シャロームを所有する

私は預言の賜物の回復を願っている。しかし私は預言の賜物を否定する方々を心から尊敬し感謝している。私が預言の賜物を熱心に求めて聖書に従うためなら…私は預言の賜物を否定する方々を不満に思い…全て感謝せよと語る聖書に逆らってよいだろうか?預言を認める牧師先生だけ尊敬し…預言の賜物を否定する牧師先生含む5役者や教団教派の方々を尊敬せず…互いに尊敬しなさいと語る聖書に逆らってよいだろうか?自分が建てたい御言葉を建て上げるために他の御言葉を壊してできた砂の上に自分が建てたい御言葉を建て上げ…家を建ててよいのだろうか?

5️⃣約2000年前の「新約時代」にはイエスキリストが地上を歩いておられたが……約2000年後の「新約の新約時代」にはキリストの体である教団教派が「私たちも私たちに負い目のある人を『みな』赦しまし『た』と断言することができるようになっていて主の祈りをことごとく成就させることができる力と権威を相続していて分裂していない1つのキリストの体となって御国を来たらせながら地上を歩くのを全世界が見ることができる「新約の新約時代」の扉が開かれるためには約2000年間の分裂していた「新約の旧約時代」の期間が必要だった

 

 

前回のブログで新約聖書の時代から約2000年間続いている現代の教会は新約時代ではあるが……現代の教会には旧約時代との共通点があり……現代の教会はまだ「新約時代の『旧約時代』であることについて書かせていただいた。

5️⃣【①「旧約時代のエクレシア」と「新約の『旧約時代』である現代のエクレシア」との共通点】

神の民は長い長い旧約聖書の時代に整えられ続け……新約聖書の時代に来られるイエスキリストのための道備えをしなければならなかった。……神の民は子が学校で学ぶように長い長い旧約聖書の時代という基礎的なレッスンを受ける必要があった。……では……異邦人のエクレシアである私たちは?……神の民は長い長い旧約聖書の時代という基礎的なレッスンを受ける期間が必要だったのに……約2000年前に生まれた異邦人のエクレシアは飛び級することができていたのだろうか?……約2000年前に生まれたばかりの異邦人のエクレシアにも基礎的なレッスンを受けるための長い長い時代が必要であることを神は知っておられる……

……約2000年前に生まれたばかりの異邦人のエクレシアは約2000年間……長い長い基礎的なレッスンを現代においても受け続けている……

……新約聖書以降に約2000年間続いている現代は……新約時代ではあるが……2000年前にはじまった異邦人のエクレシアのための基礎的なレッスンのために備えられた期間であり……旧約時代との共通点がある「新約の『旧約時代』だ……

約2000年前に新約聖書の時代の扉が開かれる前に……長い長い旧約聖書の時代という道備えが必要であったように……

『新約の『新約時代』の扉が開かれる前にも……新約聖書の時代から約2000年間続いていて現代も続いている「新約時代の『旧約時代』という道備えが必要であることを神は知っておられる。

新約聖書の時代から約2000年間続いている現代は旧約聖書の時代との共通点のある「新約の『旧約時代』だ……

……旧約時代に『見ることができる』のは……「石打ち」と「口伝律法」だ……「新約の『旧約時代』である現代のエクレシアにも……現代のエクレシアの「石打ち」があり……現代のエクレシアの「口伝律法」がある……

……現代のエクレシアには旧約聖書の時代の「石打ち」のかわりに「指導者の怒りと叱責」があり……

……現代のエクレシアには旧約時代の「口伝律法」のかわりに「教会秩序」がある。

共通点①……「旧約聖書の時代に神に選ばれた指導者が投げていた石打ち」≒「現代の新約時代に神に選ばれた指導者が心の中から発している怒りと叱責」

共通点②……「旧約時代の口伝律法(聖書に書かれていないルール)」≒「現代の新約時代の教会秩序(聖書に書かれていないルール)」

共通点①である「旧約聖書の時代に神に選ばれた指導者が投げていた石打ち」と「現代の新約時代に神に選ばれた指導者が心の中から発している怒りと叱責」が……まだ幼子であるエクレシアにとっては……野菜を拒絶する幼子が親の怒りや叱責によって野菜を強制的に食べさせられることによって健康が守られいのちが守られるように……命づなであること……については前回のブログでこれまで以上に大いに強調して書かせていただいたし……野菜が必要であることをまだ理解できない幼子にとっては……野菜を強制的に食べさせられることは『命づな』だが……野菜が必要であることを理解できている青年に「この野菜を食べなさい」と強制することは『束縛の鎖』である……といったことについても前回のブログで書かせていただいた。

共通点②の「旧約時代の口伝律法」も「現代の新約時代の教会秩序」も聖書に書かれていないルールではあるが……悪いものではなく『良いもの』であり『良い知恵』だ。

聖書を見ると口伝律法には「パンを食べるときに手を洗う」……というルールがあったようだ。聖書には「食事の前には手を洗いなさい。食事の前に手を洗わない者は罪に定められる」……みたいなことは書かれていない。……もし、「食事の前に手を洗わないこと」が罪であったとしたらイエスキリストは、「食事の前に手を洗わない罪」を背負うためにも十字架にかかってくださったことになるが……「食事の前に手を洗わないこと」は罪ではないので、その必要はない。しかし、父や母に「食事の前に手を洗いなさい」と言われた子が父母を敬っていないことが理由で食事の前に手を洗わなかったのであれば……"あなたの父と母を敬え。"と語っている聖書に違反しているとみなされるのではないだろうか。

「食事の前に手を洗うこと」は『良いこと』であり『良い知恵』であり、「食事の前に手を洗うこと」によって肉体の健康が守られる。

健康について、人間関係について、その他のことについて、聖書には書かれていない『良いこと』や『良い知恵』がある。だから、聖書は
"すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか徳と言われること、称賛に値することがあるならば、そのようなことに心を留めなさい。"……と語っている。

しかし聖書に書かれていない良いことや良い知恵は『人の教え』であるから聖書のルールと同列ではない。どんなに有益な教えであったとしても『人の教え』は聖書のルールの下にある。……口伝律法も教会秩序も良いことや良い知恵であり、有益なものではあるが、『人の教え』であり聖書の下にあるものだ……

……それぞれの家庭の親の教えや助言や忠告や教訓は有益なものではあるだろう……しかし……それぞれの家庭の親の教えや助言や忠告や教訓を無視しても法律違反にはならない。法律と同列ではなく法律の下にあるものであるからだ。

口伝律法が聖書の下にあるものであるように……教会秩序も聖書の下にあるものではあるが……バランスの良い教会秩序によって教会は分裂しにくくなるし、教会秩序は教会の見た目を良くしたり、環境を整えるために有益だ。……もちろん内側が整っていることの方が重要だが……外側も整っていることは多くの人々にとって徳が高められることであり【良いこと】であり【徳】であると言えるだろう。

"「あなたのお弟子たちは、なぜ長老たちの言い伝えを犯すのですか。パンを食べるときに手を洗っていないではありませんか。」"
マタイの福音書 15章 2節

"最後に、兄弟たち。すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか【徳】と言われること、称賛に値することがあるならば、そのようなことに心を留めなさい。"
ピリピ人への手紙 4章 8節

 

5️⃣【②旧約時代に「見ることができるもの」と「見ることができないもの」】

旧約時代に『見ることができる』のは……「石打ち」と「口伝律法」だ……

……旧約時代に『見ることができない』のは……「この地上を歩いておられるのを人々が見ることができるイエスキリスト」だ……

新約時代ではあるが同時に旧約時代でもある現代も……「この地上を歩いておられるのを人々が見ることができるイエスキリスト」の時代の扉はまだ開かれていない。……と言うと……このように思う方々がおられるかもしれない……「イエスキリストはエクレシアといつも共におられ今もこの地上を歩いておられる」……アーメン。そうです。そのとおりです。同意します。ハレルヤ……しかし……新約聖書の時代にはイエスキリストを信じず受け入れず拒絶している人々が見ることができる肉体のあるイエスキリストがこの地上を歩いておられた時代だった。

