シャロームを所有する

私は預言の賜物の回復を願っている。しかし私は預言の賜物を否定する方々を心から尊敬し感謝している。私が預言の賜物を熱心に求めて聖書に従うためなら…私は預言の賜物を否定する方々を不満に思い…全て感謝せよと語る聖書に逆らってよいだろうか?預言を認める牧師先生だけ尊敬し…預言の賜物を否定する牧師先生含む5役者や教団教派の方々を尊敬せず…互いに尊敬しなさいと語る聖書に逆らってよいだろうか?自分が建てたい御言葉を建て上げるために他の御言葉を壊してできた砂の上に自分が建てたい御言葉を建て上げ…家を建ててよいのだろうか?

「③牧師先生に教会に主のために捧げた犠牲を主はいつまでもことごとくおぼえておられる③」

純粋で、非常に高価なナルド油の入った石膏のつぼを持って来て、そのつぼを割り、イエスの頭に注いだ時、

エス様の時、「神の時」をこの地上に来させた。

エス様が「わたしの時はまだ来ていません」と語られ、まだ来ていなかった「イエス様の時」を来させた。

純粋で、非常に高価なナルド油の入った石膏のつぼを持って来て、そのつぼを割り、イエスの頭に注いだ時、ユダがイエス様を売り渡すために動き出し、イエス様を十字架につけるための計画が実現に向かい本格的に動き出した。

"イエスがベタニヤで、ツァラアトに冒された人シモンの家におられたとき、食卓に着いておられると、ひとりの女が、純粋で、非常に高価なナルド油の入った石膏のつぼを持って来て、そのつぼを割り、イエスの頭に注いだ。"
マルコの福音書 14章 3節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会

"まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。」
ところで、イスカリオテ・ユダは、十二弟子のひとりであるが、イエスを売ろうとして祭司長たちのところへ出向いて行った。"
マルコの福音書 14章 9〜10節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会

あなたの大きな大きな犠牲が天に入る時、イエス様の手に渡される時、

あなたの人生に「神の時」を来させる。

「人にわかってもらえなくても神様にわかってもらえてるだけで満足しないといけないんですよね…わかりました…主よ。それでいいです。従います。我慢します…」そのような捧げ方は律法的な捧げ方。

律法的に捧げるとは、=心が満たされていないのに我慢して捧げること。

心が満たされていないけど我慢して律法的に自分を神様に捧げても、その中身は純粋で、非常に高価なナルド油ではなく、高価な香油。あるいは純粋ではないけど非常に高価な香油。

自分を神に捧げることは=「石膏のつぼを割ること」

石膏のつぼの中身は、=どのような心で自分を神に捧げているか

満たされていない心で我慢して自分を律法的に捧げるなら中身は高価な香油。

満たされた心で恵みと感謝と賛美に満ちて自分を神に捧げるなら中身は純粋で、非常に高価なナルド油。天から「神の時」を地上に来させる。あなたの人生において新しい「神の時」を開始させる。

我慢して律法的に自分を捧げる者は他者にも我慢して律法的に自分を捧げることを強要することになるだろう。

もちろん。我慢して律法的に自分を捧げた人、捧げている人のことも神様は喜び、受け入れ、いつもおぼえておられ、祝福してくださっている。

献身、献身的な大きな犠牲は神の目に非常に高価な尊いものとみなされている。

父に仕えていた放蕩息子のお兄さんに父は「私のものは全部おまえのものだ」と言った。

神に仕える者たちが、神に仕える者に神は惜しみなく与えてくださることを知り、信仰によって信じ感謝し賛美し、信じたとおりのことが実現し、実感し、心が感謝と喜びと満足で満たされ、非常に高価なナルドの香油が満ちあふれ神様の御手の中に捧げられますように。

"父は彼に言った。『子よ。おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。"
ルカの福音書 15章 31節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会