黄色、黒色、赤色、白色、緑色を相手に見せながら、その順序で福音を説明するという有名な伝道方法がある。
黄色「天国はある」→黒色「しかし、人には罪があるので罪のある者は誰も天国に入ることができない」→赤色「だから、イエスキリストが…」…
このような順序で福音が語られることはさほどめずらしくない。
このような順序で福音が語られる場合は「天国はある」とか「神は存在していて神はあなたを愛している」という仮定、前提のもとに話が進められる必要がある。
「天国はある」…何故?何のために?…イエスキリストの存在を認めていない者に「天国」が何故、何のためにあるかを論理的に説明することはできない。
私が言っている「論理的に説明する」とは=「ほとんどの人が『事実である』と共通認識できる事実」を置いてから話を進めるということだ。
「天国はある」このことは確かに事実だが、事実だと思っていない人が大勢いる。
イエスキリストと何の関係も持たない人は「天国」とは何の関係もなく、「天国」とは無関係な日々を過ごしていて、「天国」と何の接点もない。
何の接点もないので、「あなたはこうですよね?だから天国に行くんですよ」…とは言えない。
イエスキリストと何の関係も持たない者の手には天国に通じる鍵、チケット、天国に行ける理由は何1つない。天国に通じる鍵、チケット、天国に行ける理由はイエスキリストであるからだ。
その手には地獄へのチケット、地獄に行く理由となる罪しかない。
イエスキリストと何の関係も持っていない人と関係がある場所、接点のある場所は「天国」ではなくて「地獄」だ。
「天国」との接点はないが「地獄」との接点はあるので「あなたはこうですよね?だから地獄に行くんですよ」…と言うことはできる。できはするが、「天国はある」と言わずに、いきなり「地獄はある」とか…開口一番に「あなたは罪人だから悔い改めなければ地獄に行くことになる」と言う伝道方法はおすすめできない。今の時代の人々は責め、蔑むことばはもうすでに聞き飽きるほど聞いていて、心を閉ざし耳をふさぐだろう。
だから、私は開口一番は相手の罪を指摘することばではなく、相手にとっての都合のいいことば、良い知らせを語る。
「罪人は地獄に行く」…この事実を、相手にとって都合のいいことばに置き換えて、相手にとって都合のいい、良い知らせとなる切り口で語りはじめることによって福音を宣べ伝えることができる。
…例えば、以下のようなことばで福音を宣べ伝えることができる。
「この地上で生きている期間、人を虐げ続け、自分はのうのうと生き続け、そして寿命を全うして死んでいった悪人たちが歴史の中には実際に存在する。
しかし、そのような悪人たちを神がそのままにしておかれることはない。他者を虐げ続けておきながら、自分はのうのうと生き続けた悪人に、神はさばきを下さずに、そのままで済ますことはない。
神はその悪人たちが地上で行った悪に応じてふさわしい罰を与える。
この地上で誰も罰を与えることができない者たちが死んで後…神がその行いに応じて報いを与える。
神のさばきから誰一人逃れることはできない。この地上で誰も裁けない者、法律で裁けない者、冤罪、時効…人間が死んで後、そういった全てが神の前で明らかにされ、神からの刑罰を受ける。一国の王であろうと、大富豪であろうと、どのような社会的地位にあろうと、どれほど優れた者であろうと、誰も逃れることはできない。
だが……あなた自身も彼らと一緒に同じように神の刑罰を受けることになる。
何故?…と思うだろうか?あなたと彼らといったい何が違うと言うのか?あなたも神の前では彼らと同じだ。
…自分は法律に触れていないと思うだろうか?法律によって下される刑罰から逃げおおせていた彼ら…人間の法律では罰を与えることができなかった彼らが死んで後に神の刑罰を受けるのと同じように…法律に違反していないあなたも、神の法律に違反した罰を受ける。
神は人を人間の法律によって裁くのではなく、全ての人を神の法律によってさばくからだ。
「神の法律とは何だ。神の法律など私は知らないし、聞いたこともない。それなのに神は私が神の法律とやらに違反した罰を私に受けさせるというのか」
…とあなたは思うだろうか…?