『新約の新約時代』は……イエスキリストを信じず受け入れず拒絶している人々であっても見ることができる肉体のあるイエスキリストがこの地上を歩いているのを人々が見ることができる時代だ。

『新約の新約時代』は分裂していないキリストの体がこの地上を歩く時代だ。

『新約の新約時代』はイエスキリストを信じず受け入れず拒絶している人々を含む全世界の身分の高い者も低い者もありとあらゆる人々がキリストの体である「教団・教派・グループ」が分裂しておらず……1つのキリストの体となって……この地上を歩いているのを見ることができる時代だ。

"あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」"
ヨハネ福音書 13章 34〜35節

 

5️⃣【③聖書に書いてある主の祈りは「私たちも私たちに負い目のある人を『みな』赦しまし『た』」と断言できることが前提で書かれている】

2000年前の「新約時代」にはイエスキリストが地上を歩いておられたが……「新約時代」から約2000年後の「新約の新約時代」はキリストの体である「教団・教派・グループ」が分裂しておらず1つのキリストの体となって地上を歩くのを全世界が見ることができる時代だが……今はまだ「新約の新約時代」の扉は開かれていない。……何故なら……主の祈りをことごとく成就させる力と権威がまだキリストの体であるエクレシアが相続できていないからだ。……キリストの体であるエクレシアが「私たちも私たちに負い目のある人を『みな』赦しまし『た』」と断言することができるようになった時に……主の祈りをことごとく成就させることができる力と権威を相続することができるようになる……

……キリストの体が分裂しておらず1つのキリストの体となっていて、「私たちも私たちに負い目のある人を『みな』赦しまし『た』」と断言できるようになった時に……キリストの体が『主の祈り』をことごとく成就させ御国を来たらせ続けながら地上を歩いているのを全世界が見ることができる時代である「新約時代の新約時代」がはじまる……

聖書に書かれている主の祈りは……「私たちも私たちに負い目のある人を『みな』赦しまし『た』」と断言できるようになっていることが前提で書かれている。

聖書に書いてある主の祈りは……「"私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しまし【た】。"」……と書いてあり……我らに罪をおかす者を我らが赦すごとく⬅️という未来形ではなくて……我らが赦し【た】ごとく⬅️という過去形になっているので……「まだ赦していないけれど 赦しますので」……とか……「まだ赦していないけど赦そうとする努力をしますので」……と祈ることしかできない段階では……主の祈りをことごとく成就させることができる力と権威と実現の約束をまだ相続することはできていない。

聖書に書いてある主の祈りの聖書箇所はもう1つある……「"私たちも私たちに負いめのある者を【みな】赦します"」……と書いてあり……我らに罪をおかす者を我らが赦すごとく⬅️からは【みな】=【1人残らず全ての人を】が減らされてしまっているので……「あの人だけは赦すことができないけれど他の人たちは赦しますので」……と祈ることしかできない段階では……主の祈りをことごとく成就させることができる力と権威と実現の約束をまだ相続することはできていない。

主の祈りの成就は……聖書に書いてある主の祈りの2つの聖書箇所の「ハードルの低い部分だけ」を取り出してミックスして混ぜてつなげてつくった「我らに罪をおかす者を我らが赦すごとく」……と祈る主の祈りを祈る者たちのためにあるのではなくて……

キリストの体である者たちが……すでに1人残らず赦すことを実行済みであることを神の御前で断言できるようになっていて……「我らに罪をおかした者を『みな』=『1人残らず全ての人』を我らが赦し『た』ごとく」……と祈ることができるようになった時に……主の祈りをことごとく成就させることができる力と権威と実現の約束を相続したキリストの体が地上を歩くのを全世界が見ることができる「新約の新約時代」がはじまる……

……これまでの約2000年間に地上で現され続け拡大し続けていた主の祈りの力と権威と勝利は「非常に偉大な栄光」であったが……その「非常に偉大な栄光」すらも「まだ幼い幼子の手に分け与えられていたパンくず」だった……と思える程の『計り知れない偉大な栄光』を地上に来たらせるキリストの体が地上を歩くのを全世界のありとあらゆる人々が見ることができる「新約時代の新約時代」がはじまる。

"私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦し【ました】"
マタイの福音書 6章 12節

"私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負いめのある者を【みな】赦します。」"
ルカの福音書 11章 4節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会

4️⃣約2000年間続いている「現代の教会」と「旧約時代」には共通していることがある……現代の教会に「石打ち」はないが「御言葉に不従順な者に心の中で腹を立てるという石を投げること」は黙認されている……現代の教会に「口伝律法」はないが……「教会秩序」がある……「口伝律法」と「教会秩序」に共通していることは『聖書には書かれていないこと』だ……神は約2000年間黙って許可しておられた……まだ幼かった聖徒息子娘を守り保護するために必要なことであったからだ……

 

 

4️⃣【①旧約聖書の時代には神が「許可」しておられ実行する者に油注ぎがとどまっていたが本当は「神の御心」ではなかった
『目に見える石打ち』

約2000年続いている現代の教会に神が「許可」し続けておられ実行する者に神が油注ぎと祝福を与えておられる
『目に見えない石打ち』】

前回のブログで……神の主権は天も地も覆い尽くしているので……天には「神の御心」だけがあり……地には「神の御心」と「神が許可したこと」の2つだけしかない……それゆえ……「旧約聖書の時代」には……「石打ち」という抑止力が……まだ幼い神の民を保護するための養育係として必要であったので『神の御心』ではない「石打ち」を神が『許可』しておられたが……イエスキリストの新約聖書の時代になった時……神の御心ではないけれども神が『許可』しておられた「石打ち」という養育係は神がイエスキリストによって過ぎ去らせた……『神の御心』は永遠に続くが……神が御心ではないことを『許可』する時間は永遠ではないので時が来ると神が過ぎ去らせる……といったことについて書かせていただいた。

旧約聖書の時代」には「石打ち」という抑止力の保護がまだ幼い神の民の養育係として必要であったので『神の御心』ではない「石打ち」を神が『許可』しておられたように……新約聖書の時代から約2000年間続いている「現代の教会」の牧師先生含む5役者父母が御言葉に不従順な聖徒息子娘に「腹を立てる」という「目に見えない石」を投げている『目に見えない石打ち』という抑止力による保護が……まだ必要なので……神は約2000年間ずっと黙って『許可』し続けておられるし……『許可』し続けておられるだけでなく……「腹を立てる」という「目に見えない石」を投げて『目に見えない石打ち』を実行して聖徒息子娘を戒めておられる方々を神は大いに祝福し豊かに油注ぎを与え続けておられ……御言葉に不従順な聖徒息子娘にたいして腹を立てながら戒めることは『神の御心』であるという強い確信を与え続けておられる。

約2000年続いた現代の教会の牧師先生含む5役者父母が心の中に怒りを持ちながら「目に見えない石打ち」によって……「目に見えない御言葉の文字(ロゴス)の剣」によって聖徒息子娘を整えようとする時に油注ぎがとどまっているのは……まだ現代の教会に必要であるゆえに……神が今はまだ許可し続けておられ継続させ続けておられるからだ……

新約聖書の時代に神がイエスキリストによって「目に見える石打ちで民を殺すこと」と「目に見える剣で異邦の民を殺すこと」を過ぎ去らせた時以降……「目に見える石打ちで民を殺すこと」や「目に見える剣で異邦の民を殺すこと」を実行しようとする者は神に退けられたが……

……旧約聖書の時代には……神がまだ『許可』しておられた「目に見える石打ち」を実行していたモーセの上には神の民のリーダーとならせる油注ぎがとどまっていた……

……旧約聖書の時代には……神がまだ『許可』しておられた「目に見える剣で異邦人を殺すこと」を実行していたヨシュアダビデの上には神の民のリーダーとならせる油注ぎがとどまっていた……

