シャロームを所有する

私は預言の賜物の回復を願っている。しかし私は預言の賜物を否定する方々を心から尊敬し感謝している。私が預言の賜物を熱心に求めて聖書に従うためなら…私は預言の賜物を否定する方々を不満に思い…全て感謝せよと語る聖書に逆らってよいだろうか?預言を認める牧師先生だけ尊敬し…預言の賜物を否定する牧師先生含む5役者や教団教派の方々を尊敬せず…互いに尊敬しなさいと語る聖書に逆らってよいだろうか?自分が建てたい御言葉を建て上げるために他の御言葉を壊してできた砂の上に自分が建てたい御言葉を建て上げ…家を建ててよいのだろうか?

「②いつでもどこにいても信仰の手で主の臨在に触れて主の臨在に浸りシャロームを所有する②」

かつての私は主からの特別な臨在が臨んで来た時だけ主の臨在に浸っていた。

しかし、主からの特別な臨在が臨んで来ていなくても、自分から主の臨在に信仰によって入ればいい。

このことは、お父さんと子の関係に例えることができるだろう。

お父さんは我が子を抱きしめてくれる。しかし、子供がお父さんに抱きしめてほしい時、

お父さんが抱きしめてくれるのを待っているべきだろうか?

子がお父さんに抱きしめてほしい時は、子の方からお父さんに抱きつけばいい。

我が子がお父さんに抱きつけば、お父さんは我が子を抱きしめてくれる。

お父さんが我が子を抱きしめた時に我が子がお父さんに抱きついてきてくれる時にも、お父さんの心には喜びがあるが、

お父さんが我が子を抱きしめる前に、我が子の方からお父さんに抱きついてきた時、お父さんの心にはそれにもまさる喜びがある。

そのように、いつでも、どこにいる時でも父なる神様に抱きつけば、父なる神様は喜びに満たされながら抱きしめてくれる。

肉体の制限がある地上のお父さんは、いつでも、どこにいる時でも…というわけにはいかないだろう。

肉体の制限がない父なる神様に
いつでも、どこにいる時でも、抱きつけば、父なる神様は喜びに満たされながら抱きしめてくれる。

神様は神の子たちが子どもたちのようにることを願っておられる。神の子たちは、父なる神様に自分から抱きつく時、子どもたちのようになることができる。

"言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、入れません。"
マタイの福音書 18章 3節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会

そのように、お父さんが抱きしめてくれるのを子は待つ必要がないように、神様からの特別な臨在が臨んで来るのを神の子たちは待つ必要がない。

特別な臨在が臨んできていなくても、信仰によって臨在に入ればいい。

何故なら、肉体の制限がない父なる神様は聖霊様の臨在によって、いつも抱きしめてくれているのだから。

神の子たちは、いつでも、どこでも、聖霊様の臨在の中に、父なる神様の御腕の中にいる。

いつでも、どこでも、聖霊様の臨在が神の子たちの内側に宿り住んでおられる。

そう信じ、自分自身の肉体の腹部に意識を向けて、自分自身の内側に宿り住んでおられる聖霊様の臨在を感じようとするなら、

自分自身の内側に宿り住んでおられる聖霊様の臨在があるという事実を信じた通り実感し、浸り続けることができる。

こういったことを私は「信仰によって聖霊様の臨在に浸る」といったことば、表現の仕方を選択して、このブログに書いている。

自分自身の内側に宿り住んでおられる聖霊様の臨在があると信じているだけでなく、

自分自身の内側に宿り住んでおられる聖霊様の臨在を感じようとすること。信仰によって聖霊様の臨在を感じることができると信じて聖霊様の臨在を感じようとすること。

エスの名により病人に手を置けば癒されると信じている信仰だけでなく、

エスの名により病人に手を置くという実行、選択が必要であるのと同じように信仰と選択が必要。神は信仰と実行、選択によって御自身のことば、約束を確かなものとされる。

私の場合は腹部に意識を向けることが最も聖霊様の臨在を感じることが簡単にできる。腹部に臨在を感じた後、自分の両肩、両腕、両手そして、全身…と聖霊様の臨在を感じることができる。

腹部の前に自分の両肩、両腕、両手そして、全身と意識しても聖霊様の臨在を感じることはできるが、先に腹部にある臨在を意識する方がより濃厚な臨在を感じることができる。

まるで、腹部にある臨在を意識することで、聖霊様の臨在に触れ、聖霊様の臨在に入るように…。

神の子たちは、いつでも、どこにいても、聖霊様の臨在の中にいるが、その事実は信仰によって触れることによって確かなものとなり実感することができる。

"イエスは、「わたしにさわったのは、だれですか」と言われた。みな自分ではないと言ったので、ペテロは、「先生。この大ぜいの人が、ひしめき合って押しているのです」と言った。
しかし、イエスは、「だれかが、わたしにさわったのです。わたしから力が出て行くのを感じたのだから」と言われた。"
ルカの福音書 8章 45〜46節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会

まるで、いつも水の中にいるが、飲まないと飲めないように。いつも水の中にいて、いつでも飲もうとすれば飲めるが、飲もうとしないと飲めない。いつも水の中にいて潤されてはいるが飲む選択をしないと飲めない。

みことばはパン、食物だが、聖霊様の臨在は飲み物。パンは噛む必要があるが、飲み物は噛む必要がない。

みことばは読む力、理解しようとして聴く力等が必要だが、聖霊様の臨在を受け浸るのに力はいらない。信仰と選択だけあればいい。

空気があれば、いつでも、どこでも深呼吸することができるように、聖霊様の臨在は、いつでも、どこにでもあるから、神の子たちは、いつでも、どこでも聖霊様の臨在に浸ることができる。

"また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。"
エペソ人への手紙 5章 18節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会

"しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」"
ヨハネ福音書 4章 14節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会

"わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」。 これは、イエスを信じる人々が受けようとしている御霊をさして言われたのである。すなわち、イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊がまだ下っていなかったのである。"
ヨハネによる福音書 7:38‭-‬39 口語訳
https://bible.com/bible/1820/jhn.7.38-39.口語訳