いつでも全てのことについて主に感謝しながら毎日を過ごしたいと願うなら…
自分自身がそのような家として築き上げられることを願うなら…
そのために必要不可欠な柱となる御言葉がある。ピリピ人への手紙 2:3『…へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい』
もし…人を愛していない誰かが「私は人を愛していないが、神は愛している」と言ったなら…どうだろうか?
隣人を愛することをせずに神を愛することができないことを聖書は明らかに語っている。
それと同じように、全ての人を尊敬できていない誰かが「私はいつでも全てのことについて神に感謝している」と言ったなら…どうだろうか?
不満があるがゆえに尊敬できていない人がいるのに、どうして「全てのことについて感謝している、全てのことについて不満はない」と言えようか。
「へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい」という御言葉の柱がないのであれば、いつも全てのことについて主に感謝できていないことは明らかだ。
もし…ピリピ人への手紙 2:3の御言葉の柱がないのであれば、どうなるのかがヤコブの手紙 3:9~11に書いてある。『私たちは、舌で、主であり父である方をほめたたえ、同じ舌で、神の似姿に造られた人間を呪います。
同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。私の兄弟たち、そのようなことが、あってはなりません。
泉が、甘い水と苦い水を同じ穴から湧き出させるでしょうか。』
ピリピ人への手紙 2:3の御言葉の柱がなくても、もちろん主に感謝はできるだろう。しかし、主に感謝はできていても、その感謝は「いつも」にはなっていないし、全てのことについて感謝していることにはならない。
時々、人を批判したり、非難していて不満になっているので、いつも全てのことについて主に感謝したくても、「感謝」が時々「不満」におおいつくされて、感謝が不満に変わってしまっていて、感謝が倒されている。
感謝の火が風に揺らされることは誰でもあることだろう。感情が揺れることは当然のこと。主も『肉は弱い』と言われた。そうであっても感謝の火が消えないように、不満におおいつくされる前に、不満に変わりそうな心を感謝に変えることが間に合えば、感謝の火を灯し続けることができる。
感謝が不満に変わり、感謝が倒され、感謝の火がしばらくの間、消えてしまっていても、完全には消えていない。燃える火は消えていても、くすぶる灯心が残っている。
家の土台がイエスキリストであるならば、
イエスキリストに捧げられる感謝の火は再び灯されるだろうし、感謝と賛美と礼拝がひどい倒れかたをして崩れ去ってしまうようなことはないだろう。
火が消えたままになっている日が続くことがあっても、数日後には火は再び灯されるだろう。
だが、火が消えずに保たれている日も同じように、ほんの数日しか続かない。
火が消えない日、感謝が不満によって倒されない日は少ない。
灯した火が消えたり、また灯したり、また灯した火が消えたりすることがくりかえされる。ヤコブの手紙3:9~11では、感謝の火が消えたり、倒されることを「泉が苦い水を湧き出させる」と表現している。
[ヤコブの手紙 3:9~11]
『私たちは、舌で、主であり父である方をほめたたえ、同じ舌で、神の似姿に造られた人間を呪います。
同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。私の兄弟たち、そのようなことが、あってはなりません。
泉が、甘い水と苦い水を同じ穴から湧き出させるでしょうか。』
人は泉とは違って苦い水(=人にたいするさばき、批判、非難、不満)と甘い水(=主に捧げる感謝、賛美、礼拝)をその心から湧き出させることができる。
聖書にこう書いてある。『さばいてはいけません』しかし、聖書にはこうも書いてある。「互いに教え、忠告し合いなさい」
教えは聖書的で良いことだが、教えながら隣人をさばいている人がいる。自分が教えていることに従わない人、同意しない人のことを不満に思う人がいる。
自分が教えていることを受け入れない人たちのことも、さばくことなく、自分よりすぐれた者と思って尊敬していないなら、柱がない家のように感謝が倒されて不満に変わってしまう。
自分の教えを実行しない者を尊敬できない者は隣人をさばいている。もし、尊敬できていない隣人がいるのであれば、その隣人をさばいている。ことばに言いあらわしていなくても…心にさばきがあり、心に不和があり、『敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派』がある。
自分のことばを控え、相手の言いなりになることが聖書的な尊敬ではない。
自分のことばを控えず自分の意見を明確に語っていようとも、
自分が語っている教え、意見を受け入れない人のことを尊敬し、
反論にたいして耳だけでなく心を傾けて教えを受ける姿勢で聴くことが聖書的な尊敬であり、
そうすることが聖書に書かれている「互いに教え合う」ことだ。何故なら聖書に書かれている「互いに教え合いなさい」は「互いに教えられ合いなさい」だからだ。