……新約聖書の時代から約2000年続いている現代の教会で……旧約聖書の時代のように物理的に「目に見える石」を投げて「石打ち」を実行して人殺しをする者に油注ぎは与えられず、まるで旧約聖書の時代の時みたいに……現代のクリスチャンがイエスキリストを主と認めない民を「目に見える剣」で殺しても油注ぎは与えられず……神に退けられることになるが……

新約聖書の時代から約2000年続いている現代の教会の牧師先生含む5役者父母が心の中に怒りを持ちながら「目に見えない石打ち」によって「目に見えない御言葉の文字(ロゴス)の剣」によって聖徒息子娘を整えようとする時には……モーセヨシュアダビデに神からの油注ぎがとどまっていたように……神からの油注ぎがとどまっている。……牧師先生含む5役者父母の「怒り」という抑止力が幼子の養育係や保護者として現代の教会にはまだ必要であるからだ……だから神は『聖書に書かれていない』「口伝律法」と同じで『聖書に書かれていない』「教会秩序」という人間がつくったルールについても黙認し続けておられるし……「弟子づくり」ということばが「神の弟子」ではなくて……「牧師の牧師による牧師のための弟子づくり」……のようなことになっていることも神は黙認し続けておられるどころか……油注ぎと祝福と追い風を与え続けておられる。……「教会秩序」が強化されることで牧師先生含む5役者父母が高く上げられることによって……まだ幼い聖徒息子娘が守られ保護されるからだ。……まだ幼い聖徒息子娘が守られ保護されるためには……非常に高い壁に囲まれている必要があるからだ。

しかし……神は……約2000年間非常に高く上げ続けておられた「教会秩序」の壁を低くしはじめておられる……「所属教会に集まって礼拝できない時期」があったのは……神が非常に高くしておられた「教会秩序」を低くしはじめておられるからだ……「所属教会に集まって礼拝できない時期」があったのはいくつかの「教団・教派・グループ」だけに見られたことではなく……いくつかの地域だけであったことでもなく……いくつかの国で見られたことでもない……「所属教会に集まって礼拝できない時期」が全世界を覆い続けていた……

……「所属教会に集まって礼拝すること」も大切なことなので……神は再び「所属教会に集まって礼拝すること」ができるように回復してくださっている……

……しかし……「所属教会に集まって礼拝できない時期」が全世界を覆い続けていた時が……インターネットによって自分の所属教会だけでなく……他の教会や他の牧師先生や海外に存在している現代の使徒預言者、伝道者、牧師、教師のメッセージを視聴する機会が増大するきっかけとなったのは私だけではないことだろう……

所属教会の箱入り娘にし続けることを神はまだ幼い聖徒息子娘の安全と保護と成長のために約2000年ずっと『許可』し続けておられたが……徐々に変わりはじめている……

……まだ幼い幼子にとっては父母の背が非常に高く、まだ幼い幼子がどんなに背伸びしても家の外を見ることができないくらいに壁が高い方が安全だ……しかし……幼子が幼子ではなくなっていてしかも健康であるのに外出を許可されないのであれば……人権侵害になってしまう……

幼子にとっては父母の守りと愛であることが……

青年にとっては父母の牢獄監禁人権侵害侮辱となる……

まだ幼い幼子に「何でも自由に好きなだけ食べなさい」と許可すれば……幼子がはじめて目にする野菜を1度食べてみはするだろうが……野菜の味が幼子の味覚には……おいしくない……と知って以降は2度と自分で野菜を選んで食べようとはせずに野菜を拒絶し続けて甘いお菓子だけを食べ続けるだろう……父母が「野菜を食べましょうね~」と優しい表情で優しく語りかけながら……野菜の大切さをいくら説明しても……幼子の頭脳は理解することができないから……野菜を食べようとはしない……だから……父母が「野菜を食べなさい」と怒ったり叱ったりして野菜を強制的に食べさせないと幼子は不健康になって死ぬ。……幼子が不健康になって死なないためには……自由に選択できる権利や人権は父母によって奪い取られていなければならない。……幼子が幼子ではなくなった時に健康な我が子を縄で縛って野菜を食べさせることはしてはならないことだが……まだ幼い時期に……父母の怒りや叱責によって野菜を強制的に食べさせられ続けた幼子は健康に成長し続けることができ……頭脳も理解力も成長し……野菜が必要であることを理解できるようになり……父母の手で強制的に野菜をたべさせられなくても……自分の手で野菜を選んで食べるようになる。

……まだ幼い幼子に野菜を食べさせるためには……父母の怒りや叱責が必要であるように……旧約聖書の時代の神の民には「石打ち」が必要であったし……

まだ幼い幼子に野菜を食べさせるためには……父母の怒りや叱責が必要であるように……約2000年続いていた現代の教会の牧師先生含む5役者父母の怒りによって……御言葉に不従順な聖徒息子娘が御言葉の中に強制的にとどまらさせられ……御言葉に不従順な聖徒息子娘が御言葉の中に強制的にとどまらさせられることによって……御言葉にとどまることがいかに自分自身にとって必要なことであるかを知るようになり……自分自身も「御言葉にとどまれ」と誰かを叱る者となった……牧師先生含む5役者父母の『怒り』『叱責』によって「御言葉の継承」と「御言葉にとどまらせる保護」は約2000年間保たれ継承され続けている……

……だから……御言葉に不従順な者に「腹を立てるという目に見えない石」を投げる『目に見えない石打ち』を忠実に実行し続けながら聖徒息子娘たちを整え建て上げ続けておられる現代の牧師先生含む5役者父母はモーセと同じように神と神の家に忠実な方々であり尊敬されるにふさわしい方々であり……神によって大いに祝福され油注がれ用いられている方々である……と私は心から信じているし……神に大いに祝福され油注がれ用いられている現実をこの目で数えきれないほどに見させていただいているし尊敬しているし感謝している。……"よく指導の任に当たっている長老は、二重に尊敬を受けるにふさわしいとしなさい。みことばと教えのためにほねおっている長老は特にそうです。"
テモテへの手紙第一 5章 17節

"モーセが神の家全体のために忠実であったのと同様に、イエスはご自分を立てた方に対して忠実なのです。"
ヘブル人への手紙 3章 2節

4️⃣【②旧約聖書の時代に過ぎ去った「目に見える石打ち」のように「目に見えない石打ち」が過ぎ去る時が来る】

「目に見える石打ち」を実行することが神に忠実であると認められていた旧約聖書の時代が……イエスキリストの新約聖書の時代に……神がイエスキリストによって過ぎ去らせたように……

……「新約聖書の時代」から約2000年続いていた現代の教会の牧師先生含む5役者父母が「御言葉に不従順な者に心の中で腹を立てる」という『目に見えない石打ち』によって御言葉に不従順な聖徒息子娘に保護を与えることが神に忠実な行いと認められていた時代が過ぎ去る時が来る……

……神は「旧約聖書の時代」に『許可』しておられた「目に見える石打ち」という保護を……「新約聖書の時代」に……イエスキリストによって取り去られた。  ……偶像礼拝をやめさせ、神のみおしえを尊ぶ民とならせるための「抑止力」をもたらす「養育係」として何世代にも渡って必要であった「目に見える石打ち」という保護は……もはや偶像礼拝をしておらず……神のみおしえを尊ぶことがあたりまえのこととして浸透していた新約聖書の時代の神の民にはすでに必要なくなっていたので……神はイエスキリストによって……「目に見える石打ち」を過ぎ去らせた……

新約聖書の時代」から約2000年間続いていた……「心の中で腹を立てる」という「目に見えない石打ち」や『聖書に書かれていない』「教会秩序」という抑止力は……まだ幼い聖徒息子娘たちに「御言葉の『継承』」と「御言葉にとどまらせる『保護』」を与え続けることにより……神と神の御言葉を愛し慕う聖徒とならせ整え成長させ続けるためにどうしても必要だったが……

