シャロームを所有する

私は預言の賜物の回復を願っている。しかし私は預言の賜物を否定する方々を心から尊敬し感謝している。私が預言の賜物を熱心に求めて聖書に従うためなら…私は預言の賜物を否定する方々を不満に思い…全て感謝せよと語る聖書に逆らってよいだろうか?預言を認める牧師先生だけ尊敬し…預言の賜物を否定する牧師先生含む5役者や教団教派の方々を尊敬せず…互いに尊敬しなさいと語る聖書に逆らってよいだろうか?自分が建てたい御言葉を建て上げるために他の御言葉を壊してできた砂の上に自分が建てたい御言葉を建て上げ…家を建ててよいのだろうか?

「キリストの花嫁であるキリストの体には『花嫁のベール』がまだない。キリストの体である各教団教派、個人個人が『互いに自分を最も幼い子どものように低くして互いにへりくだること』が完全になって、1つの体となる時=『キリストの花嫁の顔が花嫁のベールで全て覆い隠される』時、キリストの体は婚姻の用意が完成したキリストの花嫁となる」

今の時代のエクレシア=キリストの花嫁であるキリストの体の全身は、聖く光輝く純白のウェディングドレスに包まれていて、きらびやかな栄光の装飾品で飾られていて、キリストの花嫁として完全に整っているかのように見える。

しかし、まだ、キリストの花嫁であるキリストの体には『花嫁の顔を覆い隠すベール』がない。

キリストの花嫁の顔が『花嫁の顔を覆い隠すベール』で全て覆い隠される時、キリストの体はキリストの花嫁として完成する。

キリストの花嫁の顔が『花嫁の顔を覆い隠すベール』で全て覆い隠された時、キリストの体は、キリストの花嫁として完成し、キリストの花嫁として婚姻の用意が整ったキリストの花嫁は、花婿イエスキリストと顔と顔を合わせて会う。

リベカとイサクが顔と顔を合わせて会う直前に、リベカがベールを取って身をおおったように……

……花婿イエスキリストと顔と顔を合わせて会う直前に、キリストの花嫁であるキリストの体は『花嫁の顔を覆い隠すベール』を取って身を覆う……

……今は、そのような時代だ。何故なら今はキリストの花嫁であるキリストの体が、花婿イエスキリストと顔と顔を合わせて会う直前の時代であり、キリストの花嫁がキリストの花嫁として全ての婚姻の用意が整う直前の時代であり……

……キリストの花嫁であるキリストの体に、まだないのものは残すところ、「花嫁の顔を覆い隠すベール」のみ……

……今は……そのような時代だ。

銀や金の品物や衣装を与えられたリベカが、迎えに来るイサクと顔と顔を合わせて会う直前に、ベールを取って身をおおったことについて、聖書に以下⬇️のように書いてある。

📖"そうして、このしもべは、銀や金の品物や衣装を取り出してリベカに与えた。"
創世記 24章 53節

📖"こうして、しもべはリベカを連れて出かけた。"
創世記 24章 61節

📖"そのとき、イサクは、ベエル・ラハイ・ロイ地方から帰って来ていた。"
創世記 24章 62節

📖"イサクは夕暮れ近く、野に散歩に出かけた。彼がふと目を上げ、見ると、らくだが近づいて来た。
リベカも目を上げ、イサクを見ると、らくだから降り、
そして、しもべに尋ねた。「野を歩いてこちらのほうに、私たちを迎えに来るあの人はだれですか。」しもべは答えた。「あの方が私の主人です。」そこでリベカはベールを取って身をおおった。"
創世記 24章 63〜65節

主がキリストの体に『花嫁の顔を覆い隠すベール』を授けて下さる時……

……主が授けてくださった『花嫁の顔を覆い隠すベール』をキリストの体が受け取り、キリストの花嫁の顔が全て覆われる時、キリストの体は、キリストの花嫁として完成する。

キリストの花嫁の顔が全て覆われる時、キリストの体は、キリストの花嫁として完成し、キリストの花嫁として完成したキリストの体を、イエスキリストが花婿として迎えに来て下さる。

