シャロームを所有する

私は預言の賜物の回復を願っている。しかし私は預言の賜物を否定する方々を心から尊敬し感謝している。私が預言の賜物を熱心に求めて聖書に従うためなら…私は預言の賜物を否定する方々を不満に思い…全て感謝せよと語る聖書に逆らってよいだろうか?預言を認める牧師先生だけ尊敬し…預言の賜物を否定する牧師先生含む5役者や教団教派の方々を尊敬せず…互いに尊敬しなさいと語る聖書に逆らってよいだろうか?自分が建てたい御言葉を建て上げるために他の御言葉を壊してできた砂の上に自分が建てたい御言葉を建て上げ…家を建ててよいのだろうか?

「⑤神の主権により神が開き神が閉じる⑤私たちの役割は何も思い煩わずに全てのことについて感謝しながら求め捜したたくこと④」

贖われた神の子たちにとって「いつも全てのことについて神に感謝して生きること」は最後に残された最大の難関ではなくて最も基礎的な土台。最も最初にあるべき平らな土台だ。

最も基礎的な土台であり、最も最初にあるべき平らな土台とは…「神が完全な愛と知恵に満ちた完全な主権者であることを深く理解して認める信仰」であり、「贖われた神の子たちに必要な最も基礎的な土台であり、最も最初にあるべき平らな土台となる信仰」だ。

神が完全な愛と知恵に満ちた完全な主権者であることを深く理解して認めることができるようになると…いつも全てのことについて神に感謝することができるようになるという実が結ばれるようになる。

神が完全な愛と知恵に満ちた完全な主権者であることを深く理解して認めている者はいつも全てのことについて神に感謝することができる。過去、現在に起こり得た全てのことも、これから起こり得る全てのことも神に感謝することができるという「実」によって神が完全な愛と知恵に満ちた完全な主権者であることを深く理解して認めている者であることを証明することができる。

神に非常に多くの従順を捧げていたとしても、神に非常に多くの従順を捧げていることは、神が完全な愛と知恵に満ちた完全な主権者であることを深く理解して認めている証拠とはならない。神に非常に多くの従順を捧げているという非常に尊い「実」によって神をどれほど愛しているかを証明することはできていても、神が完全な愛と知恵に満ちた完全な主権者であることを深く理解して認めている証拠の「実」とはならない。

多くのクリスチャンは神に従順することが最も重要だと語る。確かに神に従順することは重要だ。しかし、神に非常に多くの従順を捧げることよりも、神にいつも全てのことについて感謝を捧げて生きることの方がもっと重要だ。

仮に、多くの従順できていないあれこれがあったとしても全てのことについて神に感謝できていることの方がもっと重要だ。

神に従順を捧げることは確かに重要なことだ。しかし、いつも全てのことについて神に感謝できていることは、神に非常に多くの従順を捧げること以上に重要だ。

何故なら神にいつも全てのことについて感謝しなさいと書いてあるみことばだけは横に置いておいて従うことを保留にしながら…他の多くのみことばに従っている人の非常に多くの従順の数々は自分自身を高ぶらせる理由となって高ぶりを生じさせ、その生じた高ぶりは他者を尊敬せずに見下してさばく理由となってさばきを生じさせるからだ。

