シャロームを所有する

私は預言の賜物の回復を願っている。しかし私は預言の賜物を否定する方々を心から尊敬し感謝している。私が預言の賜物を熱心に求めて聖書に従うためなら…私は預言の賜物を否定する方々を不満に思い…全て感謝せよと語る聖書に逆らってよいだろうか?預言を認める牧師先生だけ尊敬し…預言の賜物を否定する牧師先生含む5役者や教団教派の方々を尊敬せず…互いに尊敬しなさいと語る聖書に逆らってよいだろうか?自分が建てたい御言葉を建て上げるために他の御言葉を壊してできた砂の上に自分が建てたい御言葉を建て上げ…家を建ててよいのだろうか?

1️⃣2️⃣現代のキリストの体は「キリストの体が1つにならなければならない」と熱心に語り続け熱心に努力し続けているが……「キリストの体が1つになる」とはどういうことであると説明している御言葉の1つ1つからことごとく目を背けて知ろうとしていないことはまるで……「十戒を守れ十戒を守らなければならない」と熱心に語り続け熱心に十戒を守ろうと努力し続けているが……十戒にどんなことが書いてあるのか1~10まで1つも知らず知ろうともしていない人のようだ……

 

 

前回のブログで……旧約時代の民に神が指し示しておられた神のビジョンである山の頂上は「十戒に同意すること」であり「十戒に同意」しているからこそ……十戒を実行できないことに心を痛めている民を救うためにイエスキリストが来られ新約時代の扉が開かれたこと……新約時代のキリストの体に神が指し示し続けておられる神のビジョンである山の頂上は「十戒」よりももっと高い「キリストの体が1つになる」であり……新約時代に入って間もない頃に神がイエスキリストによって語り指し示し続けておられる「キリストの体が1つになる」という神のビジョンの山の頂上に約2000年過ぎた今もキリストの体は到着できていないこと……について書かせていただいた。

【『キリストの体が1つになる』とはどういうことであるかについて説明している1つ1つの御言葉を知る】

出エジプトして間もない民に神が指し示しておられた「ビジョン」であり旧約時代の民にとっては「山の頂上」であった十戒には「殺してはならない」が含まれている。……「殺してはならない」ということばは十戒のことばの一部分だ。……「殺してはならない」が『十戒』の一部分であるように……イエスキリストが語られた"あなたがたは地上のだれかを、われらの父と呼んではいけません"ということばは……『キリストの体が1つになる』の一部分だ……

……「殺してはならない」は十戒の一部分であるから、「殺してはならない」が欠けると十戒十戒ではなくなるように……"あなたがたは地上のだれかを、われらの父と呼んではいけません"とイエスキリストが言われた御言葉が欠けたまま『キリストの体が1つになる』ことはできない……

現代のキリストの体は1つになろうとしてありとあらゆることをしてきた…………"あなたがたは地上のだれかを、われらの父と呼んではいけません"とイエスキリストが言われた御言葉が欠けたままで…………キリストの体が1つになれると思っていて…………"あなたがたは地上のだれかを、われらの父と呼んではいけません"とイエスキリストが言われた御言葉から目を背けて知ろうともせずに…………現代のキリストの体は1つになろうとして熱心にありとあらゆることをしてきた…………「キリストの体が1つになる」ということがどういうことであるかについて説明している御言葉の1つ1つを…………どれ1つとして見ようともせず…………知ろうともせずに…………現代のキリストの体は1つになろうとして熱心にありとあらゆることをしてきた…………まるで「十戒」の十の戒めがなんであるか1つも知りもせずに「十戒を守れ十戒を守らなければならない」と熱心に語り続け熱心に教え続けている人のように…………「キリストの体は1つにならなければならない」と熱心に語り続け熱心に教え続け…………キリストの体が1つになるために熱心に努力し続けてきた…………"しかし、その熱心は知識に基づくものではありません。"
ローマ人への手紙 10章 2節

聖書が語っている「キリストの体が1つになる」…と…クリスチャンや国々のクリスチャンのリーダーたちが考えている「キリストの体が1つになる」……との間にはあまりにも大きな差がある。……だから聖書が語っている「キリストの体が1つになる」とは……こういうことであると聖書が説明している御言葉を1つ1つ見ることによって聖書が語っている「キリストの体が1つになる」とはどういうことであるかを聞いて知って理解する必要がある。

もしも……"あなたがたは地上のだれかを、われらの父と呼んではいけません"とイエスキリストが言われた御言葉から目を背けたまま「キリストの体は1つになることができる」……と思っているのであれば……聖書が語っている「キリストの体が1つになる」とはどういうことであるかが理解できていない……

"あなたがたは地上のだれかを、われらの父と呼んではいけません"とイエスキリストが言われた御言葉に……現代のキリストの体であるクリスチャンや国々のクリスチャンのリーダーたちはつまずいてしまっていて理解できていない……もしかしたら理解はできているかもしれないが……同意できていない……もしかしたら同意することはできているかもしれないが……実行できていない……同意できていても実行できていないのは……同意するべきではないと思っていて……"あなたがたは地上のだれかを、われらの父と呼んではいけません"と書いてある御言葉につまずいてしまっているからだ……

"あなたがたは地上のだれかを、われらの父と呼んではいけません"……という御言葉は現代のキリストの体に神が指し示しておられる山の頂上である『キリストの体が1つになる』……の一部分であるから……現代のクリスチャンや国々のクリスチャンのリーダーたちが心から同意することすらできずに目を背けてしまうほどに……非常に高く……2000年過ぎてもキリストの体はまだ届いておらず到着することができていない……

"あなたがたは地上のだれかを、われらの父と呼んではいけません"と書いてある御言葉は……神が要求している『キリストの体が1つになる』ということがどのようなことであるかを説明し表現している御言葉であり……「キリストの体が1つになる」ということばの高さ深さを言い表して説明している御言葉だ……

しかし……"あなたがたは地上のだれかを、われらの父と呼んではいけません"という御言葉……だけ……を満たすことができたとしても……神が要求している『キリストの体が1つになる』を満たしたことにはならない。……十戒のどれか1つだけを守れば十戒の要求を満たしたことになるだろうか?……十戒の全てを守らなければ十戒の要求を満たしたことにはならない……

"あなたがたは地上のだれかを、われらの父と呼んではいけません"という御言葉は「キリストの体が1つになる」ということがどういうことであるかを説明している御言葉の1つであり……1つの側面であるため……"あなたがたは地上のだれかを、われらの父と呼んではいけません"という御言葉だけを満たしても神が要求している『キリストの体が1つになる』の高さには足りない。

"あなたがたは地上のだれかを、われらの父と呼んではいけません"と書いてある御言葉だけでなく……"尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。"と書いてある御言葉も『キリストの体が1つになる』とはどのようなことであるかを説明している御言葉であり……『キリストの体が1つになる』 の もう1つの側面であり……『キリストの体が1つになる』の一部分だ……

"尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。"……と書いてある御言葉にも……2000年過ぎた現代のキリストの体はまだ届いておらず到着できていない……"尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。"と書いてある御言葉も……新約時代に入ったキリストの体に神が指し示しておられる山の頂上である『キリストの体が1つになる』ということばの一部分であるから……クリスチャンや国々のクリスチャンのリーダーたちが目を背けてしまうほどに……非常に高い……しかし……"尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。"と書かれた御言葉が欠けたままでは神が要求している『キリストの体が1つになる』の高さを満たすことはできない。……十戒の十の戒めの1つでも欠けてしまっていたら……十戒の要求を満たしたことにはならない……