……御言葉に不従順な者たちに牧師先生含む5役者父母が心の中で「腹を立てる」という「目に見えない石打ち」による保護は……まだ幼子であった聖徒息子娘が……もはや幼子ではなくなる日が来ると……約2000年前にイエスキリストによって「目に見える石打ち」を過ぎ去らせた神が……約2000年続いていた現代の教会の「目に見えない石打ち」を過ぎ去らせる……

……約2000年間も続いていた現代の教会で今も実行され続けている「目に見えない石打ち」……御言葉に不従順な聖徒息子娘に牧師先生含む5役者父母が心の中で「腹を立てる」という「目に見えない石打ち」を……神はどのようにして過ぎ去らせるのだろうか……

……神は……約2000年前と同じように……「イエスキリスト」と「聖霊」と「神のことば」によって過ぎ去らせる……

……約2000年前に……イエスキリストが語られた……「"兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。"」……この御言葉を……神が……聖霊によって思い起こさせ……目をそらすことなく直視させ……ロゴスの文字としてではなくて 生ける神の息であるレイマとして……聖霊によって深く強く響き渡らせることによって……約2000年以上続いていた現代の教会の「目に見えない石打ち」を神が過ぎ去らせる時が来る……そして……約2000年間続いていた
『新約時代の旧約時代』は過ぎ去り……

『新約時代の新約時代』がはじまる……

"しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを【思い起こさせてくださいます】"
ヨハネ福音書 14章 26節

"その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。"
ヨハネ福音書 16章 8節
"わたしには、あなたがたに話すことがまだたくさんありますが、【今あなたがたはそれに耐える力がありません。】
しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。"
ヨハネ福音書 16章 12〜13節

"昔の人々に、『人を殺してはならない。【人を殺す者は】【さばきを受けなければならない】』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
しかし、わたしはあなたがたに言います。【兄弟に向かって腹を立てる者は】、だれでも【さばきを受けなければなりません】"
マタイの福音書 5章 21〜22節

 

 

3️⃣神の『御心』は「石打ち」ではない。だが旧約時代には神の民が偶像礼拝や他の罪で滅びないために「石打ち」が『許可』されていた…新約以降の約2000年間…まだ幼くて御言葉に不従順な聖徒息子娘に牧師先生含む5役者父母が「怒ること」は抑止力としてまだ必要であるから『許可』されている…幼子は野菜を拒絶する…父母の「怒り」により幼子に野菜を食べさせる必要がある…幼子が死なないため…幼子が成長して成人になるまでの期間…神の『御心』ではない抑止力は『許可』される

 

 

【①『神の御心』と『神の許可』は同じではない。『神の御心』は永遠に続く……しかし神は『神の御心』ではないことであっても『神の御心』が実現するためにどうしても必要なことは期間限定で『許可』する……旧約聖書の時代の「石打ち」は『神の御心』ではなかったが……神の民全体が滅びないために守り保護するためにはどうしても必要だったので……イエスキリストの新約聖書の時代が来るまでの期間……神は『神の御心』ではない「石打ち」を『許可』しておられた】

前回のブログで……聖書は「全て感謝し互いに尊敬しなさい」と語っているのだから……御言葉に従わない者たちの言動を見聞きして……御言葉に従っていない者たちのことを尊敬せず、感謝せず、不満に思い怒りながら「御言葉に従え」と言っていることは……矛盾していて……砂の上の家のようだ……といったことについて書かせていただいた……

……しかし……私は「聖書の御言葉に不従順な誰かの言動を見聞きして腹を立て続けながら聖書の御言葉に従順するように聖徒息子娘たちを教え続けておられる方々」を心から尊敬し感謝している。

……もし……聖書の御言葉に不従順な誰かの言動を見聞きして腹を立てる人がいなければどうなるだろうか?  ……牧師先生含む5役者父母が御言葉に不従順な聖徒息子娘に腹を立てずに常に優しく接し続けていたら……御言葉に逆らい不従順な生き方を好む幼い聖徒息子娘たちは御言葉に不従順な生き方にとどまり続けてしまうことにならないだろうか?

【②「神の主権」の中にある『神の御心』と『神の許可』】

旧約聖書の時代には「石打ち」があった。「石打ち」は『神の御心』だろうか?「石打ち」は『神の御心』ではない。『神の御心』は永遠に続く。……もしも「石打ち」が『神の御心』であるなら、今でも「石打ち」は続いていただろうし……新しい天と新しい地でも「石打ち」が永遠に続くことになっていただろう。……『神の御心』は神によって必ず永遠に実現し続けるからだ。……だから「愛、喜び、平安」は『神の御心』であるから……新しい天と新しい地でも過ぎ去ることなく永遠に続く。……しかし「石打ち」は新約聖書の時代にすでに過ぎ去っている。「石打ち」は『神の御心』ではなかったからだ。……では旧約聖書の時代に『神の御心』ではない「石打ち」をしていたモーセは『神の御心』ではないことをしてしまっていた……ということになるのだろうか?……そうではない……「石打ち」はモーセが思いついたことではない。……モーセに「このような者には石を投げなければならない」と語り命じたのは神だ。モーセは神に語られ命じられたとおりのことを忠実に行った忠実な者だ。モーセ旧約聖書だけでなく新約聖書の中でも忠実な者と書かれ証しされている。……"モーセが神の家全体のために忠実であったのと同様に、イエスはご自分を立てた方に対して忠実なのです。"
ヘブル人への手紙 3章 2節

……では……神は何故……『神の御心』ではない「石打ち」をモーセに語り命じたのだろうか?

……神が何故、『神の御心』ではない「石打ち」をモーセに語り命じたのかは……『神の主権』の中には……「神の御心」と「神の許可」があることを知ることによって理解することができるようになる。

『神の主権』とは=「神の国」=「神の御国」=「神の王国」と言うこともできる。……だから慣れ親しんだ言葉で言うなら……「神の国」「神の御国」「神の王国」には『神の御心』と『神の許可』がある……と書くこともできる。……しかし……「神の国」「神の御国」「神の王国」では少々範囲が広すぎるように私は思う。……「神の国」「神の御国」「神の王国」の中にある『神の主権』の中に「神の御心」と「神の許可」があるからだ。……あまりいい例えが思いつかないが……例えば……「東京と大阪はどこにありますか?」……と質問されて「世界にあります」では少々不親切であるように思う。……「世界の中に東京と大阪がある」……と言う説明は間違いではないし……聞き方によっては1周回って感動的で凝り固まった視野を広げる深いことばでもあると思う。……しかし……世界……では少々広範囲すぎるので「世界の……日本……の中に東京と大阪がある」の方が正確な情報と言えるだろう……

「東京」も「大阪」も……日本の中にある……

「神の御心」も「神の許可」も……『神の主権』の中にある……

……『神の御心』は「神の主権」によって必ず実現して永遠に続く……

……「神の主権」によって神が『許可』なさったことは誰もとめることができない。……神が『許可』なさったことをとめることができるのは神おひとりだけだ。……だから神が『許可』なさったことを……「今までは許可していたが今後は許可しない」……と言うことができるのは神おひとりだけだ。……神は旧約聖書の時代に許可していた「石打ち」を新約聖書の時代になった時に……今後は許可しないと言われた……

……『神の主権 ( 神の御国 ) 』の中に……「神の御心」と「神の許可」がある……

……神は……神の主権によって『神の御心』を必ず永遠に実現させる……

……天にも地にも神の主権が満ちている……

……天には『神の御心』が満ちている……

……地には天に『神の御心』が満ちているように『神の御心』は満ちていないが……天にも地にも「神の主権」は満ちているので……地に存在できるのは……神が神の主権によって『神が許可しておられること』と『神の御心』の2つしかない……

……神は……神の主権によって『許可』を与える。

……天は……「神の御心」が満ちている『神の領域』だ……

……地は……神が神の主権によって「神が許可しておられること」と「神の御心」しか存在できない『神の領域』だ……

……天も地も神の主権で覆い尽くされている『神の領域』だ……

……神の『許可』がなくては人も悪魔も何もすることができない……これが『神の圧倒的な主権』だ……

……『神の圧倒的な主権』を理解した者は……「はじめ」から「おわり」まで「永遠」に天と地に満ちている『神のシャローム』を見ることができるようになり……『神のシャローム』の覆いの中に入ることができるようになる……

