シャロームを所有する

私は預言の賜物の回復を願っている。しかし私は預言の賜物を否定する方々を心から尊敬し感謝している。私が預言の賜物を熱心に求めて聖書に従うためなら…私は預言の賜物を否定する方々を不満に思い…全て感謝せよと語る聖書に逆らってよいだろうか?預言を認める牧師先生だけ尊敬し…預言の賜物を否定する牧師先生含む5役者や教団教派の方々を尊敬せず…互いに尊敬しなさいと語る聖書に逆らってよいだろうか?自分が建てたい御言葉を建て上げるために他の御言葉を壊してできた砂の上に自分が建てたい御言葉を建て上げ…家を建ててよいのだろうか?

「自分が正しいと信じて疑わず、王であると自称する人間に与えられるのは心を苦々しくする蕀(いばら)の冠」

怒りを捨てようとしても怒りを捨てることはできない。

怒りを押さえることはできるだろう。

しかし、心に怒りを感じることは、私たちの選択では止めることはできない。

私たちが私たちの選択によって捨てることができるもの、捨て去るべきものは、「怒り」ではなく、「怒る権利」だ。

私たちはこの「怒る権利」を手放さなくてはならない。

自分には「怒る権利がないこと」を認めることによって、この高ぶりを捨てなければならない。

自分には「怒る権利がある」と信じ、「怒る権利」を所持し、握りしめたままでは、「怒り」を手放すことはできない。

「怒り」は「自分が怒ることは自分の正当な権利である」と主張する者に与えられる荊(いばら)の冠。

怒りは、王ではないのに、自分は王であると自称し、王座に立つ者に与えられる荊(いばら)の冠。

怒りは「正しいのは私だ」と主張し、「善悪の知識の木の実」をむさぼる者に与えられる荊(いばら)の冠。

もし、「相手が間違っていて、正しいのは私です。けれども、愛によって、怒りを押さえ忍耐します」と言うなら、

愛と忍耐によって怒りを押さえることはできるだろう。だが、怒りはなくならない。

「正しいのは私だ」と信じて疑わないままであるなら…

そのくちに善悪の知識の木の実が入ったままであるなら、

善悪の知識の木の実をくちにする者の土地はのろわれ、いばらとあざみを生えさせると聖書が語っている通り、

あなたの土地であるあなたの心は、土地が蕀(いばら)を生やすように怒りを生やす。

"また、人に仰せられた。「あなたが、妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。
土地は、あなたのために、いばらとあざみを生えさせ、あなたは、野の草を食べなければならない。"
創世記 3章 17〜18節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会

「正しいのは私だと信じて疑わず、王座に立つこと」をやめて、

「私が間違っている可能性がいつでもあること」を認め、王座に立ち続けることをやめなければ、この神の定めた原則から解放されることはない。

エス様も怒ったから、その模範の通りにする?

エス様は「絶対に間違わない神様」だから怒る権利がある。

そのイエス様ですら、人として地上におられた時、怒った時、苦々しさ、蕀(いばら)の棘(とげ)を肉体と心に感じられただろう。

エス様は絶対に間違わない怒る権利のある神であり、王であるお方なのに、荊(いばら)の冠を私たちの身代わりに受けて下さった。

荊(いばら)の冠を受けるべきなのは、間違う可能性があるのに、間違う可能性がない者のように人をさばき、

王ではないのに、王であると自称し、王であるかのように人をさばいている私たちであるのに、イエス様は私たちの身代わりとなって下さった。

私たちこそ、荊(いばら)の冠をかぶらされ、そして、「ユダヤ人の王ナザレ人イエス」と書かれた王であるイエス様とは違い、

「王であると自称した」と書かれた罪状書きを十字架の上に掲げられるべき者たちであるのに、イエス様は私たちの身代わりに荊(いばら)の冠を受けて下さった。

ヨハネ福音書 19章 19〜21節"ピラトは罪状書きも書いて、十字架の上に掲げた。それには「ユダヤ人の王ナザレ人イエス」と書いてあった。
それで、大ぜいのユダヤ人がこの罪状書きを読んだ。イエスが十字架につけられた場所は都に近かったからである。またそれはヘブル語、ラテン語、ギリシヤ語で書いてあった。
そこで、ユダヤ人の祭司長たちがピラトに、「ユダヤ人の王、と書かないで、彼はユダヤ人の王と自称した、と書いてください」と言った。
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会

"ピラトは答えた。「私の書いたことは私が書いたのです。」"
ヨハネ福音書 19章 22節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会

間違う可能性のある人間に怒る権利はない。

絶対に間違わない神様だけが、「こうするべきだ!」「こうであるべきだ!」「それは間違っている!」と主張し、怒る権利がある。

もし、ペンテコステの教会が「私たちは他の教団教派のように、聖霊様を拒むことはない!」と言うなら、

その高ぶり、そのくちの中にある善悪の知識の木の実ゆえに、すでに古い皮袋となっているので、

もし次の新しい聖霊様の働きがキリストの御体の中に回復されるレストレーションの時が来ても、聖霊様の働きだと判別ができずに、受け入れることができないだろう。

聖書の時代のパリサイ人、律法学者がイエス様を受け入れることができなかったように、受け入れることはできないだろう。

何故、怒るのか…、間違っているのは自分の方かもしれないのに…

ほとんどのクリスチャンが神の御前において、自分は間違う可能性のある者だと認めているだろう。

だが「このことについて正しいのは私です」と信じて疑わないなら…

心の中で「こうであるべきだ」「こうするべきだ」と語り、王座に立つなら、与えられるのは蕀(いばら)の冠、その土地である心に生えるのは怒りによる苦々しさ。

絶対に間違わない王は神だけであることを認め、王座に立つことをやめ、王座を下りるなら、

シャロームの王である主があなたの王となり、あなたの土地である心にシャロームを与え、あなたの心をシャロームの地に変えてくださるだろう。

"イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」"
ルカの福音書 19章 5節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会