2000年過ぎた現代のキリストの体は"あなたがたは地上のだれかを、われらの父と呼んではいけません"……と書いてある御言葉にも届いておらず……"尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。"と書いてある御言葉にも届いていない……キリストの体が"あなたがたは地上のだれかを、われらの父と呼んではいけません"……という御言葉や……"尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。"……という御言葉1つ1つ全てに立つことができるようにならなければ……神が要求している『キリストの体が1つになる』の高さには足りない……

"互いに教え、互いに戒め"……と書いてある御言葉も……『キリストの体が1つになる』ということばがどういうことであるかを説明している御言葉であり……『キリストの体が1つになる』の一部分であるから……クリスチャンや国々のクリスチャンのリーダーたちが目を背けてしまうほどに……非常に高い……

2000年過ぎてもキリストの体がまだ届いていなくて、まだ立つことができていないあの御言葉も、この御言葉も、その御言葉も……ほとんどが『キリストの体が1つになる』ということがどういうことであるかについて言い表し説明している御言葉であり……『キリストの体が1つになる』の一部分として存在している御言葉だ……2000年過ぎてもキリストの体がまだ届いていなくてまだ立つことができていない御言葉を1つ1つ集めて1つ1つを見れば……神がビジョンとして見ておられる『キリストの体が1つになる』とはどのようなことかを見ることができ、『キリストの体が1つになる』ということばの高さがどれほど高いかを見ることができる。……十戒の要求の内容や十戒の高さを知りたければ十戒のことばの1つ1つの高さを見ることによって知ることができる。

十戒』=「殺してはならない」+「姦淫してはならない」+「盗んではならない」+…………

『キリストの体が1つになる』=「あなたがたは地上のだれかを、われらの父と呼んではいけません」+「尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい」+「互いに教え、互いに戒め」+「私たちも私たちに負いめのある者をみな赦します」+
「兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません」+…………

📖"「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。--主の御告げ--
天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。"
イザヤ書 55章 8〜9節

"しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただひとりしかなく、あなたがたはみな兄弟だからです。
あなたがたは地上のだれかを、われらの父と呼んではいけません。あなたがたの父はただひとり、すなわち天にいます父だけだからです。
また、師と呼ばれてはいけません。あなたがたの師はただひとり、キリストだからです。"
マタイの福音書 23章 8〜10節

"尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。"
ローマ人への手紙 12章 10節

"互いに教え、互いに戒め、"
コロサイ人への手紙 3章 16節

"私たちも私たちに負いめのある者をみな赦します。」"
ルカの福音書 11章 4節

"しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。"
マタイの福音書 5章 22節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会

 

 

1️⃣1️⃣旧約時代の民に神が指し示し続けておられた「神のビジョン」であり「旧約時代」の「山の頂上」は「殺してはならない」ということばを含む……『十戒』……だったが……新約時代のキリストの体に神が指し示し続けておられる「神のビジョン」であり『新約時代』の『山の頂上』は「地上の誰のことも父と呼ぶな」ということばを含む……『キリストの体が1つになること』……

 

 

前回のブログで……イエスキリストが「地上の誰のことも父と呼ぶな」と言ったことも……現代の油注がれた使徒預言者、伝道者、牧師、教師が「使徒預言者、伝道者、牧師、教師は聖徒たちの父たちであることを認めて従え」と言っていることも……まったく反対のことばではあるが……どちらも主からのことばであること…………「地上の誰のことも父と呼ぶな」と「殺してはならない」は……神が指し示す「神のビジョン」「山の頂上」であり……「使徒預言者、伝道者、牧師、教師は聖徒たちの父たちであることを認めて従え」と「律法に背く者は石を投げて殺せ」ということばは……神が指し示す「山の頂上に近づくために必要な道」「補助輪」であった……ことについて書かせていただいた。


1️⃣1️⃣【旧約時代の民に神が指し示し続けておられる「山の頂上であった十戒」と……新約時代のキリストの体に神が約2000年間の期間、指し示し続けておられる「十戒よりも高い山の頂上」】

新約時代の扉は神の民が「殺してはならない」含む「十戒」のことばに心から同意できる民となっていて「十戒」を実行できないことに心を痛める民に変えられていた時代に……「十戒」を実行できないことに心を痛める民を救うためにイエスキリストが来られることにより開かれた。

神の民が「殺してはならない」含む「十戒」のことばに心から同意できる民となって「十戒」を実行できないことに心を痛める民に変えられるためには……旧約時代の「律法に背く者は石を投げて殺せ」含む「律法」という「養育係」によって整えられ矯正される期間が必要だった……📖"こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。"

出エジプトした民が、殺してはならない含む「十戒」のことばに心から同意できる民につくりかえられるためには出エジプトの時代から新約聖書の時代までという非常に長い道が必要だった。……現代のキリストの体は「殺してはならない」ということばを含む十戒のことばに心から同意することはできている。……しかし……「殺してはならない」ということばを含む十戒のことばに心から同意する民となることは……神が出エジプトさせた民に指し示しておられた「神のビジョン」であり……新約時代に神が指し示している新約時代の「山の頂上」ではなくて……旧約時代に神が指し示しておられた旧約時代の「山の頂上」だ……

……神が出エジプトさせた民に指し示しておられた「神のビジョン」であり旧約時代の「山の頂上」であった「十戒のことばに心から同意できる民になること」……には……すでに立つことができている現代のキリストの体に……神が指し示し続けておられる……次のもっと高い「神のビジョン」があり……神が現代のキリストの体に指し示しておられる……十戒よりももっと高い「新約時代」の「山の頂上」がある。……これ以上は上がない山の頂上の頂上にキリストの体が到着したらイエスキリストはキリストの体を迎えに来てくださる。これ以上の上がない山の頂上の頂上にキリストの体が到着することはキリストの花嫁の完成であるから……イエスキリストは完成した花嫁となったキリストの体を迎えに来てくださる……

……しかし……現代のキリストの体は……まだキリストの花嫁として完成してはいない。現代のキリストの体に神が指し示し続けておられる十戒よりも高い「新約時代」の「山の頂上」に……現代のキリストの体は到着できていない……

……現代のキリストの体に神が指し示しておられる次のもっと高い「神のビジョン」……『十戒』よりももっと高い「新約時代」の「山の頂上」は……『キリストの体が1つになること』だ……現代のキリストの体は現代のキリストの体に神が指し示し続けておられる『キリストの体が1つになる』という「新約時代」の「山の頂上」には……約2000年過ぎた今でも到着することはできていない……しかし……もし現代のキリストの体が短い年数で「新約時代の山の頂上」に到着していたら出エジプトの時代から新約聖書の時代がはじまる時までという非常に長い年数をかけてようやく「旧約時代」の「山の頂上」に到着した旧約聖書の時代の民にたいして誇ってしまっていたかもしれない……

……神は誰も誇らせはしない……

……誰も誇ることはできない……

「殺してはならない」ということばを含む「十戒」のことばに心から同意する神の民として整えられることは……出エジプトしてから新約聖書の時代のはじまりの時までの年数が必要になるほどにあまりにも遠い遠い道であり……出エジプトして間もない民にはまだあまりにも遠すぎた……だが……神は出エジプトしてまだ間もない神の民に「殺してはならない」ということばを含む「十戒」のことばを神の「ビジョン」「山の頂上」として神が指し示しておられたように……