……この地上の「過去」と「現在」に……「神の御心」ではないことがいくつもあるのは……『この地上で……もしくは新しい天と新しい地で……エクレシアに益を与えるため』に……「神の御心」ではないことであっても神が「神の主権」によって『許可』しておられるからだ。……"神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。"
ローマ人への手紙 8章 28節

……「神の主権 ( 神の御国 ) 」の中には『神の御心』と『神の許可』がある……

『神の御心』は永遠に続く。しかし神は『神の御心』ではないことであっても『神の御心』が実現するためにどうしても必要なことは期間限定で『許可』する……だから旧約聖書の時代の「石打ち」は神の御心ではなかったが……神の民全体が偶像礼拝や他の罪に溺れて異邦人に滅ぼされてしまわないために「石打ち」をモーセに実行させておられた……「石打ち」という「抑止力」により神の民を守り保護するためだ……幼子には「保護者」が必要だ……幼子には保護者が必要であるように「律法」も「律法の中にある石打ち」も旧約聖書の時代の神の民を保護する保護者や養育係として必要だった。……しかし……神の民と養育係との間に血縁関係はない……まだ幼かった神の民を養育係に保護させるために神が養育係に御自分の息子娘をあずけておられただけで……イエスキリストの新約聖書の時代に……養育係であった「石打ち」を神はイエスキリストによって過ぎ去らせた……"こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。
しかし、信仰が現れた以上、私たちはもはや養育係の下にはいません。"
ガラテヤ人への手紙 3章 24〜25節

『神の御心』ではないけれども神が『許可』しておられた「石打ち」は『神の御心』ではなかったので……イエスキリストの新約聖書の時代が来るまでの期間「許可」されていただけだった。

十戒に「殺してはならない」と永遠に変わることなく永遠に続く『神の御心』が書いてある。……しかし神は……モーセヨシュアダビデに……「殺してはならないがわたしの御心だ。誰ひとりとして剣で殺すことをせずに勝利しなさい」……とは言われなかった……あまりにもハードルが高すぎるからだ……誰ひとりとして剣で殺すことをせずに完全に勝利したイエスキリストの模範を見た者たちが「"みな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達する"」時になってからようやくギリギリとべるようになるハードルの高さを「とびなさい」と神が要求なさることはない。

……だからまだイエスキリストの新約聖書の時代になっていなかった旧約聖書の時代には……十戒には「殺してはならない」と書いてあるが……異邦の民を殺すことは『神の御心』と思っていた神の民の目から……「殺してはならない」が『神の本当の御心』であることは……イエスキリストの新約聖書の時代まで『奥義』として隠され続けていなければならなかった……

……しかし……『神の本当の御心』は永遠に変わらない……

『神の本当の御心』は「殺してはならない」だ……

……『神の本当の御心』は「殺してはならない」だが……もし……旧約聖書の時代に『神の御心』ではない「石打ち」という養育係の保護がなければ……神の民はどうなっていただろうか……

……旧約聖書の時代に……モーセが神の民に石を投げて石打ちをしているのを神の民たちは何度も何度も見ていたにもかかわらず……神の民は何度も何度も偶像礼拝をしていた……もし……養育係である「石打ち」という抑止力が旧約聖書の時代になかったら……神の民全体はもっと偶像礼拝をしたり……もっと他の罪に溺れてしまっていて……異邦の民に滅ぼされてしまっていたことだろう……

……だから……「旧約聖書の時代」には養育係として「石打ち」という抑止力が必要であったので……神は『神の御心』ではない「石打ち」をイエスキリストの新約聖書の時代が来るまで『許可』しておられた……

……しかし……『神の御心』の実現は永遠に続くが……

……『神の御心』ではないことが『許可』される時間は……永遠には続かない……

……だから……『神の御心』ではない「石打ち」を神が『許可』しておられた……旧約聖書の時代に……「石打ち」を実行していたモーセは神に忠実な者と神に認められていたが……

……『神の御心』ではない「石打ち」を神が『許可』しておられた旧約聖書の時代が過ぎ去った後の……イエスキリストの新約聖書の時代に……「石打ち」を継続しようとしていたパリサイ人律法学者は神に退けられた……

"すべてのものは着物のように古びます。
あなたはこれらを、外套のように巻かれます。これらを、着物のように取り替えられます。しかし、あなたは変わることがなく、あなたの年は尽きることがありません。」"
ヘブル人への手紙 1章 11〜12節

"彼が開くと、閉じる者はなく、彼が閉じると、開く者はない。"
イザヤ書 22章 22節

"とこしえの主権は神のものです。アーメン。"
テモテへの手紙第一 6章 16節

 

 

2️⃣私は預言の賜物の回復を願っている。しかし私は預言の賜物を否定する方々を心から尊敬し感謝している。私が預言の賜物を熱心に求めて聖書に従うためなら私は預言の賜物を否定する方々を不満に思い…全て感謝せよと語る聖書に逆らってよいだろうか?預言を認める牧師先生だけ尊敬し…預言の賜物を否定する牧師先生含む5役者や教団教派の方々を尊敬せず…互いに尊敬しなさいと語る聖書に逆らってよいだろうか?自分が建てたい御言葉を建て上げるために他の御言葉を壊してできた砂の上に自分が建てたい御言葉を建てて…家を建ててよいだろうか?

 

 

2️⃣【①「ダビデの幕屋」によって預言の賜物は大いに活性化されるので…ダビデの幕屋が建て直される前に…『預言の賜物を活性化すること』だけではなくて『預言の賜物に否定的な方々を非難せず心から尊敬し感謝すること』ができる『神のシャロームの所有者たち』が備えられていなければ…ダビデの幕屋が建て直されても…砂の上の家のように崩れてしまう】

私が2019年1月から、このブログ「シャロームを所有する」を書き投稿し続けていた道の途中で……私が2000年頃から求め続けている「イザヤ書の賛美の外套」と……2009年から求め続けている「ダビデの幕屋」と……2019年頃から求め続けている「神のシャロームの回復」が……1本の線で繋がった道であったことを理解することができてから……私が さらにいくつもの投稿を続けながら歩き続けていた時……「賛美の外套」と「ダビデの幕屋」の回復の前に……「神のシャロームの回復」を備えることがどれほどに重要であるか……どうして重要であるか……といったことが……さらに鮮明に深く広く見えるようになってきた……

私が神に何年間も求め続けた「ダビデの幕屋」は……主が住まわれる  新しい歌=テヒーラの預言の賛美の中に主の臨在が満ちていて預言の賜物が泉のようになり川のように流れる「ダビデの幕屋」だ……だから……「ダビデの幕屋」の回復の前に……預言の賜物が川のように豊かに流れることができるための道備えが必要だ……

預言の賜物が川のように流れることができるための道備えとはどのようなことだろうか?  ……預言の賜物を活性化するための方法やノウハウだろうか?……預言の賜物を活性化するための方法やノウハウも確かに非常に重要だ。……預言の賜物を活性化するための方法やノウハウを日本の聖徒たちに伝達するために主に用いられておられる方々がいなければ……私は「預言の賜物の活性化」ということばを聞いたことすらないままになっていたことだろう。……主は預言の賜物を活性化するための方法やノウハウを伝達し建て上げてくださっている方々やグループを今後ますます大いに建て上げてくださる……と私は信じ期待している。

……しかし……預言の賜物が川のように流れる「ダビデの幕屋」が建て上げられる前の備えとして……預言の賜物を活性化するための方法やノウハウの伝達を受け取っている者たちが備えられているだけでは……「ダビデの幕屋」を保ち続けることはできずに……砂の上に建てられた家のように崩れてしまうことだろう……