何故そのような高ぶり、さばきが生じるのだろうか?それは最初に土台として置くべきものが置かれていないために生じている「ズレ」だ。

例えば、できるだけ多くの箱を積み重ねたいのであれば、最初の1つ目の箱を置く地面は平らである必要がある。もし、平らに見える地面に見えないほどに小さな石粒があって…平らな地面ではなく、1つの小さな石粒によって平らではなくなっている地面の上に最初の1つ目の箱を置いたなら…箱は肉眼では見えず判別できないが微かに傾いた状態になる。しかし、肉眼では少しも傾いていないように見える。そして、そのまま箱を1つ1つ積み重ね続けても何の問題もなく積み重ね続けることができる。しかし、小さな石粒1つ分とか、非常に薄いダンボール1枚分とかの微かな傾きがあるかないかの差は最後のいくつかを積み重ねようとした時に明らかになる。Aの平らな地面の上に平らに置かれた1つ目の箱の上に積み上げ続けた箱と…Bの地面が平らではないため微かに傾いて置かれることになった1つ目の箱の上に積み上げ続けた箱…AとBとの違いは後に明らかに現される。Aの平らな地面であれば最後まで全部積み重ねることができているのに…Bの薄いダンボール1枚分、小さな石粒1つ分の傾きを放置したまま積み重ねられ続けた箱の上には最後の1つか2つかを積み重ねることができない。

それと同じように「神にいつも全てのことについて感謝を捧げること」は平らな地面、平らな土台だ。「神にいつも全てのことについて感謝を捧げること」という平らな土台の上に他のみことばに従順することを1つ1つ積み重ねなければならない。

「神にいつも全てのことについて感謝を捧げること」という平らな土台を後回しにして、他のみことばに従順することを1つ1つ積み重ねることはできる。しかし、最後まで残された「神にいつも全てのことについて感謝を捧げる従順」とその他のいくつかの従順を積み上げて全うすることができなくなる。

「神にいつも全てのことについて感謝を捧げること」という平らな土台を後回しにして、他のみことばに従順することを1つ1つ積み重ねることはできる。しかし、肉眼では傾いているように見えていなくても最初からすでに傾いており、最初から「ズレ」が生じている。

「神にいつも全てのことについて感謝を捧げること」という平らな土台を後回しにして神に捧げた1つ目の従順はズレた土台、平らではない地面の上に置かれている。

「神にいつも全てのことについて感謝を捧げる従順」…この従順こそ神に最初に捧げられるべき従順であり、いつも神に捧げられ続けるべき従順だ。

「神にいつも全てのことについて感謝を捧げる従順」を後回しにしている者たちの従順はどのような地面、どのような土台の上に置かれているのだろうか?

…「私はどのことが神の御心か神の御心でないかを分別できる」という土台の上に置かれている。

もしかしたら、「いいえ、私にはわかりません。主が私に教えてくださるのです。」と言う人がいるかもしれない。そうであるなら…「私にはわからないけれども、主が私に教えてくださるので、私はどのことが神の御心か神の御心でないかを分別できる」…これが土台となっている。「私はわかる」も「主が教えてくださるので私はわかる」も「私はわかる」という土台だ。

「私は神様にぜんぜん従順できていない」と言う人がいる。「私は神様にぜんぜん従順できていない」と言うことができるのは何故だろうか。…「私はどのことが神様に従順することで、私はどのことが神様に従順しないことなのかがわかる」からだ。「どのことが神の御心で、どのことが神の御心ではないかがわかる」からだ。

「私は神様にぜんぜん従順できていない」と言う人も、「私は神様に従順で忠実な者だ」と言う人も、土台は同じ…「私はわかる」という土台の上に人生が築き上げられている。

「私はどうすることが神に従順することで、どうすることが神に従順しないことなのかがわかる」…これが「神にいつも全てのことについて感謝を捧げる従順」を後回しにしている者たちが従順を積み上げている土台だ。

「私はわかる」という土台に従順を積み上げている人は「自分が神に従順できていることがわかる」「他者が神に従順できていないことがわかる」だから「さばく」だから「非難する」だから「見下す」…何故なら「わかる」「わかっている」と思っているからだ。

《①自分を見る時のズレ》もしかしたら神に従順できていないかもしれないのに…自分は神に従順できていると思って他者を見下して高ぶり、それとは反対に、もしかしたら神に従順できているかもしれないのに自分は従順できていないと自己卑下して思い煩う。

これらは平らな土台が土台となっていないことによって最初からすでに生じている「ズレ」だ。平らな土台を土台とせずに他の従順を積み重ねれば積み重ねるほど、この「ズレ」は大きくなり、不安定になり揺れ動きやすくなる。