……約2000年間過ぎても現代のキリストの体がまだ到着できていない次の「山の頂上」……「十戒」という旧約時代の山の頂上よりもっと高い「神のビジョン」である『キリストの体が1つになる』という「新約時代の山の頂上」を……新約時代に入ってまだ間もない時であった……約2000年前に……すでにイエスキリストによって神は語り指し示しておられたことが新約聖書に書いてある。

旧約時代の山「十戒に同意」
新約時代の山「1つになる」

旧約時代の山の到着に必要だった期間
出エジプトした時代~新約聖書がはじまる時代までの年数」

新約時代の山の到着に必要な期間
「約2000年過ぎてもまだ到着できていない」

"しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただひとりしかなく、あなたがたはみな兄弟だからです。
あなたがたは地上のだれかを、われらの父と呼んではいけません。あなたがたの父はただひとり、すなわち天にいます父だけだからです。
また、師と呼ばれてはいけません。あなたがたの師はただひとり、キリストだからです。"
マタイの福音書 23章 8〜10節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会

 

 

🔟主のことばには「山の頂上」と「山の頂上に行くための道」がある…『地上の誰も父と呼ぶな』『殺してはならない』と主が言われたことばは主が指し示す「山の頂上」「神のビジョン」だ……『使徒、預言者、伝道者、牧師、教師が聖徒たちの父であることを認め従いなさい』『律法に背く者は石を投げて殺されなければならない』…と主が旧約時代のモーセや現代の使徒、預言者、伝道者、牧師、教師に語らせたことばは『山の頂上に行くために必要な道』だ…まったく反対のことを言っているが…どちらも主のことばだ…主は昨日も今日も変わらない…

前回のブログで……イエスキリストは"あなたがたは地上のだれかを、われらの父と呼んではいけません。あなたがたの父はただひとり、すなわち天にいます父だけだからです。"……と言われたこと……父なる神おひとりの他にどんな世界的な使徒預言者、伝道者、牧師、教師であってもだれひとりとして聖徒たちの「父」ではない……ことについて書かせていただいた。

🔟【①新約聖書の時代にイエスキリストが「地上の誰かを父と呼ぶな」と言われたことばも……現代の使徒預言者、伝道者、牧師、教師が「私たちは父だ」と語っていることばも主から来ている】

エスキリストは"あなたがたは地上のだれかを、われらの父と呼んではいけません。あなたがたの父はただひとり、すなわち天にいます父だけだからです。"……と言われたのに……キリストの体である国々の油注がれた使徒預言者、伝道者、牧師、教師が「使徒預言者、伝道者、牧師、教師は聖徒たちの父である」と語っているのは……敵にだまされてしまっていて敵から来ている偽りのことばを語ってしまっていた……ということなのだろうか?……そうではない……確かに主が油注いでおられる国々の使徒預言者、伝道者、牧師、教師に「使徒預言者、伝道者、牧師、教師は聖徒たちの父である」と語り語らせ教え教えさせておられたのは主であり……主の働きであり……主からの流れであり…主からのムーブメントであり……主から流れているぶどう酒であって敵からの流れではない。

「地上の者を私たちの父だと言ってはならない」と約2000年前に語っておられた主が……約2000年間……使徒預言者、伝道者、牧師、教師に与えておられる主からの油注ぎによって「使徒預言者、伝道者、牧師、教師は聖徒たちの父である」と語らせ教えさせキリストの体であるエクレシアを導かせ続けておられたことは……まるで反対のことであり……矛盾していることであるかのように思えるかもしれないが……『山には頂上があること』と『山の頂上に行くには道が必要であること』を見れば理解することができるようになる……

……新約聖書の時代に「地上の誰のことも父と言うな」と語った主が……現代の使徒預言者、伝道者、牧師、教師に「私たちは父だ」と語らせておられることは……主に矛盾や不正があるということなのだろうか?……主はご自分のことばが不適切で間違いだったので訂正しなければならなくなったということなのだろうか……?

……主は昨日も今日も変わらない……

……旧約聖書の時代に十戒により「殺してはならない」と語った主が……モーセに「律法に背く者は石を投げて殺せ」と語らせておられたことは……主に矛盾や不正があったということなのだろうか?……主はご自分のことばが不適切で間違いだったので訂正しなければならなくなったのだろうか……?

……主は昨日も今日も変わらない……

……主の御言葉には「山の頂上」と「山の頂上に行くための道」がある……

……『地上の誰も父と呼ぶな』『殺してはならない』と主が言われたことばは主が指し示す「山の頂上」=「神のビジョン」だ……『エクレシアは使徒預言者、伝道者、牧師、教師が父であることを認め従いなさい』『律法に背く者は石を投げて殺されなければならない』……と主が旧約時代のモーセや現代の使徒預言者、伝道者、牧師、教師に語らせたことばは『山の頂上に行くために必要な道』だ……「殺すな」↔️「殺せ」……「地上の誰も聖徒たちの父ではない」↔️「使徒預言者、伝道者、牧師、教師は聖徒たちの父であると認め従いなさい」……まったく反対のことばを言っているが……どちらも主のことばだ……主に矛盾や不正はない……主はご自分のことばを訂正しない

……主は昨日も今日も変わらない……


🔟【②旧約聖書の時代に神が指し示しておられた『神のビジョン』=『山の頂上』】

主はまず主のビジョンを語る……主が指し示しておられるビジョンと神の民の現状がまだあまりにも遠く遠くはなれている時に……主は『主のビジョン』について語り……山の頂上を指し示して『山の頂上』について語る……

神は出エジプトさせた民に「神のビジョン」「山の頂上」について語った。神が出エジプトさせた民に語った「神のビジョン」「山の頂上」は……『十戒』だ……

……『十戒』は神が旧約聖書の時代に語った「神のビジョン」「山の頂上」だ……

……十戒の「殺してはならない」は出エジプトした民に神が指し示しておられた「神のビジョン」「山の頂上」だ……

……しかし出エジプトした神の民たちは「十戒」の全てにアーメンと言って心から同意できる民としてはまだ整えられておらず……心があまりにも遠く遠くはなれていた……

……だから「十戒」の全てに心からアーメンと言って心から同意できる民として整えられるため……出エジプトした神の民に神が指し示しておられる山の頂上に行くためには……『頂上に行くための道』『頂上に近づくための道』が必要だ……

……1度頂上に到着してしまえば……歩いてきた『後ろの道』をもはや歩くことはない。……幼子が自転車に乗ることができるようになるためには『補助輪』が付いた自転車や三輪車に乗る段階が必要だ。……補助輪のない自転車に乗れるようになったら……『補助輪』はもはや必要なくなる……

出エジプトした神の民に与えられた「律法」は『山の頂上に近づくための道』であり『自転車の補助輪』のようなものだ。出エジプトした神の民が「殺してはならない」ということばを含む十戒に心から同意する民となるためには「律法」という『道』『補助輪』が必要だった。……「律法に背く者に石を投げて殺しなさい」ということばを含む「律法」が……「殺してはならない」ということばを含む「十戒」=「神のビジョン」「山の頂上」に近づくための『道』として『補助輪』として必要だった……