今の時代は、主がキリストの体に『花嫁の顔を覆い隠すベール』を授けて下さる時代だ。

今の時代は、主がキリストの体に授けてくださる『花嫁の顔を覆い隠すベール』を、キリストの花嫁であるキリストの体が受け取る時代だ。

今の時代は、キリストの花嫁としてほとんど完成しているキリストの体に、主がその御手で『花嫁の顔を覆い隠すベール』をかぶらせるために、ゆっくりゆっくりと、『花嫁の顔を覆い隠すベール』をキリストの花嫁の頭上に下ろしはじめてくださっている時代だ。

今の時代は、まだ、キリストの花嫁の顔は少しも覆われていない。

今の時代は、まだ、キリストの花嫁の顔は『花嫁の顔を覆い隠すベール』で覆われていない。

……何故、今の時代は、まだキリストの花嫁の顔は少しも覆われていないと言うことができるのだろうか?

何故なら……1つのキリストの体の各器官である各教団教派、個人個人は互いに、「自分たちの聖書解釈と教えに、他の教団教派、個人個人は従うべきだ」と信じていて、自分たちの聖書解釈と教えだけを高く上げようとしているからだ。

各教団教派、個人個人は自分たちの顔を高く上げようとは思っていない。各教団教派、個人個人は、イエスキリストの御名だけが高く上げられなければならないと信じているからだ。

……そして、キリストの体である各教団教派、個人個人は「イエスキリストの御名が高く上げられ、神の御心が実現するためには、自分たちの聖書解釈と教えに、他の教団教派は同意して従う必要がある」と信じている。

各教団教派、個人個人はそれぞれの聖書解釈と教えを持っている。

各教団教派、個人個人の聖書解釈が全く同じで、全く同じ1つの聖書解釈であったなら、各教団教派、個人個人はすでに1つになっていたことだろう。

しかし、各教団教派、個人個人の聖書解釈が同じではないので、みながそれぞれ、自分たちが同意することができる聖書解釈が高く上げられているグループ、教団教派に集っている。

自分たちが同意できる聖書解釈と教えが高く上げられている教団教派に、個人個人は、それぞれ集められて、それぞれのグループ、それぞれのエクレシア、それぞれの器官となっている。

そして、全ての教団教派は、1つのキリストの体にとって、全て必要不可欠な各器官となっている。

『1つの教団教派の聖書解釈と教えに、他の教団教派は従うべきだ』と要求することは、肺が腎臓に「今すぐ腎臓の機能を停止して肺になりなさい」と言っているのと同じことだ。

腎臓が肺のような機能を持つようになるかわりに、腎臓から腎臓の機能が完全に失われてしまって困るのは誰だろうか?

しかも腎臓が腎臓の機能を完全に失って、肺になろうとしたところで、肺よりも肺の機能が劣った肺にしかなれない。肺は肺になるために、腎臓は腎臓になるためにデザインされているからだ。

それと同じように、「ペンテコステ」は「ペンテコステ」、「ホーリネス」は「ホーリネス」、「バプテスト」は「バプテスト」、「ルーテル」は「ルーテル」、「カトリック」は「カトリック」として、必要不可欠なキリストの体の各器官としてデザインされている。

「イエスは主です」と告白している全ての教団教派、全てのグループは、キリストの体がキリストの体となるために互いに必要不可欠な器官だ。

📖"頭が足に向かって「あなたがたはいらない」と言うこともできません。"[コリント人への手紙 第一 12:21]
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 

だから、肺は腎臓の「リーダー」になることはできない。肺も腎臓も、各器官の「リーダー」になることはできない。肺も腎臓も、体の「顔」「頭」になることはできない。

人体の「顔」「頭」の位置に「顔」のかわりに、肺があったら…腎臓があったら…手があったら…足があったら…その他の「顔」以外のどんな器官があっても、体は正常に機能しない。

