シャロームを所有する

私は預言の賜物の回復を願っている。しかし私は預言の賜物を否定する方々を心から尊敬し感謝している。私が預言の賜物を熱心に求めて聖書に従うためなら…私は預言の賜物を否定する方々を不満に思い…全て感謝せよと語る聖書に逆らってよいだろうか?預言を認める牧師先生だけ尊敬し…預言の賜物を否定する牧師先生含む5役者や教団教派の方々を尊敬せず…互いに尊敬しなさいと語る聖書に逆らってよいだろうか?自分が建てたい御言葉を建て上げるために他の御言葉を壊してできた砂の上に自分が建てたい御言葉を建て上げ…家を建ててよいのだろうか?

イエスキリストにあってすでに与えられているシャローム

聖書にこう書いてある。「すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」

すべての事について感謝して生きることができる特権。

これが、イエスキリストのゆえに、神が、この地上において、私たちに与え、所有させてくださっているエデンの園神の国、約束の地、シャローム

アダムとエバエデンの園は所有していたが、すべての事について感謝して生きることができる特権を所有していなかったため、エデンの園を敵に奪われた。

しかし、十字架の贖いによって、イエスキリストがこの特権を奪い返して下さったので、私たちは、この特権を所有して生きることができる。

この地上がエデンの園であるかのように、この地上で、全てのことについて感謝して生きることができる。

私たちは、そのように生きることができる。この地上を全てのことについて感謝することができる場所とし、生きることができる。

私たちは信仰によって、この地上を「全てのことについて感謝できる場所」に変えるのではない。

私たちは信仰によって、この地上が、「全てのことについて感謝できる神の御手の内にある場所」であるという、イエスキリストにある事実、真理を知り、

天のエルサレムがまだ天から下って来ていなくても、この地上で、その事実通りに生きることができる。

しかし、反対に、豊かさと満たしの中にいたはずの放蕩息子が飢え死にしそうになったように、

私たちは信仰によって、イエスキリストにあって、エデンの園のように、全てのことについて感謝することができるはずのこの地上にいながら、砂漠にいるかのように生きることもできる。

何故、この地上が全てのことについて感謝することができる場所だと言えるのだろうか、

それは聖書にこう書いてあるからだ。「すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」