シャロームを所有する

私は預言の賜物の回復を願っている。しかし私は預言の賜物を否定する方々を心から尊敬し感謝している。私が預言の賜物を熱心に求めて聖書に従うためなら…私は預言の賜物を否定する方々を不満に思い…全て感謝せよと語る聖書に逆らってよいだろうか?預言を認める牧師先生だけ尊敬し…預言の賜物を否定する牧師先生含む5役者や教団教派の方々を尊敬せず…互いに尊敬しなさいと語る聖書に逆らってよいだろうか?自分が建てたい御言葉を建て上げるために他の御言葉を壊してできた砂の上に自分が建てたい御言葉を建て上げ…家を建ててよいのだろうか?

「②牧師先生に教会に主のために捧げた犠牲を主はいつまでもことごとくおぼえておられる②」

神様はこの地上であなたが捧げた犠牲を受け入れ、おぼえてはおられるが、まだ神様の手の中には入っていない可能性もある。確かに神様は受け入れておられ、おぼえておられるけど、受け取ろうと手を広げて待っておられる状況かもしれない。まだ神様の手に渡されていなくて、まだ天に入っていないかもしれない。

まだ神様の手に渡される寸前、天の中に入る寸前でとまっているかもしれない。

何故なら、聖書には、このように書かれているからだ。

"あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。"
マタイの福音書 6章 21節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会

"だから、施しをするときには、人にほめられたくて会堂や通りで施しをする偽善者たちのように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。"
マタイの福音書 6章 2節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会

牧師先生に、教会に捧げた事実は変わらない。神様はいつまでもおぼえていて下さる。しかし、それらを天の中に入れるか、入れないかは、あなたの心によって決定される。

もし、自分が教会のために捧げた犠牲が、牧師先生の目にはなかったことのように見なされていると感じているなら、その人は幸いです。

その犠牲、その宝を天に贈り届け、天の中に入らせ、神様の御手、イエス様の御手に渡し、受け取ってもらうことができるからです。

「私が教会のために捧げた犠牲を牧師先生がまるでなかったことのように見なしていても、かまいません。

主よ。あなたがおぼえていてくださいますから。主よ。我が犠牲、捧げ物、捧げた奉仕、労苦、時間を御手にゆだねます。」

その時、宝は天に入る。その時、宝はイエス様の手の中に入る。

あなたの心が、あなたが地上で捧げた宝を天に入れるか、入れないか、イエス様の手の中に入れるか、入れないかを決定する。

教会に捧げた事実はいつまでも変わらず、イエス様もいつまでもおぼえていてくださる。

それを地上にとどめたままにしておくか、天に入る寸前でとめておくかはあなたの心によって決定される。

敵はそれらが天に入ることを恐れている。だから、それらが天に入ることがないように、あなたの心を地上につなぎとめようとする。

「あんなに教会に捧げたのに…」「こんなに教会に捧げているのに…」

そう思うことは当然のこと、大きな犠牲であればあるほど、天に入らせるのは難しい。大きな犠牲であればあるほど敵もそれらを天に入らせないように妨げる。

大きな犠牲であればあるほど、天に入らせることは難しい。

しかし、どうかおぼえていてほしい。あなたの地上の肉体の命の続く限り、いつでも、あなたが地上で捧げた宝を天に入らせる選択をする自由がある。

あなたの地上の肉体の命の続く限り神におぼえられていて、なくなることはない。

人にわかってほしい気持ちは大切な気持ちだ。それをごみのように捨てる者は、他者にもごみのように捨てることを律法的に強要し、人への感謝を軽んじるようになるだろう。

人にわかってほしい気持ちは大切な気持ちだ。それを捨てるのは心を捨てること。神に似せてつくられた自分の形、ありようを否定すること。必ず心にひずみ、ゆがみ、ずれ、ひび割れを生じさせる。

人にわかってほしい気持ちを捨てるのではなく、神様にゆだねる。人からより神様から与えられるむくいを求め、律法的にではなく、神様の恵みによって心が満たされ、「人にわかってもらえなくても、神様、あなたがわかっていてくださる…それで十分です…。」と心の底から思えた時、そらの捧げ物は天に入っていく。

現代においては直接神様にではなく、教会に、牧師先生に、兄弟姉妹、隣人に神様のための捧げ物は渡される。

エス様は十字架の犠牲を「御手にゆだねます」と言って天の父の手の中に渡してくださった。

地上で捧げた犠牲が天に入る時、イエス様の手に渡される時、天が地上に下ってくる。

旧約の時代に天からの火が下ったように、

エス様の手の中に渡された5つのパンと2匹の魚が五千人の倍か、それ以上の人々を満たしたように、天が地上に下ってくる。敵はそれを恐れている。