シャロームを所有する

私は預言の賜物の回復を願っている。しかし私は預言の賜物を否定する方々を心から尊敬し感謝している。私が預言の賜物を熱心に求めて聖書に従うためなら…私は預言の賜物を否定する方々を不満に思い…全て感謝せよと語る聖書に逆らってよいだろうか?預言を認める牧師先生だけ尊敬し…預言の賜物を否定する牧師先生含む5役者や教団教派の方々を尊敬せず…互いに尊敬しなさいと語る聖書に逆らってよいだろうか?自分が建てたい御言葉を建て上げるために他の御言葉を壊してできた砂の上に自分が建てたい御言葉を建て上げ…家を建ててよいのだろうか?

「神の御国、神の御心の実現が来ますように」

私は ほんの数日前まで、「最も求めるものは?」と質問されたら、

「神の臨在」と「神の臨在を地上に満たすことができるダビデの幕屋」と返答していた。

しかし、今、「最も求めるものは?」と質問されたら、「神の御国が来ること」と私は返答する。

私は ほんの数日前まで、最も価値あるものは「神の臨在」であると信じていた。

しかし、私は今、「神の臨在」よりも「神の御国」の方が価値があると信じている。

「神の臨在が来る」よりも「神の御国が来る」ことの方が私にとって良いことであり、他の人々にとっても良いことであると私は信じている。

何故か?まず、イエス様は「御国が来ますようにと祈りなさい」と言われたこと。

そして、「神の臨在」は一時的であること。私が「神の臨在」と書いているのは、常に地上にある神の臨在ではなく、

「足が地についていながら、下から上へ上へと溢れ流れ続け、引き上げられ続ける感覚を感じる臨在」のことだ。

他にも倒れて全く動けなくなる臨在等色々あるが、私が「神の臨在」と書いているのは、このような特別な臨在のことだ。

私は「足が地についていながら、下から上へ上へと溢れ流れ続け、引き上げられ続ける感覚を感じる臨在」を何年も前に、多くの人と共に賛美する礼拝賛美の中で体験した。

この「特別な臨在」によって、地上には他にない最高の感覚を感じ、体験することができた。

最高の喜びの感覚と言えばいいのか…最高の喜びの感覚と言うより、最高の快感と言えば、もう少し近いかもしれないが…この感覚は他にはない感覚なのでことばで表現するのが難しい。

私はその感覚をもう一度、体験したいと思った。2回目体験しても、また体験したいと思い、何度体験しても、また体験したいと願い続けた。

しかし、このような感覚を体験できる「特別な臨在」は一時的だ。

そして、このような感覚を体験できる「特別な臨在」は「神の御国」の一部分であり、「神の栄光」の一部分だ。

このような感覚を伴う「特別な臨在」を体験しても、「特別な臨在」の感覚を体験しただけで「神の御国が来ること」がないまま終わってしまうなら、むなしい。良い地に落ちなかった御言葉の種のように空しい。

「特別な臨在」ではなくて、わざわい、困難、サタンの使いが来た結果、その人に「神の御国が来た」のであれば、その人に神の御国を来たらせなかった「神の特別な臨在」よりもまさっている。

パウロにサタンの使いが来ることによって、パウロに「神の御国」が来た。

そのことについて聖書に以下のように書いてある。

[コリント人への手紙 第二 12:7,8,9,10]

その啓示のすばらしさのため高慢にならないように、私は肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高慢にならないように、私を打つためのサタンの使いです。
この使いについて、私から去らせてくださるようにと、私は三度、主に願いました。
しかし主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。
ですから私は、キリストのゆえに、弱さ、侮辱、苦悩、迫害、困難を喜んでいます。というのは、私が弱いときにこそ、私は強いからです。

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 許諾番号4–2–3号

このようにして、パウロのところに来た サタンの使いによって、パウロは神がパウロに知ってほしいことを知るようになり、神の御心が実現し、パウロに神の御国=神の御心の実現が来た。

そして、サタンの使いが来ることによって、パウロに来た「神の御国」はパウロから去らず、パウロの血肉となるがごとく、パウロの考え方や生き方に良い影響を与え、パウロをさらに新しくし、パウロは さらに30倍60倍100倍の実を得るようになった。

エス様は生まれた時から目の見えない人について「この人が生まれた時から目が見えないのは、神のわざがこの人に現れるためです」と語られた。

そして、その人はイエス様に癒されて目が見えるようになり、イエス様を信じ、イエス様を拝するようになり神の御国=神の御心の実現が来た。

全ての良いことも悪いことも、神の御国が来るため。

全ての良いことも悪いことも、神の御心が実現するため。

パウロにサタンの使いが来ることを良しとされた神の目的と、生まれた時から目が見えない人が目が見えないことを良しとされた神の目的は同じではなかった。

今、コロナウィルスが地上にある。コロナウィルスはサタンの使いだ。パウロに神の御国を来たらせるためにパウロのところにサタンの使いが来たように、

神の御国を来たらせるため、神の御心が実現するためにコロナウィルスは地上に存在することを神は良しとされている。

コロナウィルスを神が地上から消し去らない理由、目的は何であろうか?

私は知らない。

生まれた時から目の見えない人がイエス様に癒されたのは安息日であった。癒されてイエス様を信じるようになるだけでいいなら安息日である必要はない。

ある1つの出来事が起こることを神が許可される目的「神が良しとされる理由」は1つだけとは限らない。

コロナウィルスというこの1つの出来事も神が「良しとされている理由」があり、神の目的がある。

私はその理由を知らないし、調べようとも思わない。

感謝なことに、その理由を調べたり、教えてくれている人たちは他にいて、キリストの体の中に神が備えてくださっている。

私が知っているのは…神がコロナウィルスを「良しとされている」期間、地上にコロナウィルスがあるからこそ成し遂げられる神の御心が1つ1つ実現していること、神の御国が地上に来て増し加えられ拡げられていること、

天の御国の鍵があたえられている聖徒が、これらの事実を信じて感謝すれば、信じて感謝している通りに、神の御国が臨み、これらの事実が地上の現実となり実現することだ。

そして、天にある神の御国の本体、生ける神の都である天上のエルサレム[へブル人への手紙 12:22]が近づいており、

キリストの体である私たちが神の御国の本体である天にあるエルサレムに近づいていることだ。

聖なる都、天のエルサレムが、天から下って来る時、神ご自身が私たちの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださり、もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもなくなり、以前のものはもはや過ぎ去ってしまうようになる。(ヨハネの黙示録 21章 2〜4節)

神ご自身が私たちの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる日、聖なる都、天のエルサレムが、天から下って来る日、世の終わりの日まで…コロナウィルスや、その他のことで泣いている私たちと共に神は心を痛め、泣く者と共に泣いて涙を流し、世の終わりの日まで、神は共にうめいてくださる。

"見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」"
マタイの福音書 28章 20節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会

何故、世の終わりまでなのか?世の終わり以降は?世の終わり以降は世の終わりまで共におられた以上に共にいてくださる。

世の終わりまでの「共におられる」と、世の終わり以降、すべてが新しくされてからの「共におられる」が延長線でつなげないほど、今の地上のことばでは表現できないほど「共におられる」ようになるので、世の終わりまでに区切られているのではないだろうか。

"私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。
そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、
彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」
すると、御座に着いておられる方が言われた。「見よ。わたしは、すべてを新しくする。」また言われた。「書きしるせ。これらのことばは、信ずべきものであり、真実である。」"
ヨハネの黙示録 21章 2〜5節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会