シャロームを所有する

私は預言の賜物の回復を願っている。しかし私は預言の賜物を否定する方々を心から尊敬し感謝している。私が預言の賜物を熱心に求めて聖書に従うためなら…私は預言の賜物を否定する方々を不満に思い…全て感謝せよと語る聖書に逆らってよいだろうか?預言を認める牧師先生だけ尊敬し…預言の賜物を否定する牧師先生含む5役者や教団教派の方々を尊敬せず…互いに尊敬しなさいと語る聖書に逆らってよいだろうか?自分が建てたい御言葉を建て上げるために他の御言葉を壊してできた砂の上に自分が建てたい御言葉を建て上げ…家を建ててよいのだろうか?

②「交わり」が「マジ割り!」にならならぬよう心から噴き出す思いを必死に押さえつけ…なくてもいいように「互いに教え合うこと」によってシャロームを所有する

私の教えが間違っているのに、私の教えが主からのことばではないのに、

私のことばが、主からのことばであるかのように、私が誰かに語っているなら、私は「愚かな女」と同じ。

主の御心に歩んでいる人を間違った教えによって、横道にそらそうと誘惑している「愚かな女」と同じ。

聖書には聞くに はやくと書いてあるのに、聞くにおそく、騒がしく、わきまえがなく、何も知らないのに、あざける者の座に着いている「愚かな女」と同じ。

聖書にこのように書いてある。ーーー“愚かな女は、騒がしく、わきまえがなく、何も知らない。

彼女は自分の家の戸口にすわり、町の高い所にある座にすわり、

まっすぐに歩いて行く往来の人を招いて言う。

「わきまえのない者はだれでもここに来なさい」と。

また思慮に欠けた者に向かって、彼女は言う。「盗んだ水は甘く、こっそり食べる食べ物はうまい」と。

しかしその人は、そこに死者の霊がいることを、彼女の客がよみの深みにいることを、知らない。”ーーー

私が盗みをそそのかしてはいなくても、間違った教えを主からの教えとして、誰かに語っているなら、私は主の御心をまっすぐに歩む人を誘惑している「愚かな女」と本質は同じだ。

私が誰かを教えようとする側である時、「愚かな女」のように、私が正しく、相手が間違っているだなんて決めつけたりはしない。

私が誰かに教えられる側である時、誰かが私を教えたり、誰かが私に反論する時、

私を教えようとする誰かを「愚かな女」とは決めつけない。その教えを間違った教えとは決めつけない。

もし、間違った教えと決めつけるなら、私を教えようとする誰かを「愚かな女」と決めつけている私こそが「愚かな女」になっている。

間違った教えではないかもしれない。「愚かな女」ではなくて、私の目から おが屑を取り除くために主が私に遣わして下さった「小娘」かもしれないと期待して私は耳を傾ける。

聖書にこのように書いてある。ーーー“知恵は自分の家を建て、七つの柱を据え、いけにえをほふり、ぶどう酒に混ぜ物をし、その食卓も整え、

小娘にことづけて、町の高い所で告げさせた。

「わきまえのない者はだれでも、ここに来なさい」と。

また、思慮に欠けた者に言う。

「わたしの食事を食べに来なさい。わたしの混ぜ合わせたぶどう酒を飲み、わきまえのないことを捨てて、生きなさい。悟りのある道を、まっすぐ歩みなさい」と。

あざける者を戒める者は、自分が恥を受け、悪者を責める者は、自分が傷を受ける。

あざける者を責めるな。おそらく、彼はあなたを憎むだろう。知恵のある者を責めよ。そうすれば、彼はあなたを愛するだろう。

知恵のある者に与えよ。彼はますます知恵を得よう。正しい者を教えよ。彼は理解を深めよう。

主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟りである。

わたしによって、あなたの日は多くなり、あなたのいのちの年は増すからだ。

もし、あなたが知恵を得れば、その知恵はあなたのものだ。もし、あなたがこれをあざけるなら、あなただけが、その責任を負うことになる。”ーーー

私を教える者、私に反論する者の教えに耳を傾けて聞いても、私が今、立っている私自身の最も聖い信仰、私が現時点で最善、もしくは最適と思える選択から動かずに、とどまっていようと思い、とどまることもある。

しかし、それでも私は私を教え、私に反論した人の教えを間違った教えとは決めつけない。

私の目には、この教えは間違った教え、あるいは、私にとっては不要な教え、特に必要ではない教えに思えるので、

私は分別して、私の最も聖い信仰に私自身を築き上げるが、

私の分別、選択が間違っているかもしれない。

「主よ。この教えがあなたからのものであるなら、またこの教えを私に与えて下さい。

私に『小娘』を遣わして下さい。

今は、私は、この教えを理解できていないのかもしれません。今の私には、この教えに従うだけの力がありません。もしかしたら、従う力はあるかもしれません。ですが、今はまだ見送りさせてください。

あなたは私を整え、成長させ、再び『小娘』を遣わし、私を教え、私の目から おが屑を取り除いて下さるお方です。

ですから、私は、私の間違っているかもしれない確信、選択に安心して立ち、平安に過ごすことができるのです。」