もし、どれか1つの教団教派が他の教団教派のリーダーとなり、1つの教団教派が他の教団教派の上に立つなら……もし、肺が各器官のリーダーとなり、肺が各器官の上に立ち、他の全ての器官が肺に服従することになれば……

……腎臓や、その他の器官を持った人体が立っていたとしても、そこに立っているものには、腎臓やその他の器官はあっても、肺の機能しかない。

各器官が「顔」「頭」ではなくて、肺をリーダーとしている人体は人体ではない。

各器官が「顔」「頭」ではなくて、肺をリーダーとしている人体は人体ではなくて「肺」だ。見た目には人体の『かたち』をしているように見える「肺」だ。

「ホーリネス」「バプテスト」「カトリック」「ルーテル」の看板だけ残してあっても、中身が「ペンテコステ」であるなら……そこに立っているのは、キリストの体ではなく、「ペンテコステ」という1つの器官ということになる。

それは人の「かたち」をした腎臓や、人の「かたち」をした肺のようなもので、キリストの体ではない。

📖"もし、全部がただ一つの器官であったら、からだはいったいどこにあるのでしょう。"
コリント人への手紙第一 12章 19節

📖"しかしこのとおり、神はみこころに従って、からだの中にそれぞれの器官を備えてくださったのです。"
コリント人への手紙第一 12章 18節

だから、「自分たちの聖書解釈と教えに、他の教団教派、個人個人は同意し従うべきだ」と信じていることは、自分たちの聖書解釈と教えだけを高く上げようとしていることであり、それは、自分たちの教団教派をキリストの体のリーダーとし、「頭」とし、「顔」とし、自分たちの名前と顔を高く上げていることと本質的には同じことだ。

どの教団教派であっても、キリストの体の「頭」、「顔」、「代表」、「リーダー」となることはできない。何故なら……全ての教団教派は、キリストの体にとって必要不可欠な各器官であるからだ。

各教団教派、個人個人は「自分たちの聖書解釈と教えに他の教団教派、個人個人が従うようになること」が、神に喜ばれることであり、神の御心であり、イエスキリストの御名が高く上げられるようになるために必要不可欠なことであると信じている。

それはまるで、自分たちの誰が一番偉いか互いに議論し合い、「誰が一番偉いのですか」とイエスキリストに質問した弟子たちのようだ。

だから、今の時代は、まだ、キリストの花嫁の顔は少しも覆われていない時代だ。

しかし、今の時代は、キリストの花嫁であるキリストの体の頭上に、主が『花嫁の顔を覆い隠すベール』をかぶらせてくださるモーションがすでにはじまっている時代だ。

今の時代は、キリストの体の各器官である各教団教派、個人個人が「互いにへりくだることができるようになって、1つの体となることができる」油注ぎと啓示と理解がキリストの体の上に臨もうとしている時代だ。

今の時代は、キリストの花嫁であるキリストの体の頭上に、『花嫁の顔を覆い隠すベール』が徐々にゆっくりゆっくりと近づいて来ている時代だ。

今の時代は、キリストの花嫁であるキリストの体の頭上に、『花嫁の顔を覆い隠すベール』が置かれ、『花嫁の顔を覆い隠すベール』の油注ぎに触れられたキリストの花嫁の顔は『花嫁の顔を覆い隠すベール』で徐々に少しずつ少しずつ覆われはじめる時代だ。

キリストの花嫁の顔が『花嫁の顔を覆い隠すベール』で全て覆われた時、キリストの花嫁としてキリストの体は婚姻の用意が整い、キリストの花嫁として完成するので、イエスキリストが花婿として、婚姻の用意ができたキリストの花嫁を迎えに来て下さる。

……しかし、キリストの花嫁であるキリストの体に、まだ『花嫁の顔を覆い隠すベール』がない時代がこれまでずっと続いていたことは、必要なことであり、適切なことだ。

何故なら……花嫁は純白のウェディングドレスを着る前に、『花嫁の顔を覆い隠すベール』をかぶるようなことをするだろうか?

