多くを主のために教会に捧げたのに、牧師先生から正しく評価されていない、捧げた犠牲に見合うような対応をしてもらえていない、してもらえなかった過去があると感じている人は幸いです。
それどころか、恩を仇で返されている、返されたことがあると感じている人は幸いです。
自分が捧げた犠牲がまるでなかったことのように忘れられていると感じている人は幸いです。
何故なら神様は、あなたが主のために教会に捧げた犠牲をことごとくおぼえておられるから。
もちろん、牧師先生が感謝の模範を見せてくれることは聖書的な理想であると思う。
しかし、聖徒たちを訓練し、整えるために、そうやすやすと感謝しない方針の牧師先生であるのかもしれない。
しかし、例え牧師先生は、あなたが主のために教会に捧げた犠牲を軽く見たり、軽く扱ったり、忘れていても、主は忘れることなくずっとおぼえておられる。
牧師先生を祝福した人、教会を祝福した人を神様はいつまでもおぼえておられる。
何故なら聖書にこのような約束のことばが書かれているからだ。
"わたしの弟子だというので、この小さい者たちのひとりに、水一杯でも飲ませるなら、まことに、あなたがたに告げます。その人は決して報いに漏れることはありません。」"
マタイの福音書 10章 42節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会
"だが、愛する人たち。私たちはこのように言いますが、あなたがたについては、もっと良いことを確信しています。それは救いにつながることです。
神は正しい方であって、あなたがたの行いを忘れず、あなたがたがこれまで聖徒たちに仕え、また今も仕えて神の御名のために示したあの愛をお忘れにならないのです。"
ヘブル人への手紙 6章 9〜10節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会
"自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。"
マタイの福音書 6章 20節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会
あなたが牧師先生に、教会に捧げた犠牲を神様は忘れることなく、受け入れておられる。
牧師先生、教会に犠牲を捧げ祝福したことを神様は喜んでおられ、覚えておられ、受け入れておられ、あなたを祝福してくださっている。
神は聖書によってこのように約束してくださっている。
「あなたを祝福する者をわたしは祝福する…」
創世記 12章 3節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会