私の教えが間違っているのに、私の教えが主からのことばではないのに、
私のことばが、主からのことばであるかのように、私が誰かに語っているなら、私は「愚かな女」と同じ。
主の御心に歩んでいる人を間違った教えによって、横道にそらそうと誘惑している「愚かな女」と同じ。
聖書には聞くに はやくと書いてあるのに、聞くにおそく、騒がしく、わきまえがなく、何も知らないのに、あざける者の座に着いている「愚かな女」と同じ。
聖書にこのように書いてある。ーーー“愚かな女は、騒がしく、わきまえがなく、何も知らない。
彼女は自分の家の戸口にすわり、町の高い所にある座にすわり、
まっすぐに歩いて行く往来の人を招いて言う。
「わきまえのない者はだれでもここに来なさい」と。
また思慮に欠けた者に向かって、彼女は言う。「盗んだ水は甘く、こっそり食べる食べ物はうまい」と。
しかしその人は、そこに死者の霊がいることを、彼女の客がよみの深みにいることを、知らない。”ーーー
私が盗みをそそのかしてはいなくても、間違った教えを主からの教えとして、誰かに語っているなら、私は主の御心をまっすぐに歩む人を誘惑している「愚かな女」と本質は同じだ。
私が誰かを教えようとする側である時、「愚かな女」のように、私が正しく、相手が間違っているだなんて決めつけたりはしない。
私が誰かに教えられる側である時、誰かが私を教えたり、誰かが私に反論する時、
私を教えようとする誰かを「愚かな女」とは決めつけない。その教えを間違った教えとは決めつけない。
もし、間違った教えと決めつけるなら、私を教えようとする誰かを「愚かな女」と決めつけている私こそが「愚かな女」になっている。
間違った教えではないかもしれない。「愚かな女」ではなくて、私の目から おが屑を取り除くために主が私に遣わして下さった「小娘」かもしれないと期待して私は耳を傾ける。
聖書にこのように書いてある。ーーー“知恵は自分の家を建て、七つの柱を据え、いけにえをほふり、ぶどう酒に混ぜ物をし、その食卓も整え、
小娘にことづけて、町の高い所で告げさせた。
「わきまえのない者はだれでも、ここに来なさい」と。
また、思慮に欠けた者に言う。
「わたしの食事を食べに来なさい。わたしの混ぜ合わせたぶどう酒を飲み、わきまえのないことを捨てて、生きなさい。悟りのある道を、まっすぐ歩みなさい」と。
あざける者を戒める者は、自分が恥を受け、悪者を責める者は、自分が傷を受ける。
あざける者を責めるな。おそらく、彼はあなたを憎むだろう。知恵のある者を責めよ。そうすれば、彼はあなたを愛するだろう。
知恵のある者に与えよ。彼はますます知恵を得よう。正しい者を教えよ。彼は理解を深めよう。
主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟りである。
わたしによって、あなたの日は多くなり、あなたのいのちの年は増すからだ。
もし、あなたが知恵を得れば、その知恵はあなたのものだ。もし、あなたがこれをあざけるなら、あなただけが、その責任を負うことになる。”ーーー
私を教える者、私に反論する者の教えに耳を傾けて聞いても、私が今、立っている私自身の最も聖い信仰、私が現時点で最善、もしくは最適と思える選択から動かずに、とどまっていようと思い、とどまることもある。
しかし、それでも私は私を教え、私に反論した人の教えを間違った教えとは決めつけない。
私の目には、この教えは間違った教え、あるいは、私にとっては不要な教え、特に必要ではない教えに思えるので、
私は分別して、私の最も聖い信仰に私自身を築き上げるが、
私の分別、選択が間違っているかもしれない。
「主よ。この教えがあなたからのものであるなら、またこの教えを私に与えて下さい。
私に『小娘』を遣わして下さい。
今は、私は、この教えを理解できていないのかもしれません。今の私には、この教えに従うだけの力がありません。もしかしたら、従う力はあるかもしれません。ですが、今はまだ見送りさせてください。
あなたは私を整え、成長させ、再び『小娘』を遣わし、私を教え、私の目から おが屑を取り除いて下さるお方です。
ですから、私は、私の間違っているかもしれない確信、選択に安心して立ち、平安に過ごすことができるのです。」