①🗒️「花婿を出迎えようとした5人の愚かな娘は何故、油が足りなかったのか」🗒️ショートメッセージ
「1度、救われたら誰ひとりとして絶対に救いを失うことはない」……といったメッセージをインターネットの中で、見聞きすることがあるが……1度救われて神の子とされた者はどんな例外もなく全員が新しい天と新しい地で永遠に主と共に生きることができる……ということだろうか?
救いを絶対に失わないと教えておられる方々は花婿を出迎える十人の娘の話しはどのように解釈しておられるのだろうか?
"そこで、天の御国は、たとえて言えば、それぞれがともしびを持って、花婿を出迎える十人の娘のようです。"
マタイの福音書 25章 1節
"ところが愚かな娘たちは、賢い娘たちに言った。『油を少し私たちに分けてください。私たちのともしびは消えそうです。』"
マタイの福音書 25章 8節
この油の足りない5人の娘は救われたクリスチャンではないのなら、どうして、賢い5人の娘と同じ場所で花婿を待つことができるだろうか。
この油の足りない5人の娘は……イエスキリストを主と告白していて、毎週教会に行き、牧師先生のメッセージを聞き、クリスチャンとして生きている人たちの例えなのではないだろうか?
……なのに……何故、花婿との婚礼の祝宴に入ることができなかったのだろうか?
何故、油がわずかしかなかったのだろうか?
この油の足りない5人の娘はキリスト教という宗教をしていただけで、聖霊様との交わりがなかったからなのではないだろうか?
この油の足りない5人の娘たちにも、油はわずかにあったが、そのわずかな油は自分が聖霊様と交わる中で受けた油ではなく、聖霊様と交わっている牧師先生や誰かから流れてきた油……もっといえば……油でベトベトの人と接して付着したわずかな油……のようなものだったのではないだろうか?
だからさいごのさいごのギリギリの時になっても『油を少し私たちに分けてください。私たちのともしびは消えそうです。』……と言って依存して油をもらおうとしているのではないだろうか?
油が足りなかった5人の娘のように、聖霊様との交わりがなくてもマニュアルさえあればキリスト教という宗教をすることはできる。
"彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから。』"
マルコの福音書 7章 7節
"神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。"
ローマ人への手紙 8章 14節
"ところが愚かな娘たちは、賢い娘たちに言った。『油を少し私たちに分けてください。私たちのともしびは消えそうです。』
しかし、賢い娘たちは答えて言った。『いいえ、あなたがたに分けてあげるにはとうてい足りません。それよりも店に行って、自分のをお買いなさい。』
そこで、買いに行くと、その間に花婿が来た。用意のできていた娘たちは、彼といっしょに婚礼の祝宴に行き、戸がしめられた。
そのあとで、ほかの娘たちも来て、『ご主人さま、ご主人さま。あけてください』と言った。
しかし、彼は答えて、『確かなところ、私はあなたがたを知りません』と言った。"
マタイの福音書 25章 8〜12節