シャロームを所有する

私は預言の賜物の回復を願っている。しかし私は預言の賜物を否定する方々を心から尊敬し感謝している。私が預言の賜物を熱心に求めて聖書に従うためなら…私は預言の賜物を否定する方々を不満に思い…全て感謝せよと語る聖書に逆らってよいだろうか?預言を認める牧師先生だけ尊敬し…預言の賜物を否定する牧師先生含む5役者や教団教派の方々を尊敬せず…互いに尊敬しなさいと語る聖書に逆らってよいだろうか?自分が建てたい御言葉を建て上げるために他の御言葉を壊してできた砂の上に自分が建てたい御言葉を建て上げ…家を建ててよいのだろうか?

「『主の祈り』によってこの地上でシャロームに満たされながら生きる」

主の祈りにある「日ごとの糧」とは、日々の食事のことも含まれているが、日々の食事のことだけではない。

また、日々のみことばの糧のことも含まれているが、日々の食事と日々のみことばの糧だけでもない。

神の子とされた聖徒たち個人個人1人1人がいのちを豊かに持ち、神の子として成長するために必要な1つ1つのこと全てが「日ごとの糧」に含まれている。

わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。ヨハネ福音書 10章 10節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会

だから、休むことも「日ごとの糧」であり、子供が学校の友達と遊ぶことも「日ごとの糧」であり、試練に勝利するための聖霊様の力、油注ぎ、知恵も「日ごとの糧」であり、赦せない人を心から赦せる者につくりかえられるために必要な神様からの愛、祝福、恵みも「日ごとの糧」に含まれている。「日ごとの糧」は数えきれないくらい色々あって非常に多彩だ。神が与えてくださる恵み、祝福は数えきれないほど色々あって非常に多彩だ。

「日ごとの糧」は皆同じというものではない。その人にとって糧となり得るもの、それぞれの色々な糧がそれぞれに「日ごとの糧」として与えられる。

一方、「御国」は「同じ」であり「1つ」だ。もちろん、賜物、働きには色々な種類があるが、聖霊様が唯一であり、1つの御霊であるように、

御国も、それぞれの時間、それぞれの場所に臨んで、それぞれあらわされる神の栄光には、色々なあらわれかたがあるが「1つの御国」だ。

だから、主の祈りを3つにわけるのであれば…

①神の子とされた私たちがいる それぞれの場所に、地上に、「唯一」の「1つ」の神の御国が臨みますように。←1つ

②神の子とされた私たち「それぞれ」が神の子としていのちを豊かに持ち成長するために有益な「それぞれ」の色々な「日ごとの糧」を私たちそれぞれに与えてください。←多彩

③神の子とされた私たち
「それぞれ」が神の子としていのちを豊かに持ち成長することを妨げる「それぞれ」の色々な試みに会わせず、「それぞれ」の色々な悪から私たちそれぞれを救ってください。←多彩

このように「主の祈り」には神の子とされた聖徒たちが祈るべきこと全てが含まれている。

私が「日ごとの糧」について「多彩」「それぞれ」と強調してくりかえしているのは、

ある人にとっては「日ごとの糧」となるが、ある人にとっては「日ごとの糧」とならないものもあるからだ。

ある人にとっては、いのちを豊かに持たせるが、ある人にとっては、そうはならないものがある。

神は皆が同じことを同じように喜ぶ存在として創造されてはいないからだ。

私たちは各器官で、皆が同じではないから、キリストの体となることができる。

「日ごとの糧」とはその人にとって有益な全て。その人にとって有益でないものは、その人にとっては「日ごとの糧」ではない。

ある人にとっては生かす「日ごとの糧」となるレイマのみことばであっても、他の人にとっては殺す文字となり「日ごとの糧」とはならないことがある。

"神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を下さいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。文字は殺し、御霊は生かすからです。"
コリント人への手紙第二 3章 6節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会

"私の願うところは、すべての人が私のようであることです。しかし、ひとりひとり神から与えられたそれぞれの賜物を持っているので、人それぞれに行き方があります。"
コリント人への手紙第一 7章 7節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会

