シャロームを所有する

私は預言の賜物の回復を願っている。しかし私は預言の賜物を否定する方々を心から尊敬し感謝している。私が預言の賜物を熱心に求めて聖書に従うためなら…私は預言の賜物を否定する方々を不満に思い…全て感謝せよと語る聖書に逆らってよいだろうか?預言を認める牧師先生だけ尊敬し…預言の賜物を否定する牧師先生含む5役者や教団教派の方々を尊敬せず…互いに尊敬しなさいと語る聖書に逆らってよいだろうか?自分が建てたい御言葉を建て上げるために他の御言葉を壊してできた砂の上に自分が建てたい御言葉を建て上げ…家を建ててよいのだろうか?

「①神の御国を地上に来たらせる権威①癒しの信仰を成長させるために必要な手順」

「癒してください」と主に願うのではなくて、「主の御名によって病に命じる権威が与えられていること」について知ることは重要だ。

もちろん「癒してください」と主に願うことによって、自分や誰かの病が癒されることも、さほど珍しいことではない。何故なら、癒されることは主の御心だからだ。

しかし、世界的な癒しの器である人たちは「癒してください」と主に願うのではなく、「主の御名で病に命じる権威」を知っている。

「主が全能であり、癒し主であること」だけを信じている者を通して地上において実現する癒しと、

「主が癒し主であること」だけでなく、「病に命じる権威が主から与えられていること」についても理解している者を通して地上において実現する癒しは同じではない。

主が与えてくださっている「権威」を用いてなしとげられる癒しと、主が与えてくださっている「権威」を用いずになしとげられる癒しは同じではない。

「癒してください」と祈っても癒すことができなかった病いを「病に命じる権威を用いること」によって癒すことができるようになるのは何故だろうか?

病が癒されることは主の御心だ。病が癒されることは主の御心なのであれば、「癒してください」と言って祈ろうと、病に命じようと、どちらも同じように癒され、御心通りにならないのは何故だろうか…?

…そうであるからこそ、主の御心が地上になるために教会と聖徒に主が与えてくださっている権威を理解して、教会と聖徒が権威を用いることによって神の御心がさらに広く高く深く実現するようになることを主は願っておられる。

「癒してください」と祈っても癒されることがほとんどなかった巨人のような山のような病の上に神の御国が臨んで巨人が倒され、山が平地となり、神の御国=神の御心がさらに広範囲に及ぶようになるために、主が教会と聖徒に与えておられる権威について理解し用いてほしいと主は願っておられる。

「癒してください」と祈っても癒されないことがあるのは、癒されることが主の御心ではないからではない。

「癒してください」と祈っていた頃には癒されることがほとんどなかったような病を癒すことができる権威を主はすでに教会と聖徒に与えておられる。

重要なことは「『癒してください』と言わずに『癒されよ』と言うこと『だけではない』」

「癒してください」と言うのではなく「癒されよ」と言うことも有益ではあるが、もっと重要なことは「癒されよ」と言うだけでなく「病に命じる権威が聖徒に与えられていることを理解すること」だ。

しかし、深く理解できていなくても、確信がまだなくても「癒してください」と言うのではなく「癒されよ」と言うことによって、理解がさらに深まり、確信が強められる。

信仰はキリストについてのみことばを聞くことからはじまる。

「癒されよ」と言うことによって「癒されよ」と自分自身が言っていることばを聞くことができる。

もし、病に命じる権威が聖徒に与えられていることをもっと理解しもっと確信したいなら、「癒されよ」と言うだけでなく、「癒されよと言うこと」がどういうことであるのかをより詳しく言い現すことによって、さらに理解を深め、さらに確信することができるようになる。

「病に命じる権威」についての理解が深まり、確信が強められることによって癒しは活性化し発展し次の段階に進むことができるようになる。

病に命じる権威についての理解が深まっていて、確信があるなら、その深い理解と確信と信仰を「癒されよ」と言う短いことばの中に込めて凝縮させることができる。

しかし、これは達人わざだ。例えば、武術の達人が一瞬で同時にできる動作を、慣れていない初心者はその1つ1つを練習する必要がある。

もっと分かりやすく言うなら、「癒されよ」と言って癒すことは一輪車に乗るようなことに近い。

自転車にすら乗ったことのない人が一輪車に乗ることは困難だ。

①まず補助輪付きの自転車に乗り→②補助輪付きの自転車に慣れたら、自転車から補助輪をはずす…といった順序が必要だ。

だから、イエスキリストの御名の権威によって癒すことができるようになるためには…

まず、①自転車に乗れることを理解すること

=病に命じる権威が与えられていることを理解するために、『病に命じる権威を主が自分自身に与えてくださっていることを感謝する』これが基礎となる。基礎によって、さらに成長することができる。

病に命じる権威を主が自分自身に与えてくださっていることを感謝することにより、病に命じる権威を主が自分自身に与えてくださっていることを言い現し自分自身の耳で聞くことができる。

言い現し聞くことによって癒しのために必要な信仰を成長させることができる。

②補助輪付きの自転車に乗る

=「癒されよ」と言っている癒しの器は、聖書的な数々の信仰に立って、「癒されよ」と言っている。その聖書的な数々の信仰を1つ1つ言い現すための例文を用いて誰かの病に命じる。相手がいないのであれば、自分自身の病に命じる。

例文「ハレルヤ。主よ。感謝します。あなたは私に病に命じる権威を与えてくださっています。」「この人(私)の中にいて、この人(私)を~~~な状態にしている病よ」「今、私がイエスキリストの御名の権威によって命令する」「もはや、この人(私)に害をなしてはならない。この人(私)の中にとどまり続けていてはならない。」「ハレルヤ。主よ。感謝します。神の御国が来たことを感謝します。」

どうだろうか?私がここに書いた例文を語るのと、「癒されよ」と語るのとなんらかの違いを感じるだろうか?

私は「癒されよ」とだけ言うよりも、私が例文として書いたこのようなことばを語る方が私の信仰と油注ぎが増し加えられ高められる。

癒しの器はそれ以上高められる必要がないほどすでに知識、理解、信仰、油注ぎが満たされた状態で、例えるなら、すでに山の頂上に到着している状態で「癒されよ」と言っている。

③補助輪をはずす

=自分の信仰と心にフィットする自分のことばで病に命じる権威を言い現し、病に命じる。

病に命じる権威を言い現すための1つの例として私が書いた例文の前に、「イエスキリストの十字架の血潮によって私は神の子とされました」が必要だが、言うまでもなく理解し、確信していることだろうと思い省略した。

私たちにとってそのことが言うまでもないことであるのと同じか、それ以上に、癒しの器は癒しのための全てを言うまでもないこととして非常に深く理解している。だから、癒しの器は「『癒してください』ではなく『癒されよ』と言えば癒されるのです」と言っている。

しかし、癒しの器ほどには、癒しについての知識、理解、信仰、確信が整っておらず、成長していない者たちは、

病に命じる権威が与えられていることを感謝し、病に命じる権威についてのキリストのことばを1つ1つ言い現し、自分自身で聞くことによって、癒しについての知識、理解、信仰、確信を整え、成長させることを継続的にしていく必要がある。

重要なことは「病に命じる権威が与えられていることについて深く理解し、深く確信すること」だ。

"そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。"
ローマ人への手紙 10章 17節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会