前回のシャロームの回復②で、他者との違いが非常に大切であることを実感させ、理解を深めてくれる【いくらか】有益な『16診断』について書かせていただいた。多くの人々の中にある16タイプの特色について説明してくれている『16診断』について知りたい方は、インターネットで「16診断」ということばを検索すれば、誰でもいつでも手軽に色々と「16診断」について見ることができる。
聖書ほど有益ではないが……16診断や心理学は【いくらか】有益だ。……"肉体の鍛練も【いくらかは】【有益です】が、今のいのちと未来のいのちが約束されている敬虔は、すべてに有益です。"
テモテへの手紙第一 4章 8節
【いくらか】有益な16診断だけでなく、【いくらか】有益な心理学を知れば『指導』が「カウンセリング」ではないことを知ることができる。
もしかしたら多くのクリスチャンの方々が『指導』を「カウンセリング」だと勘違いしてしまっているのかもしれない。
もちろん『指導』は非常に有益なことであり、キリストの体の全体にとって非常に重要な働きであると聖書が語っている。
……しかし……「カウンセリングすること」は『指導すること』ではない。
多くの牧師先生の教会のカウンセリングルームはカウンセリングルームではなくて、「相談室」でもなくて『信徒指導室』と書いてある方が適切であるように思えるような部屋になっている。何故なら多くの牧師先生の教会のカウンセリングルームでなされていることは『指導』であるからだ。もう少し細かく言うなら……「カウンセリングルーム」は最初のしばらくの時間はカウンセリングルームのようになっている。信徒が牧師先生に悩みを話し、相談し、牧師先生が信徒の悩みに耳を傾けて聴いている時間はカウンセリングルームのようになっている。しかし、信徒の悩みを聴き終えた牧師先生が『間違いを正すために』語りはじめる時にカウンセリングルームは『信徒指導室』になっている。そして、カウンセリングルームの目的が『間違いを正し指導すること』であるのなら、カウンセリングルームは最初から『信徒を指導するための部屋』であるということになる。
信徒を指導する部屋で信徒を指導する働きは非常に有益で非常に重要な働きだが……「カウンセリングすること」は「指導すること」ではない。
カウンセリングルームをカウンセリングルームと書かずに日本語で「相談室」と書いていれば、「相談室」と書かれた部屋が「相談室」ではないことに多くのクリスチャンたちが気づけていたかもしれない。ほとんど「相談室」ではなくて「指導室」だが、「指導室」ではなくて「相談室」と思わせ、「カウンセリングしてもらった」と思わせるために「カウンセリングルーム」ということばが選択されているのかもしれない。
……しかし……パワハラがあたりまえではなくなっていて対等な対話ができることを好む世代が昔からの「カウンセリングルーム」での対応を見たら「カウンセリングルーム」ではなくて「パワハラルーム」だと思ったり、あきれたり、失望するかもしれない。
しかし、「カウンセリングルーム」という部屋で牧師先生が信徒が聖書からずれないように指導する「カウンセリングルームでの働き」は非常に有益で非常に重要な働きだ。
もし「カウンセリングルーム」と書かずに、「信徒指導室」と書いてあったとしたら……牧師先生から指導を受けるべきだが指導されることが嫌いな信徒たちは……「牧師先生が指導してくれる部屋」に入ろうとすらしなかっただろう。
「牧師先生が指導してくれる部屋」の名前が「信徒指導室」ではなくて「カウンセリングルーム」であったからこそ……『人から指導されることが大嫌い』な誰かが牧師先生にカウンセリングしてもらおうと思って「カウンセリングルーム」に入り、牧師先生から指導を受け、牧師先生から指導を受けることがいかに有益であるかを深く実感することができるようになった方々もたくさんおられることだろう。
「牧師先生が指導してくれる部屋」の名前を「信徒指導室」とは書かずに「カウンセリングルーム」と書いて多くのクリスチャンが「カウンセリングルーム」に来るようにさせることは土台を安定させ固めることを優先させる必要があったダビデの世代(パワハラがあたりまえだった世代)の時代にはどうしても必要なことだった。
……しかし……カウンセリングを知らず……指導することしか知らない牧師先生たちの教会の「カウンセリングルーム」が「牧師先生から指導を受ける部屋」であることに違和感を感じたり……「いったいこれのどこがカウンセリングなんだ」……「外来語やカタカナでかっこつけたり、それっぽい雰囲気やイメージを演出しようとしているようだが……ろくにカウンセリングの意味を知りすらもしないのか……」と……パワハラがあたりまえではなくなったソロモンの世代たちは思ったり、あきれたり、失望したりするかもしれない……
"父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。」"
マラキ書 4章 6節