また、「日ごとの糧」とは、その日、その時のその人にとって有益なものであって、その人にとって以前は有益であったが、今は有益ではないものも「日ごとの糧」ではない。

その時はまだ、その人の目には有益ではないもののように見えても、神が恵み、祝福として与えてくださった「日ごとの糧」もある。

ある人にとっては「日ごとの糧」となるが、ある人にとっては「試み、悪」となる場合もある。

例えば、非常に聖さを愛している母親の息子、娘が母親と同じように非常に聖さを愛して生きるようになるかもしれないが、

まるで正反対であるかのように、社会の人気アーティストやバンドのコンサートに行くことを好むかもしれない。

そのようなことは、非常に聖さを愛する母親の目には「世的」だとか、「悪霊」だとか、「誘惑」だとか「堕落」だとか「不品行」だとかに見え、さんざんな感想を自分の息子、娘にたいして感じるかもしれない。

その母親は、そのようなことから離れて生きる者、そのようなキリストの器官として計画して創られているので、教会の外のコンサートは「試み、悪」となるのだろう。

しかし、その母親の息子、娘を「教会の外の友人たちと仲良く、親しくなることができ、伝道することができる者」として神様はデザインしているかもしれない。

そうであれば、教会の外と関わりを最小限にして聖く生きるように選ばれ、デザインされている母親にとっては「試み、悪」となる社会において人気のある歌手のコンサートが、

「教会の外の友人たちと仲良く、親しくなって伝道する者」として選ばれ、デザインされている息子や娘にとっては肉と魂にとって有益な「日ごとの糧」であり、霊的…神の御国的にも有益な伝道の実が結ばれるための「日ごとの糧」であることになる。

その初期の段階の時、母親は「不満」かもしれないが、神様は聖さを愛し、日々神の宮で祈る母親の祈りがあるので、

その母親の祈りにより守られ、強められている息子、娘を教会の外に遣わし、その母親の息子、娘によってその母親に「収穫」を得させようと…息子、娘の友人が教会に来て救われる…そのような「収穫」を得させようと神様によってデザインされている家庭、家族も神の御国の中に…キリストの体の中には存在する。

理解できない人、赦せない人がいるとしても、まだ勝利できていないことがあるとしても、神はあらゆる「日ごとの糧」を惜しみ無く与えてくださる。

しかし、『私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください』と祈ることばの前には、

『私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。』と祈ることばがある。

神様は神の子たちを試みに会わせず、悪から救いたいが、「私に負いめのある人たちを赦す」ということがなければ、

神様にはどうすることもできない領域がある。「赦さない者は縛りを受ける」と神が御自身で定めておられることを神は破ることができない。

もちろん。赦せない人がいたとしても、神は守ってくださる。「試みにあわせず、悪よりお救いください」と祈れば、神はそのようにしてくださる。だから、赦せない人がいたら神様に全く守っていただけないとか、敵の攻撃を何もかも全く防ぐことができないとかではない。

ただし、部分的に塞ぐことのできない破れ口が存在しているということにはなる。

だから聖書にこう書いてある。

"怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。
悪魔に機会を与えないようにしなさい。"
エペソ人への手紙 4章 26〜27節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会

だから「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください」の祈りのことばの前に
「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。」と祈ることばがある。

だが、それ以上に注目すべきことがある。「私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください」と祈ることばの前には「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました」と祈ることばはない。

何故なら、赦せない人がいようと神は無条件で、アガペーの愛で私たちを愛してくださり、私たちを愛し、あらゆる「日ごとの糧」を惜しみ無く与えてくださるからだ。

赦せない人を赦すことができるようになるために必要な、ありとあらゆる恵み、祝福を神は日ごとに…日ごとに…今日も…毎日…惜しみ無く与え続けてくださっている。

毎日、神が与えてくださっている「日ごとの糧」に目を向けながら受け続けていると…やがて神の恵みによって…神が毎日与えて下さる「日ごとの糧」によって、赦せない人を赦す選択ができる者につくりかえられ、赦せなかった人を心から赦せる者へとつくりかえられる。

神には手出しできない領域、開くことのできない扉がある。神は御自身で定められた定めを破ることはない。だから神は、あなたが、その扉を開く選択が自由にできるようになるために必要な全ての恵みを与え続けてくださる。

1日1日…日ごとに…神の子として成長させてくださる。赦せない人を赦せる者へと…心から赦せる者へと…心から愛する者へと…成長させてくださる…「日ごとの糧」によって。神に手出しできない領域はあるが…神に不可能なことは1つとして存在しない。

神は御自身が定めたルールを1つとして破ることなく常に御心を成し遂げて勝利者となられる。ハレルヤ。