シャロームを所有する

私は預言の賜物の回復を願っている。しかし私は預言の賜物を否定する方々を心から尊敬し感謝している。私が預言の賜物を熱心に求めて聖書に従うためなら…私は預言の賜物を否定する方々を不満に思い…全て感謝せよと語る聖書に逆らってよいだろうか?預言を認める牧師先生だけ尊敬し…預言の賜物を否定する牧師先生含む5役者や教団教派の方々を尊敬せず…互いに尊敬しなさいと語る聖書に逆らってよいだろうか?自分が建てたい御言葉を建て上げるために他の御言葉を壊してできた砂の上に自分が建てたい御言葉を建て上げ…家を建ててよいのだろうか?

「いつでもどこにいても信仰の手で主の臨在に触れて主の臨在に浸りシャロームを所有する」

あなたは主の臨在に浸る時間を持っていますか?

このような質問を投げかければ、多くのクリスチャンから「はい」と返答があることだろう。

かつての私は主の臨在に浸る時間を持てていなかった。

…厳密に言えば、かつての私も臨在に浸る時間、臨在を感じる時間が全く持てていなかったわけではないが…。

私が このブログに書いている内容のほとんどは、私が道を歩いたりする移動時間とかに主に賛美をしている臨在の中で思い浮かんだことばと言っていいだろう。

だから、私は臨在に浸っていたと言ってもいいかもしれない。しかし、今思うと、私は もっと臨在に浸ることができていたのに私はそうしていなかった。

もっと臨在に浸ることができることを知った今、かつて臨在に浸れていると思っていたことは、臨在に浸れていないに等しいと思わされるほどに…。

何故なら、かつての私は「臨在の中にいた」だけであって「臨在に浸ること」はしていなかったからだ。

「臨在に浸る」にはどのようにすればいいのかを具体的に説明させていただく前に、「臨在の中にいること」と「臨在に浸ること」の違いについて説明させていただこうと思う。

主の臨在に浸ることを知らなかった頃も、私は日曜日に礼拝していた。主の宮にイエスキリストの名において集う礼拝に主がおられ、主の臨在があると信じていたし、実際に主の臨在を感じることは さほど珍しくなかった。

かつての私も道を歩いたりして移動する時、しょっちゅう賛美したり、誰かのためにとりなし祈ったりして実際に主の臨在を感じることは珍しくなかった。

しかし、「臨在の中にいた」だけであって「臨在に浸ること」はほとんどしていなかった。

例えるなら、礼拝すること、賛美すること、祈ること等は「空気の清んだ場所に行くこと」なのであって、「深呼吸」ではない。

主の臨在に浸ることは「空気の清んだ場所に行くこと」ではなく、「深呼吸」に例えることができるだろう。

空気の清んだ場所にいるだけでも、新鮮な空気は自動的に体内をめぐる。

そのように、礼拝、賛美、祈り等をしていれば、主の臨在に触れられる。

本人に実感があろうとなかろうと主の臨在は触れてくださっている。

礼拝の中に主の臨在があると信じて礼拝している人にも、信じていなくて礼拝の中にいる人にも礼拝の中におられる主の臨在は触れてくださっている。

主の臨在は礼拝の中にいる者たち全員に触れてくださっている。

長血を患っていた女性にも群衆にもイエスキリストの衣が触れていたように。

しかし、空気の清んだ場所にいるだけで、新鮮な空気は自動的に体内をめぐりはするが、

その清んだ空気を深呼吸して深く体内に取り入れる選択もできるし、深呼吸をして深く体内に取り入れずに、無意識になされる呼吸しかしない選択もできる。

そのように、礼拝、賛美、祈り等をしていて、主の臨在の中にいるだけで、臨在に浸らない選択をすることもできる。

だから臨在に浸るという選択をしなければ、臨在に浸ることはできない。

もちろん、主の臨在は触れてくださる。主の臨在を求める者に主の臨在は触れてくださる。

しかし、「主の臨在が触れてくださること」と「主の臨在に浸ること」とは違う。

何故なら、「主の臨在に浸ること」は「主の臨在に触れていただくこと」ではなく、信仰によって、信仰の手を伸ばし、信仰の手で『主の臨在に触れること』だからだ。

かつての私は主の臨在に触れられることを求めて賛美を歌い続けていた。長い時間かけて賛美を歌えば歌うほど主の臨在は深くなると期待し、

濃厚な主の臨在に触れていただきたいと願い、慕い、飢え渇き求めて、主の臨在が触れてくださるのを待っていた。

かつての頃も、主の臨在を待ち望み賛美し続けている私に、主は濃厚な臨在によって、何度も何度も数えきれないくらい触れてくださった。

しかし、主の臨在が触れてくださるのを待つ必要はない。私たちは信仰によって、信仰の手を伸ばし、信仰の手で主の臨在に触れ、主の臨在に浸り、主の臨在に浸らせていただくことができる。

主の臨在に浸るために必要なことは、
①臨在があると信じること
②臨在に浸らせていただくことができると信じること
③臨在に浸ることを選択、実行すること。

神は常に人に信仰と選択を要求しておられる。

神が求めておられることは、信仰の従順であり信仰の選択。

聖書にこう書いてある。"このキリストによって、私たちは恵みと使徒の務めを受けました。それは、御名のためにあらゆる国の人々の中に信仰の従順をもたらすためです。"
ローマ人への手紙 1章 5節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会

神は あらゆる国の人々からの信仰の従順を求めておられる。

神と人を愛することも、まだクリスチャンではなかった人がイエスを主と告白して救われることも、その他の神に喜ばれること全ては信仰の従順。

信仰の従順とは、「信仰」+「選択」

神は全ての人に「選択しなさい」と言っておられ、「信仰を選択しなさい」と言っておられる。もちろん、その「信仰」とは、主が「信仰」と認めてくださる「信仰」であって、信仰なら何でもいいのではない。

だから、主の臨在に浸りたいのであれば「礼拝すること」「賛美すること」「祈ること」とは別に「主の臨在に浸ること」を選択する必要がある。

空気の清んだ場所にいて、その清んだ空気を体内に深く取り入れることを願うなら深呼吸をする必要があるのと同じように。

そして、空気の清んだ場所にいながら、深呼吸をしない選択ができるが、

空気が清んだ場所にいなくても、深呼吸をする選択ができるように、

私たちはいつでも、どこにいても、日常生活のあらゆる時に、主の臨在に浸る選択をすることができる。

いつも喜び、絶えず祈り、いつも主の臨在に浸ることができる。

"いつも喜んでいなさい。
絶えず祈りなさい。"
テサロニケ人への手紙第一 5章 16〜17節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会

"…見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」"
マタイの福音書 28章 20節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会

では、どのようにすれば主の臨在に浸ることができるのか説明させていただこう。

簡単に言ってしまえば「内に共におられる主の臨在に意識を向けて、内に共におられる主の臨在を感じようとする」ことで主の臨在に浸ることができる。

次回、さらに詳しく、より具体的に説明させていただこうと思う。