《②他者を見る時のズレ》他者が神の御心にかなっていることをしているかもしれないのに、神の御心にかなっていないことをしていると決めつけて尊敬せずに、見下し、非難し、さばき、怒る。これらは平らな土台が土台となっていないことによって最初からすでに生じている「ズレ」だ。平らな土台を土台とせずに他の従順を積み重ねれば積み重ねるほど、この「ズレ」は大きくなり、不安定になり揺れ動きやすくなる。

私が神の御心だと思って大いに労苦して実行したことが神の御心ではなく、神が願っておられることではなかったとしたら…それを「神に従順した」と言うことはできるだろうか…?神の御心と思って大いに労苦して実行したことなら、神の御心ではなかったとしても「神に従順した」と言えるだろうか?「神を愛した」と言うことはできるし、捧げた愛と犠牲を神は受け入れおぼえていてくださる…だが「神に従順した」と言うことはできない…。私たちの従順とはこのように不安定なものだ。神がそれぞれに願っておられる従順を神に捧げることができているかどうかに平安と感謝と喜びが左右されるなら…揺れ動き続けることになる。

私たちは神に不完全な従順しか捧げることはできない。何故なら…『私たちの分別は不完全』であるからだ。しかし、いつも全てのことについて神に感謝を捧げることはできる。私たちの分別は不完全で、私たちの従順は不完全であっても…いつも全てのことについて神に感謝を捧げることはできる。全てのことについて感謝することに分別は必要ない。このことについては神に感謝しなさい。しかし、このことについては神に感謝してはいけません…と書いてあるのではなく、全てのことについて神に感謝しなさいと書いてあるので「神に感謝するべきこと」と「神に感謝するべきではないこと」とを分別をする必要はない。「神に感謝するべきではないこと」は1つもない。全てが「神に感謝するべきこと」であるからだ。

分別が不完全な私たちは不完全な従順しか神に捧げることはできないが、いつも全てのことについて神に感謝することは分別を必要としないので、いつも全てのことについて神に感謝を捧げ続けるという神の御心にかなった捧げ物をいつも捧げ続けることができる。

《①自分を見る時の感謝》「神にいつも全てのことについて感謝を捧げる従順」を土台として生きる者は神に感謝してこのように言うことができる「私が神に従順できているか、できていないかは私にはわかりません。私が神に従順できたことも、私が神に従順できなかったことも…全てを、私にとってだけでなく、今生きている全ての人にとっての益としてくださる神に感謝します。悔い改めて神を愛する者となった人の過去は全て益となります。全て益とならないのは最後まで悔い改めずに神を愛する者となることなく肉体のいのちを失った者たちだけです。」

《②他者を見る時の感謝》「神にいつも全てのことについて感謝を捧げる従順」を土台として生きている者は神に感謝してこのように言うことができる「あの人が神の御心にかなうことをしているかしていないかは私にはわかりません。あの人が神に従順したことも、あの人がした不従順も…あの人がした不従順や良くない行いの被害者が私であったとしても…全てを私と、あの人自身と、今生きている全ての人の益としてくださる神に感謝します。

生きていて悔い改めて神を愛する者となった人の過去は全て益となります。全て益とならないのは最後まで悔い改めずに神を愛する者となることなく肉体のいのちを失った者たちだけです。」

確かに分別は重要だ。しかし、分別は平らな土台ではない。分別を土台とするなら、「いつも全てのことについて神に感謝して生きること」はできない。

何故なら分別は良いものと悪いものを分け、神の御心と神の御心ではないことを分け、光と闇とを分け…「感謝できること」と「感謝できないこと」を分けるからだ。

人は自分の聖書理解、自分の聖書解釈、自分に与えられている霊を見分ける聖霊の賜物、自分の経験、自分の知識、教会の過去の歴史によって…御心と御心でないこと、善と悪の線引きをし、自分の分別によってどのことが神の御心で、どのことが神の御心ではないかを決めつけて分ける。

