シャロームを所有する

私は預言の賜物の回復を願っている。しかし私は預言の賜物を否定する方々を心から尊敬し感謝している。私が預言の賜物を熱心に求めて聖書に従うためなら…私は預言の賜物を否定する方々を不満に思い…全て感謝せよと語る聖書に逆らってよいだろうか?預言を認める牧師先生だけ尊敬し…預言の賜物を否定する牧師先生含む5役者や教団教派の方々を尊敬せず…互いに尊敬しなさいと語る聖書に逆らってよいだろうか?自分が建てたい御言葉を建て上げるために他の御言葉を壊してできた砂の上に自分が建てたい御言葉を建て上げ…家を建ててよいのだろうか?

「私が求める前から私の全身をいつも包んでくださっている主の臨在に意識を向ける時間を過ごす」

「主の臨在」を求めている聖徒は多いだろう。

「主の臨在」を求めることは良いことだ。そして、「主の栄光」を求めることも良いことだ。

どちらも良いことで主に非常に喜ばれることであるから、「主の栄光を求める時間」とは別に「主の臨在を求める時間」も大切にすることは重要だ。

そのためには、「主の栄光を求める時間」と「主の臨在を求める時間」を区別できるようになる必要がある。

「主の栄光を求める時間」と「主の臨在を求める時間」の区別ができていないのであれば、「主の臨在を求める時間」を過ごしていても、その実体は「主の臨在」ではなくて「主の栄光」を求める時間になっているかもしれない。

もし、「主の臨在を求める時間」が「主の臨在の中に現される主の栄光を求める時間」であるなら、その時間は「主の栄光を求めるための時間」になっている。

私たちは「主の臨在」と「主の栄光」を同時に求めることはできない。「主の臨在を求める時間」と「主の栄光を求める時間」を同時に過ごすことはできない。

「主の臨在を求めるために」私の時間を投資するのか、「主の栄光を求めるために」私の時間を投資するかを決めて、どちらかを選択する必要がある。

主の栄光が現されること、神の御国が来ることは求める必要があるが、主の臨在は求める必要がない。求める前からすでにある。いつもある。

だから、「主の臨在を求める時間」とは…私がイエスキリストを信じた時から、いつも私を包んでくださっている主の臨在に意識を向け、主の臨在の中にいることを意識する時間を過ごすこと。「霊肉魂、五感で知覚できる変化、しるし等が全くなくても、全く祝福を得なくても構いません。この時間の後で何の変化もなくて構いません。主の臨在に意識を向け、主の臨在の中にいることに意識を向け、主の臨在に浸る時間を過ごせただけで私は満足です。私の目的は果たされました。この時間はそのための時間ですから…」このような時間を過ごしているなら「主の臨在を求める時間」を過ごすことができている。

もし、主をもっと知ることや、霊肉魂や五感でもっと臨在を感じることや、癒されること、油注ぎ、知恵、啓示等の何らかの祝福を受けるために主の臨在を求めているなら、「主の臨在」ではなく、主の臨在の中に現される
「主の祝福」「主の栄光」「主の力」「神の御国」を求める時間になっている。

もちろん「主の栄光」「神の御国」を求める時間は非常に主に喜ばれる。神の御国を求めることは2番目に『大切なこと』だからだ。……「神の御国が第一ではないのか?」……と思うだろうか?確かに神の御国が第一だ。しかし、神の御国は『求めるべきこと』の枠の中で第一のことだ。神の御国は『求めるべきこと』の枠の中で第一のことではあるが、一番『大切なこと』ではない。

一番『大切なこと』は『求めるべきこと』の枠の外にある。一番『大切なこと』は神に与えてくださいと求める必要がない。何故なら、一番『大切なこと』は『神を愛すること』だからだ。

