私たちがことごとく放棄し捨て去るべきものは、私たち自身の心の願いではない。主はそのようなことは願ってはおられない。
主は言われた。「神の国と、その義とをまず第一に求めなさい。」
しかし、私たちは「神の国と、その義『だけ』を求めなさい」と、私たちの頭の中で聖書を書き替えていないだろうか?
そのように書き替えることで、「あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです」とも書いてある聖書のことばを空文にしていないだろうか?
私は、この聖書のことばを空文にせず、1つとなるように合わせるために、このような意味に解釈している。
「神の国と、その義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、第二以降にあなたが神に求めているものも与えられる」
私たちがことごとく放棄し捨て去るべきものは、私たち自身の心の願いではない。主はそのようなことは願ってはおられない。
そうすべき時と場面があることについても聖書に書いてあるが、主はことごとく捨てるようには命じておられない。
私たちがことごとく放棄すべきものは、私たちの心の願いではなくて「さばき」だ。
私たちには「教える」ことは許可され、主から推奨されているが、「さばく」ことは許可されていない。
私たちは聖書で推奨されている「教えること」をしながら、聖書で禁止されている「さばくこと」を同時にしていることがある。
私たちは「教えること」と「さばくこと」の区別ができていない。
私たちは「さばくこと」とはどのようなことであるのかを知らない。
教えることは、さばくことではない。相手をさばかずに教えることができるし、相手をさばきながら教えることもできる。
相手を教えながらさばいているか、相手をさばかずに教えているかは、私たちの心にある思いによって左右される。
私たちが相手を「間違っている」「正しくない」「ダメだ」と決めつけながら、相手を教えているなら、私たちは相手を教えながらさばいている。
相手を間違っている、正しくない、ダメだと決めつけながら教えているなら、私は間違っていない、私は正しい、私は良いという前提で相手を教えている。
これが私たちが住む地上において、私たちが自由にくちにすることのできる善悪の知識の木の実。
私たちがそのような前提と決めつけを所有しているなら、善悪の知識の木の実を所有していることになる。
私たちが放棄すべきなのは、私たちの心の願いではなくて、この「さばき」という名前がつけられている「善悪の知識の木の実」ではないだろうか?
私たちが善悪の知識の木の実を所有しているなら、私たちは古い皮袋。
古い皮袋は新しいぶどう酒の中に入ることはできない。