……「ダビデの幕屋」が……しばらくの間だけ建て直されるだけで……やがて崩れてしまう砂の上に建てられた家……ではなくて……岩の上に建てられた家として築き上げられるためには……預言の賜物が川のように流れる「ダビデの幕屋」が建て上げられる前に……預言の賜物の活性化を願う者たちが……預言の賜物を活性化し続けるだけではなくて……キリストの体である他の方々……他の教団・教派・グループの方々……特に……預言の賜物を活性化させることを否定したり非難する方々のことを……見下したり……非難せずに……「直ぐな心」で心から尊敬し……「直ぐな心」で心から感謝できるために必要不可欠な神のシャロームを所有するための方法とノウハウを備えている者たちが……預言の賜物が川のように流れる「ダビデの幕屋」が回復される前に……整えられ備えられている必要がある。

預言の賜物の活性化を願う者たちが……お互いに お互いを見下し合うことをしないだけではなくて……

預言の賜物の活性化を願う者たちが……預言の賜物の活性化に協力的な牧師先生含む5役者の方々を尊敬するだけではなくて……「預言の賜物を活性化させようとする者たちを心の中で見下していて非難する牧師先生含む5役者や教団・教派・グループの方々」を……心の中で見下したりせずに……直ぐな心で心から尊敬して へりくだり耳を傾けることができ……直ぐな心で心から感謝することができ……かといって……牧師先生含む5役者の方々の中で預言の賜物を否定することに熱心な方々の意見の言いなりになって、預言の賜物を活性化させる願いとビジョンを手ばなして土の中に埋めることもせずに……預言の賜物を活性化させる願いとビジョンをキープし続けながら保ち育て建て上げ続ける者たちが備えられていなければ……「ダビデの幕屋」は砂の上に建てられた家のように崩れてしまうことになるだろう……

……預言の賜物を活性化させることを熱心に求めてはいても……「預言の賜物を活性化させることを否定し心の中で非難する方々」のことを……見下さず、非難せず、直ぐな心で心から尊敬し、直ぐな心で心から感謝できるようになるために必要不可欠な神のシャロームを所有するための方法とノウハウが……預言の賜物を活性化させることに熱心な方々に備わっていなければ……預言の賜物を活性化させることに否定的な方々を熱心に非難し見下してしまうことになりかねない……

列王記第二 3章 15節には……"しかし、今、立琴をひく者をここに連れて来てください。」立琴をひく者が立琴をひき鳴らすと、主の手がエリシャの上に下り、"……と書いてある。……これは小さなダビデの幕屋のようなものだ……「ダビデの幕屋」はさらに偉大だが……「ダビデの幕屋」には「"立琴をひく者が立琴をひき鳴らすと、主の手がエリシャの上に下り"」……と書いてある預言の活性化がある。「ダビデの幕屋」の「一致」と「賛美」と「臨在」と「油注ぎ」によって預言の賜物は大いに活性化される……「ダビデの幕屋」には預言したことがない者たちも預言できるようになるほどの預言の活性化がある……大いなる偉大な預言の活性化をもたらす「ダビデの幕屋」が預言の賜物の活性化を熱心に求めるあまり……その熱心さが預言の賜物の活性化を否定する者たちを非難し見下す熱心さにもなってしまう方々に与えられたらどうなるだろうか……

預言の賜物の活性化を熱心に求める方々に……預言の賜物に否定的な方々を心から尊敬し感謝できる神のシャロームがまだ備わっていないにもかかわらず……預言の賜物を大いに活性化させ川のように流れさせる「ダビデの幕屋」が回復されてしまうと……預言の賜物を大いに活性化する「ダビデの幕屋」は……「ダビデの幕屋」によって預言の賜物が大いに活性化された者たちが……「預言の賜物を否定する牧師先生含む5役者や教団・教派・グループの方々」をますます一致団結して大いに見下し非難の矢をとばす本拠地とか……大雪合戦大会の会場……投げているのは雪のかたまりではなくて……目に見えない雪のかたまり……心の中に満ちている……見下し非難するさばきの思い……というようなことになってしまいかねない……

……預言の賜物を活性化する人は預言の賜物を活性化しない人を侮ってはいけないし、預言の賜物を活性化しない人も預言の賜物を活性化する人をさばいてはいけない……"食べる人は食べない人を侮ってはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。"
ローマ人への手紙 14章 3〜4節
"食べる人は、主のために食べています。なぜなら、神に感謝しているからです。食べない人も、主のために食べないのであって、神に感謝しているのです。"
ローマ人への手紙 14章 6節
"ですから、私たちは、もはや互いにさばき合うことのないようにしましょう。"
ローマ人への手紙 14章 13節
"なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。
このようにキリストに仕える人は、神に喜ばれ、また人々にも認められるのです。
そういうわけですから、私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つこととを追い求めましょう。"
ローマ人への手紙 14章 17〜19節

"家が内輪もめをしたら、家は立ち行きません。"
マルコの福音書 3章 25節


シャローム


私は預言の賜物の回復を願っている。しかし私は預言の賜物の活性化に協力的な牧師先生含む5役者の方々を尊敬しているだけでなく……「預言の賜物を否定する牧師先生含む5役者の方々や預言の賜物を否定する教団教派の方々」も心から尊敬し感謝している。「預言の賜物を熱心に求めよ」と語っている聖書の御言葉に私が従順し……預言の賜物を建て上げるためなのであれば……「全て感謝しなさい」と語っている聖書の御言葉に私は不従順していてもよい…ということになるだろうか?

「預言の賜物を熱心に求めよ」と語る聖書の御言葉を建て上げるためであれば……私は預言の賜物を否定する方々のことを不満に思って感謝せずに……「全て感謝しなさい」と語っている聖書の御言葉に私は不従順していてもよい……ということになるだろうか?

「預言の賜物を熱心に求めよ」と語る聖書の御言葉を建て上げるためであれば……預言の賜物を否定する牧師先生含む5役者や教団教派の方々を尊敬することをせずに……「互いに尊敬しなさい」と語る聖書の御言葉に私は不従順していてもよい……ということになるだろうか?

聖書の中で私が特に好む御言葉に従順するためであれば……聖書に書いてある他の御言葉を否定していてもよい……ということになるだろうか?

聖書の御言葉に従順する聖徒息子娘たちとならせるために整え教えるためであれば……聖書の御言葉に従順するように教え整えている牧師先生含む5役者父母は……誰かの聖書の御言葉に不従順な言動を見聞きした場合には……不満に思ったり怒ったりして……「全て感謝しなさい」と語っている聖書の御言葉を実行せずに不従順を続けながら……聖書の御言葉に従順するように聖徒息子娘たちを教えていてもよい……ということになるのだろうか……?……矛盾していないだろうか?……ゆがんでいないだろうか?現代のキリストの体の背骨は……曲がっていないだろうか?

自分が建て上げたいと願う御言葉を建て上げるためであれば……他の御言葉を否定し壊してもよい……ということになるのだろうか?

