪を行う前に、その誰かの息を取り去ることもできるし、その誰かのいのちを取り去らずに、生かしたままで、その悪を行えなくすることもできる。(詩篇 104篇 29節)

神がそうなさらないのは、神がすべてのことを働かせて益とすることができるからだ。(ローマ人への手紙 8章 28節)

神の目に悪であることを行なった者にとっても、その被害者にとっても、他の第三者や他の全ての人にとっても、益とならせることが神にはできる。

誰かにとって益とならないこと、誰かにとって耐えられないほどの試練となることは誰ひとりとして何1つこの地上で行えないし、何1つ起こり得ない。神が主権者であるからだ。(コリント人への手紙第一 10章 13節)

神の目に悪であることを行ない続けていた者が悔い改めて神に立ち返るなら、神の目に悪であることを行ない続けていた過去はその悪を行っていた本人にとってすらも益になる。神の目に悪であることを行ない続けていた過去は過ぎ去り、神の栄光をよりくっきりと見せ、証しすることができる背景となるからだ。

もしも、神の目に悪であることを行ない続けていた者がさいごまで悔い改めずに神に立ち返ることなく死んだとしても、神の敗北とはならない。

神の目に悪であることを行ない続けていた者のことを神に訴え殺そうとしているサタンにたいして「彼のいのちには触れるな」と命じ御手でかばい覆い守り続けてくださっていた神が、「彼のいのちには触れるな」と命じることをやめて、御手でかばい覆い守ることをやめ、神の目に悪であることを行ない続けてさいごまで悔い改めなかった者のいのちにサタンが触れることを神が許可し、神の目に悪であることを行ない続けていた者をサタンは何らかの死因で死なせる。このようにして、神の主権によって神が、神の目に悪であることを行ない続けていた者の悔い改める機会を神が閉ざし、神が終わらせておられるのだから、悪を行い続けてさいごまで悔い改めなかった者の死と死後の滅びは神の敗北ではない。

"主はサタンに仰せられた。「では、彼をおまえの手に任せる。ただ彼のいのちには触れるな。」"
ヨブ記 2章 6節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会

今、私たちが生きているのは、神が神の主権によってサタンに今生きている私たちのいのちに触れるなと命じてくださっているからだ。

もし、神が神の主権によってサタンに、今生きている人々のいのちに触れるなと命じることをやめて、その御手でかばい守ることをやめたなら、全人類は死に絶えて滅びるだろう。しかし、サタンとその配下がそうしたくてもそうすることができないのは、神が永遠の主権者、永遠の勝利者であるからだ。

神の目に悪であることを行ない続けている者が行う悪事の被害者が悪人であろうと、義人であろうと、被害者の悪人にとっても、被害者の義人にとっても益とすることが神にはできる。

すべてのことを、生きているすべての人にとっての益とならせることが神にはできる。そうでなければ、「すべてのことについて感謝しなさい」とどうして言うことができるだろうか。

すべてのことを、生きているすべての人にとっての益とすることができる神が、すべてのことを、すべての人にとっての益となるようにしてくださっている。そのことが益にならない人、そのことが耐えられない試練となる人が世界に1人でもいるなら、そのことは起こらないように神の主権によって神がことごとく閉ざされるので、そのようなことは何1つとして起こり得ない。

起こり得たすべてのことは、すべての人にとって益となる。益とならないことは神が主権者として見張っておられるので起こり得ない。だから神は生きているすべての人に「すべてのことについて神に感謝しなさい」と語っておられる。すべてのことが生きているすべての人にとって益となるからだ。

起こり得たそれらのすべてのことは益となる。神はすべてのことが起こる前に、益にならないことは1つも起こらないように閉じ、益になることは起こることを許可して開き、益になることだけしか起こらないように見張っておられる。

主権者であられる神が見張っておられるので、サタンはすべての人にとって益にならないことは1つも通過させることができない。

それら起こり得たすべてのことの1つ1つは神が許可して開いたので起こり得ている。それら起こり得たすべてのことの1つ1つは生きているすべての人にとって益となる。

益とならないのは、さいごまで悔い改めることなく死んで、悔い改める機会を永遠に失ってしまった者たちだけだ。

全て感謝できる益なら私たちは何もせず、なすがままにしていればいいのだろうか?そうではないことについて次回は書かせていただくつもりだ。聖書は言っている。あなたの願いを用いなさい。願い、求め、捜し、たたきなさい…

敵の勝利はこの地上のどこにもない。何故なら神の勝利、神の御国のシャロームが全地に満ちているからだ。

"入ったものは、すべての肉なるものの雄と雌であって、神がノアに命じられたとおりであった。それから、主は、彼のうしろの戸を閉ざされた。"
創世記 7章 16節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会

"あなたが御顔を隠されると、彼らはおじ惑い、彼らの息を取り去られると、彼らは死に、おのれのちりに帰ります。"
詩篇 104篇 29節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会

"わたしはまた、ダビデの家のかぎを彼の肩に置く。彼が開くと、閉じる者はなく、彼が閉じると、開く者はない。"
イザヤ書 22章 22節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会

"フィラデルフィヤにある教会の御使いに書き送れ。『聖なる方、真実な方、ダビデのかぎを持っている方、彼が開くとだれも閉じる者がなく、彼が閉じるとだれも開く者がない、その方がこう言われる。"
ヨハネの黙示録 3章 7節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会

"あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。"
コリント人への手紙第一 10章 13節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会

"神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。"
ローマ人への手紙 8章 28節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会

"すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。"
テサロニケ人への手紙第一 5章 18節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会

"ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。"
イザヤ書 9章 6節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会