シャロームを所有する

私は預言の賜物の回復を願っている。しかし私は預言の賜物を否定する方々を心から尊敬し感謝している。私が預言の賜物を熱心に求めて聖書に従うためなら…私は預言の賜物を否定する方々を不満に思い…全て感謝せよと語る聖書に逆らってよいだろうか?預言を認める牧師先生だけ尊敬し…預言の賜物を否定する牧師先生含む5役者や教団教派の方々を尊敬せず…互いに尊敬しなさいと語る聖書に逆らってよいだろうか?自分が建てたい御言葉を建て上げるために他の御言葉を壊してできた砂の上に自分が建てたい御言葉を建て上げ…家を建ててよいのだろうか?

「②私が求める前から私の全身をいつも包んでくださっている主の臨在に意識を向ける時間を過ごす②」

祝福を全く求めずに臨在だけを求めることについて、このように思う人がいるかもしれない。

霊肉魂や五感で全く主の臨在が感じられなくて、何の変化も祝福もないけど「私は今、主の臨在に浸っていると信じながら、主の臨在に意識を向けて過ごす時間」なんて、ただ「ぼー…」としているだけで時間が過ぎて行くだけの時間とさほどかわらないのでは…?…そのように思う人がいるかもしれない。

私がなんらかの祝福を求めるためではなく、ただ主の臨在を意識し続ける時間を初めて過ごした後、すぐに主は私に1つの「しるし」を与えてくださった。

私はなんらかの「しるし」も、なんらかの「祝福」も求めず、ただ主の臨在を意識し続ける時間を過ごし、そのように、ただ主の臨在を意識し続ける時間を過ごせたことだけで私の価値観は満足していた。

今日が「第一回目」だが、私はこれからも何らかの祝福やしるしを求めずに、ただ主の臨在を意識し続ける時間を今後もずっと持ち続けよう…私はそう思いながら…なんとなく神の器のメッセージを聞くために機械を再生した。

今思うと、この時、私は神様を祝福するための時間から出て、神様からの祝福を受けるための時間を、神の器のメッセージを聞くために機械を再生することによってスタートさせていた。

私自身は「さあ…次は祝福を受ける時間だ…」とかは全く思っていなかった。

そうではなくて私はこう思っていた「さあ…明日のお弁当の準備と今から食べる食事の準備をして食事を食べよう…」そして準備したり、食事している間、バックミュージックのように神の器のメッセージを聞くことがコロナウィルスが特にひどかった時期に身につけた習慣になっていたので、自分がこれから神様からの祝福を受けるための時間に入ろうとしている意識も自覚もなく、なんとなく神の器のメッセージを聞くために機械を再生した。

そして機械が再生され神の器がメッセージを語り始めた時、すぐに私の内側で、ガスコンロをひねった時に火がボッと燃えるような感覚を感じた。

メッセージがしばらく語られている途中で、私が感動するようなことばが語られたタイミングとかではなく、メッセージが語り始められてすぐに私の内側にボッと火がつけられ、心に感動が火のように燃えているような感覚があった。

エマオという村に行く途中、ふたりの弟子が「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」(ルカの福音書 24章 32節)と言っているのはこんな感覚だったのだろうか…?

主からの何らかの祝福を受けるためではなく、ただ主の臨在に意識を向ける時間を過ごすことはただ「ぼー…」と無意味な時間を過ごしているかのように思える人がいるなら、このように考えてみることからはじめてみてはどうだろうか?

その時間は何も目に見えず、何も感じず、霊肉魂、五感で何も知覚できる「しるし」、「変化」がなくても「油に浸されている時間」であると。

油に浸されていたことは火が来た時にわかる。

もちろん、霊肉魂、五感で知覚できる「しるし」、変化、祝福、栄光の現れを伴う特別な主の臨在を求め期待し待ち望み続けることは非常に良いことだが、もっと大切なことは…いつも共にいてくださる主の臨在に意識を向ける時間を過ごし、いつも共にいてくださる主の臨在に浸ることだ。

持っていないかのように「主の臨在」を求める必要はない。「主の臨在」は求める前から、すでに「ある」と信じ、意識を傾けるだけで自由に浸り飲むことができる。

持っていて「ある」のに持っていないかのように「求める」なら持っていて「ある」のに、「持っていない」かのようにこの地上で生きることになる。

"というのは、持っている者はさらに与えられて豊かになり、持たない者は持っているものまでも取り上げられてしまうからです。"
マタイの福音書 13章 12節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会