……そして出エジプトした神の民が十戒を完全に実行できる民にはまだなってはいなかったが……十戒のことばに心から同意する民としては整えられていて……十戒を実行できていない自分に心を痛める民に変えられていた時代に……イエスキリストが来られ……もはや「律法を守ろうとしない者に石を投げて殺す」ということを含む『律法』という『補助輪』はもはや必要ないことを神の民に告げ……もはや誰も「石を投げて殺してはならない」……もはや異邦人を殺してはならないことを告げられ……もはや「律法」という後ろの道を歩いてはならない……後ろにもどってはならない……神が指し示す「山の頂上」「神のビジョン」に近づかせるために……神が……これまで歩かせておられた「律法」という『後ろの道』をもはや歩いてはならない……「律法」という『補助輪』をもはやつけていてはならないことを告げられた。


「殺してはならない」含む「十戒」は『旧約時代の民』に神が指し示しておられた「神のビジョン」「山の頂上」だ……山の頂上に行くためには「律法に背く者は石を投げて殺せ」含む「律法」が必要だった……

「地上の誰のことも父と呼ぶな」含む「イエスキリストの教え」は『現代のキリストの体であるエクレシア』に神が指し示しておられる「神のビジョン」「山の頂上」だ……山の頂上に行くためには「エクレシアは使徒預言者、伝道者、牧師、教師が父であることを認め従え」含む「教会秩序」が必要だった……

"殺してはならない。"
出エジプト記 20章 13節

"かたくなで、逆らう子がおり、父の言うことも、母の言うことも聞かず、父母に懲らしめられても、父母に従わないときは、
その父と母は、彼を捕らえ、町の門にいる町の長老たちのところへその子を連れて行き、
町の長老たちに、「私たちのこの息子は、かたくなで、逆らいます。私たちの言うことを聞きません。放蕩して、大酒飲みです」と言いなさい。
町の人はみな、彼を石で打ちなさい。彼は死ななければならない。あなたがたのうちから悪を除き去りなさい。イスラエルがみな、聞いて恐れるために。"
申命記 21章 18〜21節

"イエスは身を起こして言われた。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」"
ヨハネ福音書 8章 7節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会

 

 

 

9️⃣イエスキリストは言われた…"あなたがたは地上のだれかを、われらの父と呼んではいけません。あなたがたの父はただひとり、すなわち天にいます父だけだからです"…父なる神おひとりの他に…どんな世界的な使徒も預言者も伝道者も牧師も教師も「父」ではない…父の数だけ家があり…父の数だけ分裂がある…だが…キリストの体であるエクレシアがまだ幼かった約2000年間は…使徒も預言者も伝道者も牧師も教師も「父」ではないことは奥義として隠されていなければならなかった

 

前回のブログで……イエスキリストが「預言者バプテスマのヨハネまでです」と語ったこと……イエスキリストが天に上げられた後の預言者バプテスマのヨハネの後の預言者であり……キリストの体を建て上げるための5役者の1つに数えられる預言者には旧約聖書預言者とはちがって吟味が必要であり……偽預言者ではない確かな預言者であっても語る預言1つ1つに吟味が必要であること……について書かせていただいた。

【父なる神おひとりの他に使徒預言者も伝道者も牧師も教師も誰ひとりとして父ではない】

エスキリストは言われた。……"あなたがたは地上のだれかを、われらの父と呼んではいけません。あなたがたの父はただひとり、すなわち天にいます父だけだからです。"

"天におられるわたしの父のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです"……イエスキリストが言われた「わたしの兄弟、姉妹、また母なのです」ということばの中に「父」ということばは入っていない。

もしも……使徒預言者、伝道者、牧師、教師が……聖徒たちの父であるなら……イエスキリストも……天におられるわたしの父のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母、……父なのです……と言っておられたはずだ。人として地上に来ておられたイエスキリストは全ての聖徒の模範であり長男であるからだ。

しかし……全ての聖徒の模範であるイエスキリストには父なる神の他には「兄弟」と「姉妹」と「母」しかいない……

エスキリストが「わたしの兄弟、姉妹、また母」なのですと語る前の節には……"ご覧なさい。あなたのお母さんと兄弟たちが、あなたに話そうとして外に立っています。"……と書いてあり……「お母さん」と「兄弟たち」としか書いていない。……しかしイエスキリストはこのことばに返答する時に……"天におられるわたしの父のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです"……と語り「姉妹」ということばを追加しておられる。……しかし……「父」ということばは追加しておられない……イエスキリストの十字架により父なる神の子とされた全ての者たちの道であり模範であり長男であるイエスキリストには父なる神おひとりの他には「父」はいないように……聖徒たちの「父」は父なる神おひとりだけで……どんな世界的な使徒預言者も伝道者も牧師も教師も「父」ではない……

父なる神おひとりの他に父はなく……使徒預言者も伝道者も牧師も教師も誰ひとりとして「父」ではなくて「兄弟」「姉妹」「母」である理解がキリストの体に臨む時に……キリストの体の中にあった教団・教派・グループの壁は崩れて……父なる神だけが父となり……1つの体……1つの家族となることができる道が開かれる。……しかし……まだ幼かった異邦人のエクレシアは複数の父たちによって整えられることが必要であったので……父なる神おひとりの他に使徒も、預言者も、伝道者も、牧師も、教師も誰ひとりとして父ではないことは奥義としてキリストの体の目から約2000年間の期間隠され続けていなければならなかった。

キリストの体の中に複数の「父」がいる期間はキリストの体は1つの体になることも……1つの家族になることもできない……何故ならキリストの体である聖徒たちの「それぞれの父」がいる数だけ「それぞれの家」があるからだ……キリストの体の中に「複数の父」がいる期間はそれぞれの聖徒たちが……「それぞれの父たち」の「それぞれの家」にいる……

聖霊派には聖霊派の父たちがいて……福音派には福音派の父たちがいる……聖霊派の中にも……福音派の中にも……それぞれの教団・教派・グループがあり……それぞれの教団・教派・グループにもそれぞれの父たちがいる……それぞれの教団・教派・グループの父たちは……他の教団・教派・グループに属する者たちに向かい「家」にとどまりなさい……「家」に帰って来なさい……あなたたちは何故……「正しい教え」……「正しい聖書理解」……「神の御心」に帰って来ようとしないのですか……と心の中で語り合っている……📖"ある人が、「私はパウロにつく」と言えば、別の人は、「私はアポロに」と言う。そういうことでは、あなたがたは、ただの人たちではありませんか。"

"あなたがたはめいめいに、「私はパウロにつく」「私はアポロに」「私はケパに」「私はキリストにつく」と言っているということです。
キリストが分割されたのですか。あなたがたのために十字架につけられたのはパウロでしょうか。あなたがたがバプテスマを受けたのはパウロの名によるのでしょうか。"

全ての使徒預言者も伝道者も牧師も教師も「父」ではないことがキリストの体の目から隠されているので……キリストの体の中には「父たち」の数だけ壁があり……「父たち」の数だけ家があり……「父たち」の数だけ分裂がある……

……しかし……キリストの体であるエクレシアがまだ幼かった約2000年の期間は……主は主からの油注ぎによって……使徒預言者、伝道者、牧師、教師に……「使徒預言者、伝道者、牧師、教師は霊の父である」「霊の父である使徒預言者、伝道者、牧師、教師に聖徒たちは従わなければならない」……と語り語らせ教え教えさせ導き導かせ続けておられた……

……しかし……「霊の父」について聖書にはこう書いてある……"霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。"……「ご自分の聖さにあずからせようとして」と書いてある「ご自分」とは誰のことだろうか?ヘブル人への手紙を書いた著者か?この著者は自分自身を霊の父のひとりと思っているということだろうか?この著者は自分のことを「ご自分」と書いているのだろうか?この著者は「私も霊の父のひとりであり私は私ご自身の聖さにあずからせようとしてあなたたちを懲らしめているのです。」と書いているということなのだろうか?それともこの著者は自分ではなくて使徒ぺテロや使徒ヨハネを霊の父と思って書いているのだろうか?この著者が使徒ぺテロや使徒ヨハネを霊の父と思っているのであれば……この著者は「霊の父である使徒ぺテロや使徒ヨハネは、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。」というようなことを書いたということなのだろうか?

"霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。"……「ご自分の聖さにあずからせるお方」……と書いてある「霊の父」は……父なる神おひとりの他にはひとりもいない。

"あなたがたは地上のだれかを、われらの父と呼んではいけません。あなたがたの父はただひとり、すなわち天にいます父だけだからです。"
マタイの福音書 23章 9節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会

 

8️⃣イエスキリストは言われた…"預言者はヨハネまでです"…バプテスマのヨハネの後の時代においては…イエスキリストおひとりの他に…使徒も預言者も伝道者も牧師も教師も…誰ひとりとしてモーセや旧約聖書時代の預言者たちのような者は…ひとりもいない…だから新約聖書は…互いに吟味し合い…互いに教え合いなさい…と語っている…しかし…エクレシアが幼子であった時代には牧師先生からの束縛と牧師先生に依存する安全が聖徒に必要であったため隠されていなければならなかった

 

 

前回のブログで、神はエクレシアが幼子である期間には……預言の賜物の活性化についての知識を隠すことによって牧師先生に依存させることにより守ってくださるが……エクレシアが年数を重ねて……聖書にこう書いてあるのに"読まなかったのですか"……読む機会、聴く機会はありましたね?……と告げられるような幼子ではない年数になった時には……預言の賜物の活性化についての知識により実を結ばせるために預言の賜物についての知識をエクレシアに徐々に少しずつ明かしはじめる……もし年数が幼子ではなくなった子たちが預言の賜物の活性化についての知識を得たことによって高ぶってしまって牧師先生を見下し侮り、神に語られ示されていないのに神に語られ示されたと言って牧師先生の忠告に耳を傾けることをせずに敵に惑わされ霊や肉や魂に滅びや損害が生じたとしても……読んだことがあるのに聴いたことがあるのに……読んだことがなく聴いたことがなく理解できない幼子のような選択や行動をしたのなら……"読まなかったのですか"……と言われることが当然といえるほどにすでに幼子ではなくなっている者たちは自己責任をおのおの自分自身の背に負わなければならない……といったことについて書かせていただいた。


8️⃣【①バプテスマのヨハネの後の預言者たち】


エスキリストは……"預言者ヨハネまでです"……と語られた。

"預言者ヨハネまでです。"
ルカの福音書 16章 16節

……しかし……バプテスマのヨハネの後の時代である使徒の時代にも預言者が存在していたことを聖書は証ししているし、これまでの時代にも現代にも世界中に預言者は存在している。

"ユダもシラスも預言者であったので、多くのことばをもって兄弟たちを励まし、また力づけた。"
使徒の働き 15章 32節

"こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。"
エペソ人への手紙 4章 11節


バプテスマのヨハネ以降の時代にも預言者は存在していたし……現代にも世界中に預言者は存在している……では……イエスキリストが語られた……"預言者ヨハネまでです。"……とはどういうことだろうか?

エスキリストが語られた……"預言者ヨハネまでです。"……とは……「モーセのような預言者」はヨハネまでです……という意味だ……

……聖書には……"あなたの神、主は、あなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のようなひとりの預言者をあなたのために起こされる。彼に聞き従わなければならない。"……と書かれている。だから、イエスキリストが語られた……"預言者ヨハネまでです。"……とは……預言のことばに、まるで大預言者のような権威が与えられているモーセのような預言者バプテスマのヨハネまでです……という意味だ……

……もちろん旧約聖書に書かれている……"私のようなひとりの預言者"……とはイエスキリストおひとりだけのことであり他の誰のことでもないのだが…………イザヤやエリヤといった旧約聖書時代の預言者たちが語る預言にも……ひとりの大預言者であるイエスキリストのかたちの影であったモーセのような権威があった……

……旧約聖書の時代においては神が預言者をとおして語られる預言のことばに聞き従わないことは……神御自身が語られたことばに聞き従わないことと同じことであった……そのような旧約聖書時代の預言者たちや……モーセのような権威のある預言者は……バプテスマのヨハネまでであることを告げるために……イエスキリストは……"預言者ヨハネまでです。"……と語られた。

 

8️⃣【②「吟味」と「尊敬」と「信頼」と「依存」】

旧約聖書の時代は……偽預言者ではない「預言者」の預言には聞き従わなければならない時代であったので……知らなければならなかったことは預言を語っている者が「預言者」であるか「偽預言者」であるかということ『だけ』であり……「偽預言者」ではなく「預言者」なのであれば……現代のように間違ったことばが預言のことばの中に部分的に混ざったりしていなかったかどうかを慎重に『吟味』するとかはせずに……「偽預言者」ではない「預言者」の預言のことばには聞き従わなければならない時代だった……

……しかし……バプテスマのヨハネの後に……イエスキリストが天に上げられてから……キリストの体を建て上げるために存在している預言者たちは……唯一の大預言者であるイエスキリストのかたちに似た影であったモーセのような権威が与えられていた旧約聖書時代の預言者……ではなくて……5役者としての預言者であり……偽預言者ではなく確かに神から預言者としての召命と油注ぎが与えられている預言者の預言ではあったとしても『吟味』が必要だ……

……だから新約聖書には……"預言する者も、ふたりか三人が話し、ほかの者はそれを吟味しなさい。"……と書かれている。

……しかし……バプテスマのヨハネの後の時代になっていて……預言者の預言に吟味が必要な現代において……メッセージを語り終えた牧師先生にひとりひとりがあいさつしに行く時に「牧師先生が今日のメッセージの時間に語っておられたことばが聖書と矛盾している点がなかったかどうかをじっくり慎重に吟味させていただき、来週くらいに私の意見を牧師先生にお伝えさせていただきシェアさせていただいてもよろしいでしょうか?」……と言えば……何人の牧師先生が嫌そうな顔をするだろうか?

何人の牧師先生が自分が語ったメッセージについて聖書に矛盾している点はないかについて吟味せずに聞き従うことを願っていたり要求しているだろうか?

牧師先生が語ったメッセージについて聖書に矛盾している点はないかについて吟味することは牧師先生に「失礼」とか「尊敬が足りない」……と思うだろうか?