自分が建て上げたい御言葉を建て上げるためであれば……他の御言葉を否定して破壊したことによってつくられてしまった……『砂』……岩との一致つながりを失ってしまい分離して独立してしまっている不安定な『砂』……の上に「自分が建て上げたい御言葉を建て上げる働き」と書かれた表札のついた家を建ててもよい……ということになるのだろうか?……"また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。"
マタイの福音書 7章 26節

 

 

預言とテヒーラが川のように流れるダビデの幕屋のための道備え 1️⃣【「賛美の外套」と「ダビデの幕屋の回復」と「神のシャロームの回復」】

 

1️⃣【「賛美の外套」と「ダビデの幕屋の回復」と「神のシャロームの回復」】

私は約20年以上前の2000年頃から「イザヤ書の賛美の外套」を求め続けている。……そして……私が「イザヤ書の賛美の外套」を約10年間求め続けた2009年から……私は「ダビデの幕屋の回復」を主に求め続けて歩き続けてきた。……そして……「ダビデの幕屋の回復」を約10年間求め続けた頃から……「互いに尊敬し合い、互いに教えられ合い、互いに感謝し合いなさい」と語っている聖書の御言葉を建て上げることを求め続ける願いと歩みがはじまり……やがて……2019年の1月から……この「シャロームを所有する」のブログを書き投稿するようになった……

私は「互いに尊敬し合い、互いに教えられ合い、互いに感謝し合いなさい」と語っている聖書の御言葉を建て上げることによって……「全てのことについて感謝しなさい」と語っている聖書の御言葉をキリストの体の中に『実現させて』……「キリストの体に神のシャロームを満たすこと」が非常に重要であることを知った感動に満たされるあまりに……いつの間にか……何年も求め続けていた「賛美の外套」と「ダビデの幕屋の回復」のことすらも忘れて……神のシャロームの回復を求め続け歩き続けながら……この「シャロームを所有する」のブログをいくつも書き投稿し続けていた……

……私は何年間も求め続けていた賛美の外套とダビデの幕屋を横に置いておくどころか……いつの間にか忘れてしまっていたのだが……私がいつの間にか忘れてしまっていた「賛美の外套」と「ダビデの幕屋の回復」を求め続けていた私の願いと祈りを主は忘れてはおられなかった……

私は2019年の1月から書き投稿しはじめた「シャロームを所有する」のブログを書いたり投稿することを続けているうちに……徐々に なんとなく物足りなくなってきて……書いて投稿する思いが徐々に薄れてきて……徐々に消えそうになってきていた。……ある時……主が……「私が賛美の外套とダビデの幕屋を求めて何年間も祈り歩き続けてきたこと」を再び思いおこさせてくださった……私は思った……「ああ……そうだった……私は何年間も賛美の外套とダビデの幕屋の回復を求め続けて祈り歩き続けていたのではなかったか……私がずっと求め続けてきた賛美の外套とダビデの幕屋の回復は……?」……私は「イザヤ書の賛美の外套」と……主の臨在を満たすために主が住まわれる新しい歌=テヒーラの預言の賛美に満ちた「ダビデの幕屋」を何年も求めて祈りと歩みをずっと続けていたのではなかったか……と私の思いの中で語った時……1つの御言葉が思い浮かんだ……「"  賛美は心の直ぐな人たちにふさわしい  "」……この御言葉によって……「私が2000年頃から『賛美の外套』を求め続け……その後……『ダビデの幕屋』を求め続けるようになった求めと祈りと歩み」と「神のシャロームの回復を願っている求めと祈りと歩み」が……1つに繋がっていることを私は徐々に理解することができるようになってきた。……そして……私がいつの間にか忘れていた「賛美の外套」と「ダビデの幕屋」を求め続けた求めと祈りと歩みを主は忘れておられなかったことを思いながら……「シャロームを所有する」のブログを書き投稿するようになってから……ますます主は私に……「神のシャロームの回復」は「賛美の外套」と「ダビデの幕屋」の「約束」がキリストの体の中に取り戻され回復するために非常に重要で必要不可欠な「鍵」であり「神のシャロームの回復」と「賛美の外套」と「ダビデの幕屋の回復」は1つ1つが1本の線で繋がった道であることを私にますます見せてくださった……

キリストの体の中に「神のシャロームの回復」を建て上げることが……「賛美の外套」と「ダビデの幕屋の回復」の「約束」をキリストの体の中に取り戻し回復し建て上げるために必要不可欠な「鍵」であることをまだ私自身がよく理解できていなかっただけでなく……何年間も賛美の外套とダビデの幕屋の回復を求め続けていた思いと願いが薄れてしまっていて……いつの間にか忘れてしまっていた私に……賛美の外套とダビデの幕屋の回復の道備えのために……このブログ「シャロームを所有する」を書き投稿することを2019年1月からすでに開始させてくださっていて、私にすでにいくつも投稿させてくださっていた神の恵みと不思議を見させていただいたことによって……私が2000年頃から「賛美の外套」を求め続けたこと……2009年から「ダビデの幕屋」を求め続けたこと……そして……2019年頃から「神のシャローム」を求め続けたことは……合流して1つの川となって流れはじめていた……

"賛美は心の直ぐな人たちにふさわしい。
立琴をもって主に感謝せよ。十弦の琴をもって、ほめ歌を歌え。
新しい歌(  ※テヒーラ  )を主に向かって歌え。"
詩篇 33篇 1〜3節

"あなたは聖であられ、イスラエルの賛美(  ※テヒーラ  )を住まいとしておられます。"
詩篇 22篇 3節

"ダビデと将軍たちは、アサフとヘマンとエドトンの子らを奉仕のために取り分け、【立琴と十弦の琴とシンバルをもって預言する者】とした。その奉仕に従って、仕事についた者の数は次のとおりである。
アサフの子では、ザクル、ヨセフ、ネタヌヤ、アサルエラ。これらはアサフの子で、王の指揮に従って、預言するアサフの指揮下にあった。
エドトンについて。エドトンの子は、ゲダルヤ、ツェリ、エシャヤ、シムイ、ハシャブヤ、マティテヤの六人。【立琴をもって主をほめたたえ、賛美しながら預言する】彼らの父エドトンの指揮下にあった。"
歴代誌第一 25章 1〜3節

"ラッパを吹き鳴らす者、歌うたいたちが、まるでひとりででもあるかのように一致して歌声を響かせ、主を賛美し、ほめたたえた。そして、ラッパとシンバルとさまざまの楽器をかなでて声をあげ、「主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで」と主に向かって賛美した。そのとき、その宮、すなわち主の宮は雲で満ちた。
祭司たちは、その雲にさえぎられ、そこに立って仕えることができなかった。主の栄光が神の宮に満ちたからである。"
歴代誌第二 5章 13〜14節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会

 

聖書は…神のこどもであり、主の民として神と繋がっていて生きた交わりのある関係を持っていて復活することができる者の「死」を『眠り』と表現している。聖書は…神のこどもであり、主の民として神と繋がっていて生きた交わりのある関係を回復させることができる悔い改めの機会を与えられていながら……悔い改めなかった者の「死」を『滅び』と表現している。「"神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です  "」……「神は『滅ぶ』者の神ではありません。『眠っている』者の神です  "」

 

 

3年前の2019年に……神との生きた関係を保っていた者の肉体の死は、神の目には「眠り」であり……肉体が死んで悔い改める機会を永遠に失ってしまった者の死は神の目にも「眠り」ではなくて「死」であることについて書かせていただいた。➡️https://sanbinomakuya.hatenablog.com/entry/2019/11/23/221047
「悪人に完全なさばきを与え、善人に完全な報いを与える神である主を賛美してシャロームを所有する」

そして今回は……聖書が語る「死」は『眠りである死』と、『滅びである死』があることについて書かせていただいた。

聖書は……神のこどもであり主の民として神と繋がっていて生きた交わりのある関係を持っていて復活することができる者の「死」を『眠り』と表現している。

聖書は……神のこどもであり主の民として神と繋がっていて生きた交わりのある関係を回復させることができる悔い改めの機会を与えられていながら……悔い改めなかった者の「死」を『滅び』と表現している。

聖書が語る「死」には『眠り』と『滅び』がある。

主はラザロの肉体の死を『眠っている』と言われた。主は、肉体が死んではいるが『眠っている者』の死のことを「死んだ」「死んでいる」とは言わずに『眠っている』と言われる。

肉体が死んで『眠っている者』の死を「死んだ」「死んでいる」とは言わない主が「死んだ者」と語るのは復活しない者、永遠に失われた者、滅ぶ者だけだ。

私たちが言う「眠っている」は=「寝ている」「睡眠中」という意味だが……

主が言われる『眠っている』は=肉体が『死んだ』『死んでいる』という意味であり……

主が言われる『死んだ者』は=『滅ぶ者』という意味だ……

主がラザロの肉体が死んだことを『眠っている』と言われたのは……イエスキリストのいのちによってラザロの肉体が必ず復活することを主は知っておられたからだ。

肉体が死んでしまって悔い改める機会を永遠に失った者も……死んだままではなく、主の御前で主にさばかれるために『意識をとりもどす』のだから、肉体が死んでしまって悔い改める機会を永遠に失った者の肉体の死も『眠り』なのではないか?……と思うだろうか?