いいや、あなたは神の法律を確かに知っている。神はそのことが悪であることを知らない者に罰を与えるようなことはしない。それが悪だと知っていてその悪を行った者に神は罰を与える。神は義なる神であるからだ。
神の法律はあなたの心に書かれている。あなたの心にある良心が神の法律についてあなたに告げ、あなたに警告している。
あなたの心にある良心、良心の痛みが「してはならないこと」について「神の法律」についてあなたに告げ、警告している。
「神の法律」とは「自分自身を愛し、隣人たちを愛しなさい」という1つのことばに要約できる。
そして…「自分自身を愛し、隣人たちを愛しなさい」ということばに要約できる「神の法律」の1つ1つを具体的に言うと…、「互いに相手を自分より優れた者として心から尊敬しなさい」「心の中で相手を見下してはならない」「心の中で相手に『ばか』と言ってはならない」「心の中で誰かのものを欲しいと思ってはならない」「嘘を言ってはならない」「心の中で誰かの不幸を願ってはならない」「殺してはならない」「自殺してはならない」…等…他にもたくさんあるが、これらのことだけでなく他にもたくさんある全ての「神の法律」は「自分自身を愛し、隣人たちを愛しなさい」という1つのことばに要約することができる。
あなたがこれらの神の法律に反し、このように自分自身を愛し、隣人たちを愛することができていないなら、あなたの心、良心は痛みを感じる。
幼い頃、親から、あるいは教師から「こうしてはいけません」と言われただけでなく、あなたには、それに同意する心、良心があって、「そうだ。それはいけないことだ」と知っている。物心ついた時、親も教師もいない環境で育った人であっても知っていることであるからだ。それどころか、「憎しみ」だけを教えられて育った子供ですら知っている。
人々の中には良心の痛みを無視し続けたために良心の警告機能が壊れて麻痺している人もいるだろう。しかし、良心の警告を1度も受けずに悪を行った人はいない。
もし、良心の痛みを1度も感じたことなく、悪いことだと知らずに行った悪であれば神に数えられることはない。神は義なる神であるからだ。
悪を行う者はみな、良心の痛みによる警告を受けており、それが「してはいけないこと」だと知りながら悪を選択している。
だから、悪いことだと知りながら悪を選択した者は誰でも神からの罰を受ける。
神は全ての人に警告を与えた。だから、神からの警告を無視して悪を選択し、その行った悪に応じて、全ての人一人一人に、神は報いを与える。
「神様がいるなら、私の目の前に現れて、私に直接語ってくれればよかったのです。そうすれば、私は地上で生きている期間、あんなことはしなかったでしょう」…と肉体が死んで後に神の前で言う人がいるかもしれない。
神があなたに存在を現すか現さないかは神の自由だ。あなたの訴えは退けられる。
何故なら、神は「してはならないこと」を告げた。あなたは「してはならない」と知りながら「してはならないこと」を選択し行った。1回や2回ではない…何度も何度も…神からの警告を無視し続けたことをあなた自身が知っている。
…だからあなたに弁解の余地はない。あなたは死んで後、あなたが地上で悪だと知りながら行った悪の行いに応じて神の刑罰を受ける。神の刑罰を受けている時、あなたは死にたいと願うだろう。しかし、死ぬことはできない。肉体が死んで後に死ぬことはできない。
だから、神の警告を聴け。あなたの肉体が生きている期間、神はあなたに警告し続けてくださっている。
あなたの肉体が生きている期間、神はあなたの肉体のいのちを保ち、あなたが「神の法律」に違反した罪を免除されるチャンスを保っておられる。
あなたが神の法律に違反していることを認めて、神に赦しを求めるなら…
あなたが神の法律に違反した全ての罪の罰を罪のないイエスキリストが十字架であなたの身代わりに背負い受けた愛を自分のものとして受けとることによって、あなたが神の法律に違反した全ての罪が赦され、免除される赦しを得、肉体が死んで後、神があなたを赦し受け入れ、あなたの全ての涙をぬぐい、あなたを愛し祝福してくださる天国で生きる者とされる招待状を神は生きている全ての人のために備えておられる。
私たちはこの招待状を受けとるために生まれた。この地上は、神が備えた招待状と赦しと愛を受けとるか、受け取らないかを選択させるための場所だ。
「神からの赦しなんて必要ない」かのように神に背を向け続けた者たちと、神が備えてくれた招待状と赦しと愛を受けとった者たちとがより分けられるための場所として、この地上はある。
この招待状と赦しと愛をこの地上で受け取らずに神に背を向け続けた者は、肉体が死んで後、神の法律に違反した罪をことごとく明らかにされ、ことごとく数えられ、その罰をことごとく受けることになる。
しかし、2つのことを認めれば、神からの招待状と赦しと愛を受けとることができる。
「自分(私)は神の法律に違反したので天国に行くことができず神からの罰を受けることになることを認める」こと
「人間が神の法律に違反した全ての罪の刑罰を免除するために、罪のないイエスキリストが身代わりに十字架で苦しみと罰を受けてくれたので、自分(私)は罪が免除された者として天国に行くことができる」こと
この2つを短く言うと…「神様ごめんなさい」「イエス様、私の罪の罰を全部、私の身代わりに受けて背負うために十字架にかかってくれてありがとう」
これが神からの福音、神からの良い知らせ、グッドスペル=ゴスペル(福音)だ。
では…あなたに質問します。あなたは神からのこの招待状と赦しと愛を自分のものとして受けとりますか?
もし、受けとりたいと願うなら、このことばを語ることによって受けとることができます。
「私の罪の赦しのために十字架にかかってくださったイエス様…私の罪を赦してください」