もしも、花嫁が純白のウェディングドレスを着る前に、『花嫁の顔を覆い隠すベール』をかぶるようなことをすれば、花嫁は『花嫁の顔を覆い隠すベール』に視界を覆われて、前が見えにくい状態でウェディングドレスを着ることになってしまう。

……だから、花嫁は『花嫁の顔を覆い隠すベール』はさいごにかぶる。

それと同じように、各教団教派も、最初から他の教団教派に遠慮して、それぞれ薄い色になってしまっていてはどうだろうか?

各教団教派が、最初から、他の教団教派に遠慮して、薄いカラーになってしまっていて、ペンテコステのような、ホーリネスのような、カトリックのような、バプテスト…とかになってしまっていて混ざり合ってしまっていたらどうだろうか?

腎臓ほど腎臓の機能はない「肺のような腎臓」とか、

肺ほど肺の機能はない「腎臓のような肺」とか、

「~の器官ほどではないけど〰️の器官のような~の器官」とかしかない体であったとしたらどうだろうか?

……だから、キリストの体であるそれぞれの器官に与えられている、それぞれの形が整うまで、それぞれの教団教派がその教団教派として、その器官として整い完成するまで……

……「互いに尊敬し合い、互いにへりくだり合い、互いに耳を傾け合い、互いに教え合い、互いに教えられ合うことができる」ために必要な理解力と啓示と油注ぎ=『花嫁の顔を覆い隠すベール』=「へりくだりの油注ぎ」は、まだキリストの体には注がれてはいなかった。

キリストの花嫁であるキリストの体を、キリストの花嫁として完成させるために必要不可欠なパーツ、必要不可欠なピース、必要不可欠な油注ぎ=『花嫁の顔を覆い隠すベール』=へりくだりの油注ぎは……

……「最も暗闇が深まる終わりの時代の終わりの時代」に暗闇が深まれば深まるほどに増し加わり続けて、この地上の上に、歴史上なかったほどの栄光を満たすことができる油注ぎであり、キリストの花嫁をキリストの花嫁として完成させる油注ぎだ。

『キリストの花嫁の顔を覆い隠すベール』=へりくだりの油注ぎは「最も暗闇が深まる終わりの時代の終わりの時代」にキリストの花嫁であるキリストの体に注がれ増し加わり続ける。

「最も暗闇が深まる終わりの時代の終わりの時代」に暗闇が深まれば深まるほど、へりくだりの油注ぎは増し加えられ、この地上に神の御国の栄光を満たし、

「最も暗闇が深まる終わりの時代の終わりの時代」にキリストの花嫁であるキリストの体のへりくだりが完全に満ちて完全になる「その日」=キリストの花嫁の顔が『花嫁の顔を覆い隠すベール』で全て覆われた「その日」……キリストの花嫁として完成して、婚姻の用意ができたキリストの花嫁であるキリストの体は花婿イエスキリストと顔と顔とを合わせて会う。

📖"そうして、このしもべは、銀や金の品物や衣装を取り出してリベカに与えた。"
創世記 24章 53節

📖"しもべはリベカを連れて出かけた。
そのとき、イサクは、ベエル・ラハイ・ロイ地方から帰って来ていた。彼はネゲブの地に住んでいたのである。
イサクは夕暮れ近く、野に散歩に出かけた。彼がふと目を上げ、見ると、らくだが近づいて来た。
リベカも目を上げ、イサクを見ると、らくだから降り、
そして、しもべに尋ねた。「野を歩いてこちらのほうに、私たちを迎えに来るあの人はだれですか。」しもべは答えた。「あの方が私の主人です。」そこでリベカはベールを取って身をおおった。"
創世記 24章 61〜65節

📖"その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。"
コリント人への手紙第一 13章 12節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会