神を愛することを実行しようとして、隣人のために多くの犠牲、過剰な犠牲を払い、心が疲れ果てている人々がいる。
しかし、隣人のために何の犠牲も払わず、隣人のために何の行動をしなくても、「第一のこと」、「神を愛すること」を実行することはできる。
何故なら第一のことと、第二のことは同じことではないからだ。だから、第二のことを横に置いて、第一のことだけを実行することもできる。
隣人のために何の犠牲も払わず、隣人のために何の行動をしなくても、神の作品である隣人の存在を感謝し、喜び、尊敬することによって神を賛美してさえいれば「神を愛すること」「第一のこと」を実行できている。
そのように、神を賛美するだけでなく、神の作品である隣人の存在を感謝し、喜び、尊敬することによって神を愛し、第一のことを第一としている人は、
隣人を愛する愛が自然に泉のように溢れてくるようになるだろう。
"すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」"
マタイの福音書 11章 28〜30節
私たちが第二のことのために努力すればするほど、全てのことについて心から感謝することが難しくなる。
努力すればするほど、人と自分を比較せずにはいられなくなり、
人と自分を比較して人を、あるいは、自分自身をさばかずにはいられなくなる。
心に安らぎがなければ、心にさばきの思いがあふれ返る。第二のことを第一とすることをやめて、心に安らぎが来るまで、第二のこと、重荷を横に置き、
捨てるのではなくて、横に置き、あるいは なるべく量を減らし、
主が「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽い」と言われたとおりになるまで、第一のことを第一としていれば、
隣人を愛する純粋な愛が…さばき、非難、責め、見返りの要求等が混じっていない純粋な愛、アガペーの愛のような愛が、心から自然に泉のように溢れてくるだろう。
確かに主は私たちに、いのちの泉を与えてくださっている。しかし、主が約束してくださっている、いのちの泉は、心が過剰な重荷で塞がっていては、何割かしか沸き上がってくることはない。
聖書にこう書いてある。"力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。"
箴言 4章 23節
"しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」"
ヨハネの福音書 4章 14節
もし、第一のことを第一とせずに、「神を愛するために、隣人に良い行いをしなければならない。隣人のために犠牲を払わなければならない。」このように、第二のことを第一として生きるなら、心が疲れ果てて、心にさばきの思いが溢れてくる。
それは、第一のことを第一としていない歪み。
…とは言っても、当然のことながら、第二のことを実行することは、神に大いに喜んでいただけること。
だから、第二のことを第一としていても、神は大いに喜んでくださり、神は大いに祝福してくださっている。だが、第一のものを第一としていない影響、歪みは依然として存在している。
キリストの体である教会、我々は神のために隣人を愛し続けているので、神から大いに祝福されている。
だが、神が定めておられる原則、神が定めておられる優先順位の乱れによる影響、第一のものを第一としていない影響、歪み、「人をさばかずにはいられない思い」は依然として、キリストの体である教会、我々の中に存在している。
キリストの体である教会、我々は「人をさばかずにはいられない荒野」からは、まだ依然として脱出できていない。
第一のものを第一とするなら、私たちがぐるぐる回り続けていた「人をさばかずにはいられない荒野」から向きを変えて脱出することができ、約束の地に向かって進みはじめることができる。
そして、約束の地、神が約束してくださっている神のシャロームを所有することができる。
神が約束してくださっているとおりに、私たちは、私たちの心にシャロームを所有し、全てのことについて感謝することが難しいことではなくなる。
さあ、だから第一のことを第一としよう。キリストの体である教会、私たちは、主が定めておられる優先順位に立ち返ろう。主が定めておられる優先順位を回復させよう。壊れた祭壇を建て直そう。
そして、今以上に神に喜んでいただける祭壇を神のために築き上げよう。
"この宮のこれから後の栄光は、先のものよりまさろう。万軍の主は仰せられる。わたしはまた、この所に平和を与える。--万軍の主の御告げ--」"
ハガイ書 2章 9節
"私たちの神、主は、ホレブで私たちに告げて仰せられた。「あなたがたはこの山に長くとどまっていた。
向きを変えて、出発せよ。そしてエモリ人の山地に行き、その近隣のすべての地、アラバ、山地、低地、ネゲブ、海辺、カナン人の地、レバノン、さらにあの大河ユーフラテス川にまで行け。
見よ。わたしはその地をあなたがたの手に渡している。行け。その地を所有せよ。これは、主があなたがたの先祖アブラハム、イサク、ヤコブに誓って、彼らとその後の子孫に与えると言われた地である。」"
申命記 1章 6〜8節
"私たちは、舌をもって、主であり父である方をほめたたえ、同じ舌をもって、神にかたどって造られた人をのろいます。
賛美とのろいが同じ口から出て来るのです。私の兄弟たち。このようなことは、あってはなりません。
泉が甘い水と苦い水を同じ穴からわき上がらせるというようなことがあるでしょうか。
私の兄弟たち。いちじくの木がオリーブの実をならせたり、ぶどうの木がいちじくの実をならせたりするようなことは、できることでしょうか。塩水が甘い水を出すこともできないことです。
あなたがたのうちで、知恵のある、賢い人はだれでしょうか。その人は、その知恵にふさわしい柔和な行いを、良い生き方によって示しなさい。
しかし、もしあなたがたの心の中に、苦いねたみと敵対心があるならば、誇ってはいけません。真理に逆らって偽ることになります。
そのような知恵は、上から来たものではなく、地に属し、肉に属し、悪霊に属するものです。
ねたみや敵対心のあるところには、秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行いがあるからです。
しかし、上からの知恵は、第一に純真であり、次に平和、寛容、温順であり、また、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけのないものです。
義の実を結ばせる種は、平和をつくる人によって平和のうちに蒔かれます。"
ヤコブの手紙 3章 9〜18節
"すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。"
テサロニケ人への手紙第一 5章 18節