牧師先生を尊敬することと、牧師先生が語ったメッセージについて聖書に矛盾している点はないかについて吟味することは両立できることだ。「尊敬すること」も「吟味すること」も両方とも聖書が要求していることであるから「尊敬すること」と「吟味すること」は両立できる。牧師先生を「尊敬すること」も牧師先生のメッセージを「吟味すること」も両立することができる。

私は牧師先生を尊敬しているし、信頼もしているが……牧師先生の聖書知識による聖書解釈から出て来る牧師先生のメッセージや教えを……聖書に書いてある御言葉ほどには信頼していない。聖書には100%間違いがないと……100%信頼しているが……完全ではない人間である牧師先生の少し不完全で欠けのある「聖書知識」「聖書理解」「聖書解釈」「聖書メッセージ」「教え」が一字一句100%聖書と一致しているとまでは「信頼」していない……

……もちろん牧師先生を尊敬しているし、牧師先生に感謝している。不完全であっても、なるべく完全に近づけようと心砕き労してくださっている牧師先生を尊敬し感謝することはごく自然なことであると私は思っている。……だが……心砕き労してくださっている牧師先生を尊敬し牧師先生に感謝することと、牧師先生のメッセージや教えを吟味するかしないかは別のことだ……

……牧師先生のメッセージを「吟味」しないことは「盲従」であり『依存』だ……

……もし牧師先生が自分が語ったメッセージを「吟味」されることを喜ばないなら……『束縛』であり……

……もし牧師先生が自分が語ったメッセージを「吟味」されることを喜ばないのであれば……『束縛』を保つための『依存』と「盲従」を喜んでいる……と言えるかもしれない。

……では何故……神は……エクレシアが「牧師先生のメッセージを吟味してはいけない」とこれほどまでに強く思い込むままにさせておられたのだろうか……?……何故なら……幼子にとっては親から多すぎる自由を与えられることは危険であり……束縛が多いことは安全となるからだ。親が幼子を束縛し、幼子が親に依存することで弱く無知な幼子のいのちと健康は守られる……

……エクレシアが弱く無知な幼子であった時代は牧師先生たちにも聖徒たちにも「牧師先生のメッセージを吟味してはいけない」と思い込ませるために……「聖徒たちの牧師先生にたいする依存」を弱めてしまう聖書箇所は牧師先生たちの目からも……聖徒たちの目からも……「奥義」として隠され続けている必要があった……

……しかし……エクレシアが幼子ではなくなった時……牧師先生のメッセージに『欠け』があることを徐々に少しずつ明かされはじめる……

……牧師先生のメッセージに『欠け』があることを明かされるのは……牧師先生のメッセージに『欠け』があると言って牧師先生を責め牧師先生にたいする尊敬を捨てさせるためか……?……もちろんそうではない……牧師先生のメッセージに『欠け』があることを幼子ではなくなったエクレシアに明かされるのは……牧師先生が『欠け』のあるメッセージを一方的に幼子である聖徒に語り教え盲従させ依存させ囲い守り保護する段階から……牧師先生と聖徒が互いに尊敬し合い互いに教え合う次の段階にエクレシアを前進させエクレシアを栄光から栄光に進ませ……これまでの大いなる栄光から……偉大な大いなる栄光に進ませるためだ。


"預言者ヨハネまでです。"
ルカの福音書 16章 16節

"こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。"
エペソ人への手紙 4章 11節

"これは、預言者ヨエルによって語られた事です。
『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。
その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。"
使徒の働き 2章 16〜18節

"キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。"
コロサイ人への手紙 3章 16節

"預言する者も、ふたりか三人が話し、ほかの者はそれを吟味しなさい。
もしも座席に着いている別の人に黙示が与えられたら、先の人は黙りなさい。
あなたがたは、みながかわるがわる預言できるのであって、すべての人が学ぶことができ、すべての人が勧めを受けることができるのです。"
コリント人への手紙第一 14章 29〜31節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会

 

 

7️⃣まだ「土台」「基礎」がなく親に依存すべき幼子のようなエクレシアには「牧師先生に依存させること」を弱める「預言の賜物の活性化についての知識」は奥義として隠されている。「土台」「基礎」のあるエクレシアには「預言の賜物の活性化についての知識」が与えられて牧師先生に依存しなければならない強制力が弱まる時が来る…「預言の賜物の活性化の知識」によりおごり高ぶって親や牧師先生を見下し侮る者にとっては命綱を自ら簡単にひきちぎって失う自由が与えられる時となり…親や牧師先生を尊敬し感謝する者は多くの実を結ぶ時となる

 

 

前回のブログでクリスチャン一世の時代は「牧師先生」と「聖書」から聴くことでキリストの体としての「基礎」「土台」をつくりあげる時代であり、クリスチャン二世の時代は「牧師先生」と「聖書」と「クリスチャン一世である親」から聴くことで「基礎」「土台」を強固にする時代であるため……「牧師先生や親に依存させることを弱めることになる聖書箇所や預言の賜物の活性化等の知識」は奥義として隠されていなければならない時代だった……しかし……今の時代は日本のエクレシアにもクリスチャン一世や二世や三世や四世が共にいることはさほどめずらしいことではない時代となってきているので……預言の賜物の活性化ということばを聴く者たちの割合が少しずつ増えてきている……といったことについて書かせていただいた。

クリスチャン一世の方々の時代に「基礎」「土台」をつくりあげ、クリスチャン一世と二世の方々の時代に「基礎」「土台」は強固に固められていて……どっしりと安定している。「基礎」「土台」がまだ強固に固められていないクリスチャン一世や二世だけがエクレシアの「働き人」であった時代は……エクレシアが『親と幼子の時代』だったので「牧師先生や親に依存させることを弱めることになる聖書箇所や預言の賜物の活性化等の知識」は奥義として隠されていなければならなかった。……幼い子には「夜遅い時間に外出してはならいなどという法律はないという事実や知識」は隠されていなければならない。法律以下の権威しかない家庭のルールによって弱く無知な幼子は守られている必要がある。

牧師先生たちの常識や牧会の仕方ノウハウや牧師先生たちがつくった教会秩序の中には聖書と矛盾することや聖書に書かれていないことも含まれていて神の秩序である聖書からズレている……しかし……聖書解釈や聖書理解がズレている不完全な人間がつくった不完全なルールの下に置かれていることの方が幼子にとっては安全であり必要なことであることを神は知っておられる……だから……聖書と矛盾している教会秩序や牧師先生たちの常識やルールという不完全で……完全な聖書の秩序と比べると……不完全な秩序の下に……子たちが幼子である期間は預けておられた……弱く無知な幼子が守られるためだ。

……しかし……子たちが幼子ではなくなった時期に子たちはやがて……「夜遅い時間に外出してはならいなどという法律はないという事実や知識」を知るようになる……しかし……夜遅い時間に外出してはならいなどという法律はないということは……人目の少ない夜の暗闇にまぎれて悪を行おうとする者たちも夜遅い時間に自由に外を出歩くことができる……ということでもある……だから親は法律が禁止していない「門限という禁止」を弱く無知な幼子に与えることによって守ろうとしてくれる……

……しかし……子たちは幼子ではなくなった時に家庭のルールを破っても法律違反にはならないことを知るようになる……

……しかし……家庭のルールの下に置かれた弱く無知な幼子ではなくなることは……「家庭のルールを破りたいなら破りなさい……家庭のルールを破っても法律違反ではない……しかし……法律ではない家庭のルールを破って行動して生じた結果は『自己責任』として背負わなければならない」……ということだ。『自己責任』ということばがあまりに重すぎて背負うことができない弱い無知な幼子は親が許可する「範囲」「枠」にとどまっていなければならない。

聖書は「牧師先生に絶対に服従しなさい」……とは語っていない。……聖書は「牧師先生に絶対に服従しなさい」とは語っていないのだから……牧師先生に絶対服従しなくても聖書に違反したことにはならない……神から示され語られた……と思っている誰かの選択を牧師先生は強制的にやめさせることはできない。……本当に神から示され語られているかもしれないからだ……

