シャロームを所有する

私は預言の賜物の回復を願っている。しかし私は預言の賜物を否定する方々を心から尊敬し感謝している。私が預言の賜物を熱心に求めて聖書に従うためなら…私は預言の賜物を否定する方々を不満に思い…全て感謝せよと語る聖書に逆らってよいだろうか?預言を認める牧師先生だけ尊敬し…預言の賜物を否定する牧師先生含む5役者や教団教派の方々を尊敬せず…互いに尊敬しなさいと語る聖書に逆らってよいだろうか?自分が建てたい御言葉を建て上げるために他の御言葉を壊してできた砂の上に自分が建てたい御言葉を建て上げ…家を建ててよいのだろうか?

6️⃣【滅私奉公とはどのようなことか】【⑩崩れて歪んでしまっている聖書的バランスを取り戻し建て直す時】

前回までのブログで「心や体や家族関係や経済等が壊れてしまいかねないくらいに上限をはるかにこえて捧げる滅私奉公の時代は満ちて、役目を終えて徐々に過ぎ去ろうとしていること」について書かせていただいた。

 

6️⃣【滅私奉公とはどのようなことか】

6️⃣【⑩崩れて歪んでしまっている聖書的バランスを取り戻し建て直す時】

 

神のために犠牲を捧げることは尊く良いことだが、神のために犠牲を捧げることと同じくらいか、それ以上に優先順位の高い御言葉と両立できなくなってしまうほどに過剰な犠牲=「滅私奉公」を捧げようとする時には注意深く吟味する必要がある。

確かに聖書は「神に捧げなさい」と語っているが……聖書は「家族を愛しなさい」とも語っている……だから、聖書が語っている「家族を愛しなさい」ということばを実行できなくなるほどに神に捧げることは聖書の御言葉に違反していることになる。

どちらかの御言葉をあまりに熱心に実行し過ぎてしまっていて、もう一方の御言葉を実行できなくなっているなら聖書の御言葉に違反してしまっていることになる。

もちろん1人の人間が1人で全ての聖書箇所をことごとく完全に実行することなどイエスキリストにしかできないことだ。

しかし、「神に捧げること」と「家族を愛すること」は両立可能なことだ。「家族を愛すること」と「神に捧げること」が両立できなくなってしまうほどに「神に捧げてしまう滅私奉公」をやめれば、「神に捧げること」と「家族を愛すること」は両立することができるようになる。

聖書はイエスキリストであり、イエスキリストである聖書の御言葉には分裂や争いがなく、他の御言葉の領地を他の御言葉が侵略することはない。……だから聖書は……1つ1つの聖書箇所のために主が"受ける割り当てをくじで定め、御手が測りなわで測ってこれを分け与えたので、とこしえまでも彼らはこれを所有し、代々にわたって、ここに住む"……と語っている。

聖書は語っている  "主の書物を調べて読め。これらのもののうちどれも失われていない。それぞれ自分の連れ合いを欠くものはいない。それは、主の口がこれを命じ、主の御霊が、これらを集めたからである。
主はこれらのもののために受ける割り当てをくじで定め、御手が測りなわで測ってこれを分け与えたので、とこしえまでも彼らはこれを所有し、代々にわたって、ここに住む。"……と聖書が語っている……だから……聖書の中にある全ての聖書箇所1つ1つは完全に平和であり争いや分裂や対立がなく、他の聖書箇所が他の聖書箇所を侵略することはない。

しかし、現代のキリストの体であるエクレシアにおいて、「神に捧げなさい」と語っている聖書のことばをあまりにも強調し過ぎていたり、高く上げ過ぎていたり、大きくし過ぎているために……「家族を愛しなさい」とも語っている聖書のことば=「もう一方の要求」が圧迫され、片隅に追いやられ、ないがしろにされてしまっている……だから聖書は警告している  "「書かれていることを越えない」ことを学ぶため、そして、一方にくみし、他方に反対して高慢にならないためです。"……と聖書は警告している……だから「家族を愛しなさい」と聖書が要求していることを実行できなくなるほどに神に捧げ過ぎることによって……聖書に  "書かれていることを越え"  てはならないし、"一方だけにくみし"  他の別の聖書箇所に  "反対"  してはならない……だから……"「書かれていることを越えない」ことを学ぶため、そして、一方にくみし、他方に反対して高慢にならないためです。"……と聖書は今も警告し続けている。

だから「神に捧げること」が大きくなり過ぎていて「家族を愛すること」が圧迫されて小さくなっていたり、

「神に捧げること」が高く上げられ過ぎていて、「家族を愛すること」が低くなってしまっていて崩れているバランスを水平に近づける必要がある。キリストの体の歪んだ姿勢と背骨をまっすぐにする必要がある。

かがんだ姿勢やねこ背で長い日々を過ごしていてもすぐに体に痛みが生じたり、腰痛になることはない……痛みや腰痛は長い日々の負担が幾重にも積み重なり続けた何年後何十年後に実体となって姿を現す。

だから、神に捧げることをあまりに優先し過ぎていて、他の同じくらいか、それ以上に優先順位の高い御言葉が実行できなくなるほどに歪み崩れてしまっているバランスと姿勢を聖書のまっすぐな御言葉でまっすぐに整え建て直す必要がある。

"さて、兄弟たち。以上、私は、私自身とアポロに当てはめて、あなたがたのために言って来ました。それは、あなたがたが、私たちの例によって、「書かれていることを越えない」ことを学ぶため、そして、一方にくみし、他方に反対して高慢にならないためです。"
コリント人への手紙第一 4章 6節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会