シャロームを所有する

私は預言の賜物の回復を願っている。しかし私は預言の賜物を否定する方々を心から尊敬し感謝している。私が預言の賜物を熱心に求めて聖書に従うためなら…私は預言の賜物を否定する方々を不満に思い…全て感謝せよと語る聖書に逆らってよいだろうか?預言を認める牧師先生だけ尊敬し…預言の賜物を否定する牧師先生含む5役者や教団教派の方々を尊敬せず…互いに尊敬しなさいと語る聖書に逆らってよいだろうか?自分が建てたい御言葉を建て上げるために他の御言葉を壊してできた砂の上に自分が建てたい御言葉を建て上げ…家を建ててよいのだろうか?

さばきを放棄して新しい皮袋とシャロームを所有する①

私たちがことごとく放棄し捨て去るべきものは、私たち自身の心の願いではない。主はそのようなことは願ってはおられない。

主は言われた。「神の国と、その義とをまず第一に求めなさい。」

しかし、私たちは「神の国と、その義『だけ』を求めなさい」と、私たちの頭の中で聖書を書き替えていないだろうか?

そのように書き替えることで、「あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです」とも書いてある聖書のことばを空文にしていないだろうか?

私は、この聖書のことばを空文にせず、1つとなるように合わせるために、このような意味に解釈している。

神の国と、その義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、第二以降にあなたが神に求めているものも与えられる」

私たちがことごとく放棄し捨て去るべきものは、私たち自身の心の願いではない。主はそのようなことは願ってはおられない。

そうすべき時と場面があることについても聖書に書いてあるが、主はことごとく捨てるようには命じておられない。

私たちがことごとく放棄すべきものは、私たちの心の願いではなくて「さばき」だ。

私たちには「教える」ことは許可され、主から推奨されているが、「さばく」ことは許可されていない。

私たちは聖書で推奨されている「教えること」をしながら、聖書で禁止されている「さばくこと」を同時にしていることがある。

私たちは「教えること」と「さばくこと」の区別ができていない。

私たちは「さばくこと」とはどのようなことであるのかを知らない。

教えることは、さばくことではない。相手をさばかずに教えることができるし、相手をさばきながら教えることもできる。

相手を教えながらさばいているか、相手をさばかずに教えているかは、私たちの心にある思いによって左右される。

私たちが相手を「間違っている」「正しくない」「ダメだ」と決めつけながら、相手を教えているなら、私たちは相手を教えながらさばいている。

相手を間違っている、正しくない、ダメだと決めつけながら教えているなら、私は間違っていない、私は正しい、私は良いという前提で相手を教えている。

これが私たちが住む地上において、私たちが自由にくちにすることのできる善悪の知識の木の実。

私たちがそのような前提と決めつけを所有しているなら、善悪の知識の木の実を所有していることになる。

私たちが放棄すべきなのは、私たちの心の願いではなくて、この「さばき」という名前がつけられている「善悪の知識の木の実」ではないだろうか?

私たちが善悪の知識の木の実を所有しているなら、私たちは古い皮袋。

古い皮袋は新しいぶどう酒の中に入ることはできない。