今、日本のエクレシアはクリスチャン一世とクリスチャン二世とクリスチャン三世や四世が働き人となっている時代であり……エクレシアに「土台」「基礎」があり……エクレシアが幼子ではなくなっている時代であり「預言の賜物の活性化についての知識」が子たちの目から奥義として隠されているべき時代が過ぎ去ろうとしている時代だ。

「預言の賜物の活性化についての知識」を日本のエクレシアが得ると……「神から示された語られた」と言って牧師先生の意見に逆らい反論する者たちが急増することになることだろう。……そして……本当に神から示され語られている者たちは時が来ると多くの実を結ぶようになり……神から示され語られていないのに神から示され語られたと思い込んでいる者たちは霊や肉や魂の死や損害を自己責任として刈り取り自分の身に背負うことになる。……神は幼子の自由の一部分を親に奪い取らせて幼子を守ることを優先し……幼子ではなくなった子たちには自由を与え……自己責任をおのおのの背に負わせる。

「預言の賜物の活性化についての知識」が隠されたまま今後もずっと牧師先生に依存することを強制されている方が安全ではあるだろう。しかし……預言の賜物はいつまでたってもほとんど実を結ぶことはないままになってしまう……

親を侮る子が「夜遅くに外出して家の門限を破っても法律違反ではない」……といった「知識」を得ることは……死んでしまうかもしれないくらい非常に危険なことだ……だが……そのような法律を知らない方が安全な者たち、侮る者たちの目から『だけ』法律を隠し続けるなどということはできない。

神の御言葉を侮り、牧師先生を侮る者が「預言の賜物の活性化についての知識」を得ることは非常に危険なことだ……だからといって「預言の賜物の活性化についての知識」を隠し続けると……「預言の賜物」によって実を結ぶことができる者たちの目からも隠し続けなければいけないことになる。

エクレシアがまだ幼かった時代は「預言の賜物の活性化」を知ることが益になる者の目からすらも厳重に隠されている必要があった。「預言の賜物の活性化についての知識」を侮る者たちと侮らない者たちの『どちらか』に『だけ』見せるということはできない。……「預言の賜物の活性化についての知識」を……どちらの目からも隠され続けていなければならなかった『幼子の時代』が過ぎ去り……どちらの目にも見えはじめる時代が近づく時……「預言の賜物の活性化についての知識」を得ておごり高ぶり牧師先生を見下す者が「預言の賜物の活性化についての知識」を得ることは命綱を自分でかんたんにちぎることができるようになって……霊や肉や魂の滅びや大損害に向かって走り出す自由が与えられるようなものだ……

日本のエクレシアに「預言の賜物の活性化についての知識」が隠されていて牧師先生の権威や教会秩序が強固な壁や鎖のようであった時代が過ぎ去り……誰でも自由に選択できる時代が近づくと……御言葉を侮り、牧師先生を侮る者たちの命綱は鎖ではなくなり……ますますかんたんにちぎりやすくなる……無知な幼子のためには「野菜も食べなさい」と叱り守ってくれる親の権威は鎖や高い城壁のようだが……幼子ではなくなった者は親の叱責を退けて野菜を食べない選択をし続けることもできる……しかし……その刈り取りは後の日に……その身に下ることになる。

エクレシアがまだ幼子であった時代は牧師先生に強大で強固な権威を与え、牧師先生の強大で強固な権威によって守られていたが……預言の賜物の活性化についての知識と理解がエクレシアに入ってくると……牧師先生の強大で強固だった権威は弱まり……命綱は鎖ではなくなり……かんたんにちぎることができるようになり……命綱をちぎって自由を高くかかげて家からとびだした結果あまりにも大きな損失を刈り取ることになってしまった者に与えられることばは……"読まなかったのですか"……だ。野菜を食べないと不健康になる……病気になる……と聞いたことがなかったのですか?知らなかったのですか?

御言葉を侮るな……親を侮るな……牧師先生を侮るな……と聞いたことがなかったのですか……?"読まなかったのですか"

"イエスは彼らに言われた。「ダビデとその連れの者たちが、食物がなくてひもじかったとき、ダビデが何をしたか、読まなかったのですか。"
マルコの福音書 2章 25節

"あなたがたは年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神のことばの初歩をもう一度だれかに教えてもらう必要があるのです。"
ヘブル人への手紙 5章 12節

預言の賜物の活性化についての知識を知ったことによっておごり高ぶり、牧師先生を見下し侮り……鎖を引きちぎってしまうような者たちが守られるために「預言の賜物の活性化についての知識」が隠され続けていた時代はいつまでも続かない。「預言の賜物の活性化についての知識」を得ることで実を結ぶことができる者たちさえも強くつなぎとめることになってしまうからだ。聖書の御言葉の真理の光が……子たちをつなぎとめていた牧師先生の強く強固な鎖や高い城壁のようだった権威は鎖ではなくて糸であったことを明らかにする時……預言の賜物によって実を結ぶことのできる者たちはますます多くの実を結ぶことができるようになり……神の御言葉を侮り、牧師先生を侮る者はますます多くの霊や肉や魂の滅びや大損失を刈り取ることになる時代が近づいてくる……

「預言の賜物の活性化についての知識」を神は日本のエクレシアの目からいつまでも奥義として隠したままにはなさらない。

"隠れているのは、必ず現れるためであり、おおい隠されているのは、明らかにされるためです。"
マルコの福音書 4章 22節

"基礎的なことを再びやり直したりしないようにしましょう。
神がお許しになるならば、私たちはそうすべきです。"
ヘブル人への手紙 6章 2〜3節

"御霊の賜物、特に預言することを熱心に求めなさい。"
コリント人への手紙第一 14章 1節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会

 

6️⃣クリスチャン一世と二世の時代には「預言の賜物の活性化についての知識」は『親や牧師先生に依存させることを弱める聖書の御言葉や真理』であるから…奥義として隠されていなければならなかった…何故なら…クリスチャン一世の時代は牧師と聖書から聴き土台がつくられる時代であり…クリスチャン二世の時代は牧師と聖書と親から聴きクリスチャン一世がつくった土台が強固に固められる時代であるからだ…しかし…クリスチャン三世の時代は牧師と聖書と親から聴くだけでなく預言の賜物を探し求め活性化させることができるようになる時代だ

 

前回のブログで現代は約2000年間続いている「新約の旧約時代」であり、旧約時代は新約時代が開かれるための道を整える期間であるのと同じように約2000年間続いている現代の「新約の旧約時代」はこれから『新約の新約時代』が開かれるために道を整えるための期間であり、子たちが学校で基礎的なことを学ぶ期間であることについて書かせていただき……『新約の新約時代』にはキリストの体である「教団・教派・グループ」が1つのキリストの体となり「主の祈り」を地上にことごとく実現させる時がはじまることについて書かせていただき……旧約時代は目に見えるイエスキリストがまだ地上を歩いておられない時期であったように……約2000年間続いている「新約の旧約時代」である現代も『キリストの体が1つのキリストの体となって地上を歩く時代』である『新約の新約時代』はまだ開かれていない……「新約の旧約時代」に見ることができるのは「(旧約)石打ち」≒「(新約の旧約:現代)指導者の心から発する怒りと叱責」であり……「(旧約)口伝律法」≒「(新約の旧約:現代)教会秩序」であることについて書かせていただいた。