私たちはいつでも自由に主を愛することができる。私たちはいつでも主の愛、主の臨在に包まれている。

だから、一番『大切なこと』である神を愛することは『求めるべきこと』の枠の外にある。求める前からすでにあるからだ。

そして、神の御国を来たらせることは、イエス様が一番大切なことの『次に大切なこと』と言われた「自分自身と隣人を愛すること」の枠の中にある。

そして、神の御国を来たらせることは、『次に大切なこと』の枠の中では第一のことだ。

神の御国を来たらせるとはイエスキリストの御名によってしか得られない天上の祝福である御言葉、啓示、癒し、救い、解放等、これらを神の御心の通りに私、隣人、地上に来たらせることだ。

私は私自身に神の御国を来たらせることによって私自身を愛し、隣人に神の御国を来たらせることによって隣人を愛する。

私に神の御国の御言葉が来て、私の問題が解決するという主の御心が実現する。

隣人に神の御国の癒しが来て、隣人の病が癒されるという主の御心が実現する。

そのように地上でまだ神の御心が実現していない領域に神の御国を来たらせて神の御心を実現させる。このようにして神の御国を求め地上に来たらせることは主のために第一にするべき求めであり、第一にするべき『働き』だ。

だから、2つの時間が必要だ。『安息する時間』と『働く時間』

この2つの時間をもっと詳しく言うなら…「主の臨在に意識を向け、そこに何の祝福や変化がなくても主の臨在に浸れているだけで満足する安息の時間」と「私と隣人に…すなわち、この地上に神の御国を来たらせることによって、まだ地上で実現していない御心を実現させるための働きの時間」

別の言い方をするなら、「主に満足していただくだけで私が満足して安息する時間」と「私と隣人、この地上に神の御国を来たらせ拡大していくための働きの時間」

「主と共にいて安息する時間」と「主と共に働く時間」

「主のために主を愛する時間」と「主のために私自身と隣人を愛する時間」

「一番大切なこと」と「二番目に大切なこと」

そして、「主のために私自身と隣人を愛する時間」の中で第一のことは「神の御国を私自身と隣人、この地上に来たらせること」

私自身が癒されたり、力を受けたり、知恵が与えられたり、啓示を受けたり、その他、天にある祝福を受けることは神の御国がこの地に広く深く高く拡大し満ちていくため。

私に神の御国が来て私が祝福され、私の必要等が満たされるのは、私が主の御名によって隣人に神の御国を来たらせ、隣人を祝福し、この地上に神の御心が実現している領域を増やし、神の御国を拡大するため。

このように神の御国を私や隣人、地上に来たらせ拡げることが第一に求めるべきことであり、第一にするべき『働き』だ。

しかし、私は第一の働きも、その他の働きも、その他の色々なことも、私が祝福されることも、隣人が祝福されることも、私の祈りの課題も全て横において、主の臨在に意識を向ける時間を過ごす。その中で私が祝福される可能性も期待はするが、私が祝福されることが目的ではない時間を過ごす。神の御国の働きを前進させるためではなく、動き出した時にさらに加速できる力を得るためでもない。

私、隣人、この地上にとって何の益にもならない時間であろうとも構わない。ただ主の臨在に意識を向けるだけの時間、一番大切なことを実行する時間を私はこれからも大切にしながら日々を過ごす。

賛美に住まわれる主に賛美を歌いながら…時には異言で祈りながら…時には静まりながら…私がイエスキリストを信じた時からいつも私の内にいて、私の全身を包んでくださっている主の臨在に意識を向ける時間、それだけで満足する安息の時間。主の祝福ではなく、主を求め主を愛す時間を過ごす。

私は主に申し上げる。主よ…今は何の祝福もいりません。今、私はただあなたと一緒にいたいだけですから…。

"ところで、あなたがたのだれかに、耕作か羊飼いをするしもべがいるとして、そのしもべが野らから帰って来たとき、『さあ、さあ、ここに来て、食事をしなさい』としもべに言うでしょうか。
かえって、『私の食事の用意をし、帯を締めて私の食事が済むまで給仕しなさい。あとで、自分の食事をしなさい』と言わないでしょうか。"
ルカの福音書 17章 7〜8節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会

"イエスは答えられた。「一番たいせつなのはこれです。『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。
心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
次にはこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』この二つより大事な命令は、ほかにありません。」"
マルコの福音書 12章 29〜31節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会