肉体が復活する者たちの死は『眠り』だが、肉体が死んで悔い改める機会を永遠に失い肉体と魂と霊が永遠に滅びる者たちの死は眠りではなくて「滅び」だ。

主が『眠っている者』ではなく『死んだ者』と言っておられる者たちは……悔い改める機会を永遠に失った者たち……『滅ぶ者たち』のことだ……

……だから……主が語られた「"  神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です  "」……と書いてある死んだ者と生きている者を……『眠っている者』と『滅ぶ者』に置き換えると……「"  神は『滅ぶ』者の神ではありません。『眠っている』者の神です  "」

……だから……肉体が死んで【悔い改める機会を永遠に失った者たち】……滅ぶ者たちが主の御前で「主よ、主よ」と言っても、死んだ者、滅ぶ者の神ではない神は……わたしはおまえたちの神ではない。わたしとおまえたちには【何の関係もない】。"  わたしはあなたがたを【全然知らない】。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。  "……と宣告される……と聖書が語っている……

 

"わたしはあなたがたに言います。あなたがたも【悔い改めないなら】、みな同じように【滅びます】。」"
ルカの福音書 13章 5節

 

"「もしわたしが【洗わなければ】、あなたはわたしと【何の関係もありません】」"
ヨハネ福音書 13章 8節

 

"その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを【全然知らない】。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』"
マタイの福音書 7章 23節

"だれでも、もしわたしに【とどまっていなければ】、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて【火に投げ込む】ので、それは燃えてしまいます。"
ヨハネ福音書 15章 6節

 

"それに、死人の復活については、神があなたがたに語られた事を、あなたがたは読んだことがないのですか。
『わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあります。【神は死んだ者の神ではありません】。生きている者の神です。」"
マタイの福音書 22章 31〜32節


"イエスは、このように話され、それから、弟子たちに言われた。「わたしたちの友ラザロは【眠って】います。しかし、わたしは彼を【眠り】からさましに行くのです。」
そこで弟子たちはイエスに言った。「主よ。眠っているのなら、彼は助かるでしょう。」
しかし、イエスは、ラザロの【死】のことを言われたのである。だが、彼らは眠った状態のことを言われたものと思った。
そこで、イエスはそのとき、はっきりと彼らに言われた。「ラザロは【死んだ】のです。"
ヨハネ福音書 11章 11〜14節

 

"人々はみな、娘のために泣き悲しんでいた。しかし、イエスは言われた。「泣かなくてもよい。【死んだ】のではない。【眠っている】のです。」
人々は、娘が死んだことを知っていたので、イエスをあざ笑っていた。"
ルカの福音書 8章 52〜53節

 

"そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。
そうだったら、キリストにあって【眠った者たち】は、【滅んでしまった】のです。"
コリント人への手紙第一 15章 17〜18節

 

"からだを【殺し】ても、たましいを【殺せない】人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで【滅ぼす】ことのできる方を恐れなさい。"
マタイの福音書 10章 28節

 

"ひとりの人が民の代わりに【死んで】、国民全体が【滅びない】ほうが、あなたがたにとって得策だということも、考えに入れていない。」"
ヨハネ福音書 11章 50節

 

"盗人が来るのは、ただ盗んだり、【殺したり】、【滅ぼしたり】するだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。"
ヨハネ福音書 10章 10節

 

"わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。"
マタイの福音書 7章 21節


"なぜ、わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、わたしの言うことを行わないのですか。"
ルカの福音書 6章 46節


"その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行ったではありませんか。』
しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』"
マタイの福音書 7章 22〜23節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会

 

大地震があり、方々に疫病やききんが起こると聖書が語っているとおりに…ここ数年間に大地震と疫病が全世界を覆った…これから後にききんが全世界を覆うだろう…何故か?私たちを飢えさせるためか?神の目的は私たちを飢えさせることではない…土地を休ませるためだ…7年目に土地を休ませないことを7回で49年…その時…神は強制的に土地を休ませると聖書は語っている…私たちはききんに近づいているだけではなく、全世界をヨベルの年が覆う時に近づいている。ヨベルの年に人々は苦役から解放され…土地も休みを得る…ヨベルの年に…

 

 

地震があり、方々に疫病やききんが起こると聖書が語っているとおりに…ここ数年間に大地震と疫病が全世界を覆った…これから後にききんが全世界を覆うだろう…何故か?私たちを飢えさせるためか?神の目的は私たちを飢えさせることではない…土地を休ませるためだ…7年目に土地を休ませないことを7回で49年…その時…神は強制的に土地を休ませると聖書は語っている…私たちはききんに近づいているだけではなくて、全世界をヨベルの年が覆う時に近づいている。ヨベルの年に人々は苦役から解放され…土地も休みを得る。強制的に土地を休ませるためのききんはヨベルの年に見られるしるしだ。神の目的は私たちを飢えさせることではない。

 

全世界をききんが覆う時、全世界をヨベルの年で覆ってくださる神である主が私たちと共におられる。ハレルヤ。

 

シャローム

 

 

"大地震があり、方々に疫病やききんが起こり、恐ろしいことや天からのすさまじい前兆が現れます。"
ルカの福音書 21章 11節


"その地が荒れ果て、あなたがたが敵の国にいる間、そのとき、その地は休み、その安息の年を取り返す。
地が荒れ果てている間中、地は、あなたがたがそこの住まいに住んでいたとき、安息の年に休まなかったその休みを取る。"
レビ記 26章 34〜35節

 

"たとい、この地の民たちが安息日に、品物、すなわち、いろいろな穀物を売りに持って来ても、私たちは安息日聖日には彼らから買わない。また、私たちは七年目には土地を休ませ、すべての負債を取り立てない。"
ネヘミヤ記 10章 31節

 

"あなたがヘブル人の奴隷を買う場合、彼は六年間、仕え、七年目には自由の身として無償で去ることができる。"
出エジプト記 21章 2節

 

"六年間は、地に種を蒔き、収穫をしなければならない。
七年目には、その土地をそのままにしておき、休ませなければならない。民の貧しい人々に、食べさせ、その残りを野の獣に食べさせなければならない。ぶどう畑も、オリーブ畑も、同様にしなければならない。"
出エジプト記 23章 10〜11節

 

"六年間あなたの畑に種を蒔き、六年間ぶどう畑の枝をおろして、収穫しなければならない。
七年目は、地の全き休みの安息、すなわち主の安息となる。あなたの畑に種を蒔いたり、ぶどう畑の枝をおろしたりしてはならない。
あなたの落ち穂から生えたものを刈り入れてはならない。あなたが手入れをしなかったぶどうの木のぶどうも集めてはならない。地の全き休みの年である。
地を安息させるならあなたがたの食糧のためになる。すなわち、あなたと、あなたの男奴隷と女奴隷、あなたの雇い人と、あなたのところに在留している居留者のため、
また、あなたの家畜とあなたの地にいる獣とのため、その地の収穫はみな食物となる。
あなたは、安息の年を七たび、つまり、七年の七倍を数える。安息の年の七たびは四十九年である。
あなたはその第七月の十日に角笛を鳴り響かせなければならない。贖罪の日に、あなたがたの全土に角笛を鳴り響かせなければならない。
あなたがたは第五十年目を聖別し、国中のすべての住民に解放を宣言する。これはあなたがたのヨベルの年である。あなたがたはそれぞれ自分の所有地に帰り、それぞれ自分の家族のもとに帰らなければならない。
この第五十年目は、あなたがたのヨベルの年である。種を蒔いてはならないし、落ち穂から生えたものを刈り入れてもならない。また手入れをしなかったぶどうの木の実を集めてはならない。
これはヨベルの年であって、あなたがたには聖である。あなたがたは畑の収穫物を食べなければならない。
このヨベルの年には、あなたがたは、それぞれ自分の所有地に帰らなければならない。"
レビ記 25章 3〜13節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会