反論することは、さばきではない。
前々回のブログで、私は、私たちが互いに教え合い、互いに教えられ合うべきであることについて書いた。
だが、私たちは、相手の言いなりになるのではない。
聖書に、このように書いてある「教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがないように」
私たちが相手の言いなりになるなら、私たちは分別することをおろそかにし、無分別に身を委ねてしまっている。
聖書に、このように書いてある。「しかし、愛する人々よ。あなたがたは、自分の持っている最も聖い信仰の上に自分自身を築き上げなさい」
どうすれば、さばくことなく反論することができるだろうか?
私たちは質問することによって、さばくことなく反論し、互いに教え合うことができる。
例えば、聖書のことばに従わない人々に対して怒りを発する人に、「聖書には『全てのことについて感謝しなさい』とありますが、あなたご自身が今、この聖書のことばに違反しているように、私の目には見えるのですが?」と私は、さばくことなく質問することができる。
しかし、口では、さばくことなく質問していても、心の中で相手が間違っていると決めつけているなら、さばいていることになる。
口で質問し、心の中でも、「私の目には、このように見えているが、私の見間違い、勘違いかもしれない…だから質問してみよう…私の見間違い、勘違いであったことに気づかせてもらうことができ、私の目にある おが屑をとってもらえるかもしれない…」と期待しながら、質問するなら、反論しても、さばいていることにはならない。
私は、私の持っている最も聖い信仰の上に私自身を築き上げているが、
私の持っている最も聖い信仰は、現時点で最も聖い信仰なのであって、私の目に現時点では最も聖いと思える選択の上に築き上げられている。
私の目から おが屑が取り除かれると、以前は私の目には最も聖い選択、最も聖い信仰であったものが、最も聖いものではなくなってしまう。
そんな私であるから、誰かの目から おが屑をとろうとする時は慎重さが必要とされる。
私の目にある おが屑が原因で、私の目がはっきり見えるようになっていないため、相手の目に おが屑がないのに、おが屑があるように見えているだけかもしれない。
主から与えられているものであるのに、私の目に、不要なもの、おが屑に見えてしまっているだけかもしれない。
「もしだれも、あなたがたを受け入れず、あなたがたのことばに耳を傾けないなら、その家またはその町を出て行くときに、あなたがたの足のちりを払い落としなさい。」と聖書に書いてあるが、
これは、主によって、遣わされている場合のこと。
主の目に、罪ではあっても、主ご自身が、まだ悔い改めに導こうとしておられないことについて、私が悔い改めさせようとしている場合がある。
罪ですらないことを罪として悔い改めさせようとしている場合すらある。
その場合は、私は主に遣わされていないし、私が語る教えは、主からのことばではない。
にもかかわらず、私は大胆に「それは罪だ!悔い改めよ!」と誰かに言うのだろうか?まるでにせ預言者のように?
私の目に、不要なちりに見えるものを不要なちりと勝手に決めつけ、取り除こうとするのか?
まるで人の畑を土足で踏み荒らすかのように?
私は主の畑を土足で踏み荒らすのか?
主からの宝が、私の目には不要なちりに見えていて、私の間違った教えによって、不要なちりとして取り除いてしまったとしたら…
主の畑を土足で踏み荒らしてしまっている私の足の裏のちりの中に、その畑から決して失われてはいけない主からの宝、神の国から来ている、見えないほどに小さな からし種があったとしたら…。
だから私は、間違っているかもしれない私の教え、意見を、さばきながら押し付けたりはしない。
しかし、反対に、私の教え、意見は間違っているかもしれないからといって、おくびょうになり、恐れ、黙ったままでいることもない。
私は尊敬と慎みを持って、私の教え、意見を、質問という形で相手に投げかけ、シェアする。
聖書に、こう書いてある「神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。」
「だれでも、聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなさい。
人の怒りは、神の義を実現するものではありません。」
主が変化させようとしておられないのに、私の間違った教えによって間違った変化をさせてしまうことがないように、
「それは間違っていませんか?ちりではないですか?」と質問し、互いに教え合い、
相手が私の教えを受け入れないなら、私が来る前となるべく同じになるように、私は足の裏のちりをそっ…と丁寧にお返しするような気持ちで引き下がる。
私の教えが間違っているのに、私の教えが主からのことばではないのに、私の間違った教えによって、主の御心に歩んでいる人を横道にそらさないために。
私が、まっすぐに歩いて行く往来の人を招いて教えようとする「愚かな女」のようにならないために。
聖書にこのように書いてある「尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。」
「というのは、私たちの知っているところは一部分であり、預言することも一部分だからです。」