6️⃣【①旧約時代も新約の旧約である現代も「親と幼子」の時代だったので……親からの叱責により無知な幼子を守る必要がある時代だったが……新約の新約時代は「親たちと成人して幼子ではなくなった子たち」の時代であり……親が子を叱責して一方的に教える時代ではなく……親と子が互いに尊敬し合い互いに教え合う時代だ】

約2000年間続いている現代の「新約の旧約時代」は「親と幼子」の時代であり、今近づいてきている『新約の新約時代』は「親と成人して幼子ではなくなった子」の時代だ。

聖書は「はじめ」から互いに尊敬し合うことを要求している〔ローマ12:10〕……しかし……「親と幼子」の時代に「神が優先なさること」は「親と幼子が互いに尊敬し合いながら互いに教え合うこと」……ではなくて……「親からの叱責により弱い無知な幼子が一方的に教えられ守られること」だ。「親と幼子」の時代には「弱い無知な幼子が守られること」が優先される必要があるため、親や牧師先生含む5役者は『旧約聖書の時代の預言者のように』『一方的に教え従わせること』が「  ※許可  (※許可は永遠に続くことではなく一時的であり期間限定)」されていて……旧約時代の頃には、あまりにも神の御教えに従わない者は指導者と親が子を石打ちにすることが許可されていたように〔申命記21:18-21〕……現代では親や指導者の心から怒りや叱責という目に見えない石が発せられることによって子たちや信徒を強制的に従わせることも許可されていた……「弱く無知な幼子」が守られるためだ……

……だが……神とイエスキリストであり神のことばである聖書は昨日も今日も「はじめ」から変わらない……聖書は……「はじめ」から…… "腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。"……と語っている。

親や牧師先生に依存することを強制されることが必要な幼子の時代が過ぎ去って、子たちが幼子ではなくなって成人した時に……天から子たちが幼子ではなくなって成人した時のための新しい聖書が天から与えられる……のではなくて……神はキリストの体に完成した聖書を「はじめ」から与えておられる……しかし……『親や牧師先生に依存させることを弱める聖書箇所』には覆いをかけておられるので……書いてあるし見えるけど見えない……読めるけど読めない……理解できるけど理解できないようになさることが神の知恵であり……神の奥義だ……幼子が成人して幼子ではなくなる時まで『親や牧師先生に依存させることを弱める聖書の御言葉や真理』は奥義としてエクレシアの目から隠され続けている必要があった……「親からの叱責により弱い無知な幼子が一方的に教えられ守られること」が優先される必要があった。

【②幼子が成人した時かどうかを知る】

幼子が成人して幼子ではなくなった時代になったかどうかを……どのように知ることができるだろうか?教会の信徒の全員が牧師先生になったら成人した時だろうか?教会の信徒の全員が大人になったら成人した時なのだろうか?……エクレシアには今後も牧師先生がいて信徒がいて、大人がいて幼子がいる。……では幼子が成人して幼子ではなくなった時代になったかどうかを……どのように知ることができるだろうか?……キリストの体が幼子ではなくなった時代は……「信徒の中に牧師先生ではないけど牧師先生と同じくらいか牧師先生以上に聖書の御言葉を知っている者たちがエクレシアの中に現れてきた時」であり……現代はすでに……信徒の中に牧師先生ではないけど牧師先生と同じくらいか牧師先生以上に御言葉を知っている者たちがエクレシアの中に現れてきている……だから『親や牧師先生に強制的に従わせ依存させることを弱める聖書の御言葉や真理』が奥義として隠され続けていなければならなかった時代は過ぎ去りはじめている。

『親や牧師先生に強制的に従わせ依存させることを弱める聖書の御言葉や真理や教え』は……「預言の賜物の活性化」だけでなく……「5役者である使徒について理解することによって、使徒と牧師それぞれの役割がどのようなことであるかについて知ること」などなど他にも色々あるが……

「牧師先生含む5役者ではなくても預言の賜物を活性化させ預言の賜物を用いることができるようになること」は『親や牧師先生に強制的に従わせ依存させることを弱める聖書の御言葉や真理』の1つと言えるだろう。「預言の賜物の活性化」については多くの国々のエクレシアに浸透し理解されているが……日本のエクレシア(教会:クリスチャン)のほとんどの方々が「預言の賜物の活性化」なんてことばは聞いたこともないと返答することだろう。

国々のエクレシアには「預言の賜物の活性化」についての知識があるのに、何故、日本のエクレシアには「預言の賜物の活性化」についての知識がないのだろうか?……何故なら「預言の賜物の活性化」についての知識は『親や牧師先生に強制的に従わせ依存させることを弱める聖書の御言葉や真理』の1つであるからだ。

『親や牧師先生に強制的に従わせ依存させることを弱める聖書の御言葉や真理』の1つである「預言の賜物の活性化」についての知識は……親がクリスチャンであるだけでなく……親も親の親もクリスチャンである子たちがエクレシアの中に現れてくる時までは奥義として隠されていなければならない。クリスチャン一世(アブラハム)の世代は「牧師先生」と「聖書」から聴かなければならないので、預言の賜物の活性化は奥義として隠されている必要があった……クリスチャン二世(従順なイサク)の世代は「牧師先生」と「聖書」と「クリスチャン一世である親」から聴かなければならないので、預言の賜物の活性化は奥義として隠されている必要があった……しかし……「牧師先生」と「聖書」と「クリスチャン一世である親の親」と「クリスチャン二世である親」から聴くという土台のあるクリスチャン三世(求めるヤコブ)の世代がエクレシアの中に現れてくる時に預言の賜物の活性化が奥義として隠され続けていなければならなかった「親と幼子の時代」は過ぎ去りはじめる。……クリスチャン三世が日本のエクレシアにいなかったり、まだ少なかった時代には「預言の賜物の活性化についての知識」は奥義として隠されていなければならなかった。「牧師先生」と「聖書」から聴くことを土台としなければならないクリスチャン一世の時代……「牧師先生」と「聖書」と「クリスチャン一世の親」から聴くことを土台としなければならないクリスチャン二世の時代……は「基礎」「土台」がつくられる時代だ。預言の賜物は「基礎」「土台」の上に置かれるべきものだ。預言の賜物は非常に素晴らしいが……間違った預言をしてしまう可能性が常にあり……吟味が必要な不安定なものなので……「基礎」「土台」がつくられるべきクリスチャン一世や二世の時代に間違った預言のことばが「基礎」「土台」にパン種のように混ざってしまわないために「預言の賜物の活性化の知識」は奥義として隠されている必要があった……しかし……今、日本のエクレシアを見ると……クリスチャン一世、二世だけではなくて、三世も四世も見ることができる……だから……日本においても「預言の賜物の活性化についての知識」が奥義として隠され続けていなければならなかった「親と幼子の時代」は過ぎ去りはじめようとしている……"私は賢い建築家のように、土台を据えました。"
コリント人への手紙第一 3章 10節

"天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。"
伝道者の書 3章 1節
"引き裂くのに時があり、縫い合わせるのに時がある。黙っているのに時があり、話をするのに時がある。
愛するのに時があり、憎むのに時がある。戦うのに時があり、和睦するのに時がある。"
伝道者の書 3章 7〜8節
"神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行われるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。"
伝道者の書 3章 11節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会