だから、麦と毒麦が芽生え実っている畑から自分の目に毒麦に見えるものを神の国の麦かもしれないのに毒麦と決めつけ、自分の目に毒麦に見える麦を神を愛しているゆえにことごとく抜き集めたいと人は願う。自分の目に毒麦のように見えるものは不要なもの、有害なもの、何の益にもならないもの…感謝できないものであるからだ。

しかし、神は毒麦を抜き集めてはならないと言われた。神は「ゆっくり慎重に抜き集めなさい」とは言われなかった。どんなにゆっくり慎重にしても人間は毒麦か麦かを完全に分別することはできないことを神は知っておられるからだ。

人間は善と悪を完全に分別することはできない。人間はどのことが御心にかなっていて、どのことが御心にかなっていないかを完全に分別することはできない。

霊を見分ける賜物が与えられているなら、より正確に見分け分別できるが、完全に分別することはできない。3人以上の世界トップクラスの預言者が互いに吟味すればさらに正確に見分け分別できるが、それでも完全に分別することはできない。神の民がこの人たちの預言は完璧だ…と思っている時、神はその人たちに間違った預言をさせることができる。世界トップクラスの預言者たちの心を試すため…そして神だけが栄光をお受けになるために。そのようなことを御心のままに行う資格、権利が神にはある…何故なら神は完全な主権者であるからだ。

神の御心と神の御心ではないことを完全に分別できないことをいつも認め続けることが分別しようとする者に必要な土台だ。

神の御心と神の御心ではないことを完全に分別できないから分別することをやめるのではない。不完全な分別しかできなくても分別することをやめてはならない。神の御心を選びとろうとすることをやめてはならない。

神の御心と神の御心ではないことを完全に分別できないことを認め理解してはいても、神の御心だと思えることを選びとる。例え、神の目には御心ではないことであったとしても私自身の目に神の御心と思えることを選びとることが…「神を愛すること」だ。

私が神を愛して選びとった私の目に神の御心と思えることすらも、もしかしたら神の目には御心ではないかもしれないこと、私の分別は不完全であることをいつも認めることが…「神の御前にへりくだること」だ。

私が神を愛して選びとった私の目に神の御心と思えることが、神の目には御心ではなかったとしても、神が私にとっても、全ての神を愛する人にとっても、これから後に神を愛する人になるかもしれない今生きている全ての人にとっても益としてくださると信じ信頼し神に感謝することが…「神の安息、神のシャロームに入ること」だ。

全ての過去現在起こり得たこと今後起こり得ること…全世界の全歴史の全てを…神が私にとっても、全ての神を愛する人にとっても、これから後に神を愛する人になるかもしれない今生きている全ての人にとっても益としてくださると信じ信頼し全てのことについて神に感謝することが…「完全な愛と完全な知恵に満ちた神の完全な主権を認めることによって神の完全な安息、神のシャロームに入ること」だ。

「全てのことについて神に感謝すること」が土台であるなら、「全てのことについて神に感謝する」土台がないままになっていたのは何故なのか…それは神の知恵と計画と戦略によってなされたことだ。神が「全てのことについて神に感謝する」土台がないままにしておかれた理由がある…次回はそのことについて書かせていただく予定だ。

"神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」"
創世記 3章 9節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会

"イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」"
マタイの福音書 16章 15節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会

"すると、主の軍の将はヨシュアに言った。「あなたの足のはきものを脱げ。あなたの立っている場所は聖なる所である。」そこで、ヨシュアはそのようにした。"
ヨシュア記 5章 15節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会

"神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。"
ローマ人への手紙 8章 28節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会

"いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい。"
エペソ人への手紙 5章 20節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会

"すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。"
テサロニケ人への手紙第一 5章 18節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会