シャロームを所有する

私は預言の賜物の回復を願っている。しかし私は預言の賜物を否定する方々を心から尊敬し感謝している。私が預言の賜物を熱心に求めて聖書に従うためなら…私は預言の賜物を否定する方々を不満に思い…全て感謝せよと語る聖書に逆らってよいだろうか?預言を認める牧師先生だけ尊敬し…預言の賜物を否定する牧師先生含む5役者や教団教派の方々を尊敬せず…互いに尊敬しなさいと語る聖書に逆らってよいだろうか?自分が建てたい御言葉を建て上げるために他の御言葉を壊してできた砂の上に自分が建てたい御言葉を建て上げ…家を建ててよいのだろうか?

「④教会が賛美の外套を着るための簡単で単純な方法『主に賛美の外套を捧げよ』④」

敵は神の宣言を止めることはできないことを知っている。

だから、主が天で宣言し、約束しておられることを、主の民、教会が宣言し、歌うことを止めることで、主の約束、宣言が、御心が、天になるごとく地にならないように、

主の民をだまし、盗もうとする。

私たち教会に、このようにささやくことによって。「あなたはそれらの主の約束を主からもらえるほどの行いを十分にしているのか?」このように、へりくだりを極端に強調することによって。

しかし、私たちが主からの約束を受けとるために重要なのは「行い」よりも「信仰」だ。

「行い」がいらないとは言わない。しかし、私たちが主が約束してくださったものを得るために重要なのは、私たちが「何をしたか」ではなく、私たちがイエスキリストにあって「何者であるか」ということ。神の子であるゆえに行いによらずに恵みによって与えられると信じること。

中には、この祝福を得たいのであれば、この行いをしなさいと書いてあることもある。

しかし、私たちがイエスキリストにあって神の子であるだけで、行いによらず恵みとして与えられているものが数多くある。

でないと恵みが恵みではなく、報酬になる。癒しの賜物やその他の賜物は約束によって、恵みによって、神の子であれば信仰によって働かせることができる。

非常に高度な御霊の賜物の現れを願うなら神の器として整えられることが必要になってくるだろう。

しかし、神の子として全然整えられていなくても、ただ神の子であるだけでもある程度なら用いることができる。

それどころか、主に全然知らないと言われるような愛のない者すらも、神の子で、信仰さえあれば大いなる奇跡を起こすことすら可能であると聖書は語っている。

"たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。
また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。
また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。"
コリント人への手紙第一 13章 1〜3節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会

神の子であるだけで、愛がなくても信仰さえあれば、これほどのことができる。

それなら、愛があって、忠実で、へりくだった日本の主の民が、神の子であるだけで、行いによらず信じるだけで、恵みによってどれほどのことが可能であるかを理解したなら、

主にあって一国をひっくり返すほどの預言者として用いられるようになる人もいることだろう。

この日本の国の主の民の目から、うろこが落ちる時、御霊の実を土台に生き続けることを願うあまり、

御霊の賜物にあまり積極的ではなかった日本の主の民が、御霊の実と御霊の賜物は両立できることを知り、行いによらず信じるだけで、恵みによって御霊の賜物の力を自分のものとして得ることができると知る時、

使徒の働きの時代の最後の使徒であったパウロのように世界に宣教するようになる時、

カナの婚礼のぶどう酒のように、日本の主の民が川々となって聖霊様と共に世界に流れる時、

何故、神が日本の主の民のために、これほどの時間をかけたか、世界中の祈りを投資し続けておられたかを知るようになるだろう。