シャロームを所有する

私は預言の賜物の回復を願っている。しかし私は預言の賜物を否定する方々を心から尊敬し感謝している。私が預言の賜物を熱心に求めて聖書に従うためなら…私は預言の賜物を否定する方々を不満に思い…全て感謝せよと語る聖書に逆らってよいだろうか?預言を認める牧師先生だけ尊敬し…預言の賜物を否定する牧師先生含む5役者や教団教派の方々を尊敬せず…互いに尊敬しなさいと語る聖書に逆らってよいだろうか?自分が建てたい御言葉を建て上げるために他の御言葉を壊してできた砂の上に自分が建てたい御言葉を建て上げ…家を建ててよいのだろうか?

「①このブログはさばくなと言いながらさばいている矛盾したブログだろうか?①“神の国で人を教えるみことばの剣を扱う者に課せられるルールは盾を棄てること''

このブログを見て、「さばくなとブログに書きながら、あなたもさばいているではないか」といった、ごく自然な感想、意見を持つ人がいることだろう。

「さばく」とはどのようなことだろうか?

確かに語っていることばの内容でさばきか、さばきでないかを分けることができる場合もあるかもしれない。

だが、語っていることばだけでは、さばきか、さばきでないかは判別するのが難しい。

さばきかさばきでないかは、反論があった時、その反論に耳を傾けて聴くか、そうでないかによって見分けることができる。

語っていることばの内容以上に、その語っていることばがさばきであるか、さばきでないかを分けるものがある。それは、そのことばを語っている動機、目的だ。

かなり極端なくらいにわかりやすく言ってしまえば、相手をさばくことばは自分が勝利し、相手を敗北させるためのことばと言えるだろう。

そうではない場合もあるのだろうが、相手をさばくことばは相手に間違いを認めさせる目的、あるいは、相手に間違いを認めてほしい、気づいてほしい、気づかせたい動機、理由で語られている。

自分が正しく、相手が間違っているという前提、確信のもとに、相手をさばくことばは語られている。

相手をさばくことばは、心の中にある相手をさばく思いが、ことばとなって語られているものと言える。

まず、心の中で相手が間違っていると決めつけることにより心の中で相手をさばき、次に、相手をさばくことばを語り、ことばでさばく。

さばきのことばをさばきのことばとして決定づけるのは、すでに心の中で相手が間違っていると決めつけていて、さばいているという事実。

心の中でさばいているという見えない事実は反論があった時、明らかにされる。

さばいてはならないとは、意見をのべるなという意味ではない。何故なら聖書には互いに教え合いなさいとも書いてあるからだ。

さばいてはならないとは判決を下してはならないという意味だ。何故なら判決を下すことができる裁判長は主おひとりだけだから。

だから、さばいてはならないとは、判決を下してはならない、心の中で相手が間違っていると決めつけるなどという判決を下しているにも等しいことをしてはならないという意味だ。

"ですから、あなたがたは、主が来られるまでは、何についても、先走ったさばきをしてはいけません。主は、やみの中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのとき、神から各人に対する称賛が届くのです。"
コリント人への手紙第一 4章 5節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会

"しかし、私にとっては、あなたがたによる判定、あるいは、およそ人間による判決を受けることは、非常に小さなことです。事実、私は自分で自分をさばくことさえしません。
私にはやましいことは少しもありませんが、だからといって、それで無罪とされるのではありません。私をさばく方は主です。
ですから、あなたがたは、主が来られるまでは、何についても、先走ったさばきをしてはいけません。主は、やみの中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのとき、神から各人に対する称賛が届くのです。"
コリント人への手紙第一 4章 3〜5節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会

「あなたはこうするべきだと私は思う」と語ることばは、いかにも相手をさばいているように思えることだろう。

だが、心の中で相手が間違っていると決めつけていなければどうだろうか。

実際に心の中で相手が間違っていると確信しながら「あなたはこうするべきだと私は思う」と語って相手をさばいている人もいることだろう。

しかし、同じ「あなたはこうするべきだと私は思う」ということばであったとしても、

それが、「あなたはこうするべきだと私は思う!」なのか「あなたはこうするべきだと私には思えるのですが…?」なのかは反論によって見分けることができる。

口先では「あなたはこうするべきだと私には思えるのですが…?」と言っていても、心の中で「あなたはこうするべきだ!」と思っている場合も、反論によって見分けることができる。

心の中で相手が間違っていると決めつけ判決を下していなければ、さばきではなく、意見をのべているだけのこと。

聖書には さばいてはいけないと書いているが、意見を述べるなとは書いていない。

意見を述べるなとは書いていないどころか、互いに意見を述べ合うことをしなさいと聖書は語っている。何故なら、聖書は互いに教え合いなさいと語っているからだ。

"キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。"
コロサイ人への手紙 3章 16節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会

互いに教え合いなさいとは、相手が間違っていると心の中で決めつけることによって判決を下さずに、互いに意見をのべ合い、互いに教え合い、互いに教えられ合いなさいという意味であり、『意見交換しなさい』という意味だ。

このブログに書いてある内容は、私の聖書理解と聖書知識に基づいた私の意見であって、間違ってしまっていることや、間違ってしまっていることばはあるだろう。

しかし、さばくことはしていない。

私は私の意見が絶対に正しいなどとは思っていない。私の意見における何らかの間違いに気づいたなら、間違いについて指摘してほしいと願っている。

相手をさばくことばを語りながら、自分が語っていることが間違っていれば指摘してほしいと願う人がいるだろうか?…いるかもしれない。しかし、そうであるならば、その人は意見を述べているだけなのであって、さばいてはいないと私は思う。