私たちは、神の恵みによって力ある者、偉大な者、素晴らしい存在となっていることを喜んではいけないのだろうか?
それは、傲慢、高ぶりなのだろうか?
自分自身の価値、評価を高くすることは傲慢、高ぶりなのだろうか?
聖書にこう書いてある。…"「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」
「富と誉れは御前から出ます。あなたはすべてのものの支配者であられ、御手には勢いと力があり、あなたの御手によって、すべてが偉大にされ、力づけられるのです。」
「神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。」
「まことに、あなたがたに告げます。女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした。しかも、天の御国の一番小さい者でも、彼より偉大です。」"
主が私を愛してくださっているだけでなく、高価で尊いと言ってくださっている。
なのに、もし、私が「私はとるに足りない者です」と言うなら、
私は謙遜な者かもしれないが、神のことばに同意せず、神のことばを否定している者、神の御前に、へりくだっていない者、神の御前において、傲慢な、高ぶった者になっている。
神は謙遜な者に目をとめてくださる。
聖書にこう書いてある。「モーセはエジプト人のあらゆる学問を教え込まれ、ことばにもわざにも力がありました。」
「モーセという人は、地上のだれにもまさって非常に謙遜であった。」
「ああ主よ。どうかほかの人を遣わしてください。」
しかし、神が求めておられるのは、謙遜なだけではなくて、神のことばに同意し、神のことばを認め、神のことばの下にへりくだる者。
主が「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」と語りかけてくださっていることばを信じ、認め、神のことばの下にへりくだり、「アーメン。そうです。私は高価で尊い者です」と信じ、認め、神のことばの下にへりくだる者を主は求めておられる。
主が「勇士よ。」と語りかけてくださっていることばの下にへりくだり、信じ、認める者を神は求めておられる。
神は謙遜な者を好まれ、謙遜な者に目をとめてくださる。
神は謙遜な者を高く上げてくださる。
神が求めておられるのは、神が高く上げようとする時に、高く上げられることを拒む謙遜なだけの者ではなくて、
神が高く上げようとする時に、高く上げられることを拒まない者、神のことばの下にへりくだる者。
なんでもないとるに足りない者であるのに、神にあって力あるもの、偉大な者とならせてくださっていることを信じ、認め、神のことばの下にへりくだる者。
私たちは、神の恵みによって力あるもの、偉大な者、素晴らしい存在となっていることを喜んではいけないのだろうか?
それは、傲慢、高ぶりなのだろうか?