シャロームを所有する

私は預言の賜物の回復を願っている。しかし私は預言の賜物を否定する方々を心から尊敬し感謝している。私が預言の賜物を熱心に求めて聖書に従うためなら…私は預言の賜物を否定する方々を不満に思い…全て感謝せよと語る聖書に逆らってよいだろうか?預言を認める牧師先生だけ尊敬し…預言の賜物を否定する牧師先生含む5役者や教団教派の方々を尊敬せず…互いに尊敬しなさいと語る聖書に逆らってよいだろうか?自分が建てたい御言葉を建て上げるために他の御言葉を壊してできた砂の上に自分が建てたい御言葉を建て上げ…家を建ててよいのだろうか?

主のためなら無制限に断食しても死なないのだろうか?霊が満たされていても肉体は死ぬ。心も同じだ。「期待が長引くと心は病む。望みがかなうことは、いのちの木である」

前回、花嫁にとって紳士な夫であられるイエスキリストについて書いた。

私たちは心の中で、このように思うかもしれない。「イエス様にハニー扱いしてもらう?何を甘えたことを言っているんだ…?我々は自分の願いを捨て、ただイエス様に従順であるべきだ」

主は言われた。「期待が長引くと心は病む。望みがかなうことは、いのちの木である」

別の訳→「待ち続けるだけでは心が病む。かなえられた望みは命の木」

別の訳→「望みを得ることが長びくときは、心を悩ます、願いがかなうときは、命の木を得たようだ」

ここに鬱病になる仕組み…理由が書かれているように私は思う。

主のためにであろうと食事を無制限に、お預けにし続けるなら、肉体は死ぬ。

何故なら主は、私たちに、そのようなことを願っておられないし、私たちをそのように創っておられないから。

同様に、主のためにであろうと、自分自身の願いをことごとくお預けにするなら、心は疲れはて、弱り果てる。

何故なら、主は私たちをそのように創っておられるから。

食事をお預けにすればお腹が「グゥ~」と鳴る。

同様に、主のためにであろうと、自分自身の願いをことごとくお預けにするなら、心に不平不満と他者にたいするさばきのことばが沸き上がる。

空腹時に、お腹が「グゥ~」と鳴らないようにすることと同じか、それ以上に心に沸き上がるさばきの思いが外に一切出ないようにすることは非常に困難だ。

一万タラント免除された者について、聖書にこう書いてある。

「ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。」

私たちは「一万タラントも免除されたのに、百デナリくらいのことで…?百デナリ免除してあげるべきだ」と思うかもしれない。

私は思う。「何故、百デナリ貸し与えたのですか?貸すのであれば百デナリ以下でも、貸すことを拒むことも自由に選択できたでしょう?」

その頃は有り余るほど持っていたから貸し与えたのかもしれない。

しかし、私はこのように想像する。有り余る中からではなく、乏しい中から生活費の多くを、自分自身の生活が苦しくなるくらいに貸し与えたのだろう。

それは、私たちのようだ。私たちはこのように思っている。「私たちは主に一万タラント免除された者、罪赦された者。だから自分の願いを放棄して、百デナリ=できうる限りたくさんの奉仕を主に捧げるべきだ。」

自分の願いを放棄して、できうる限りたくさんの奉仕を主に捧げているうちに疲れてくると、空腹時に、お腹が「グゥ~」と鳴るように、

兄弟姉妹の首を「ギュ~」と絞めて「私が主に百デナリ捧げたのだから、あなたも百デナリ主に捧げなさい」「私がこんなにも主に捧げ、仕えているのだから、あなたも私と同じくらい主に捧げ、仕えるべきだ」と言う。…あるいは心の中で思っている。

自分が貸し与えた金額の返却を要求するかのごとく、当然のこととして要求している。声に出して。あるいは心の中で。

聖書に、こう書いてある。
『最後に来た、この連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いた、わたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』

主人のみこころは、まる一日、暑い中を辛抱して働かせることだったのだろうか?

私は想像する。主人に一言、木陰で休んでもいいですか?と言えば、主人は家に招き、十分な食物と飲み物を振る舞ってくれたことだろう。

いや、主人は「私の家で休まないか?」と招いてくれていたが、「いえいえ、めっそうもございません。どうしてあなた様にそこまでしていただけましょうか。目一杯働かせていただきます」と辞退しているかもしれない。

私たちは、「休んではどうか」と促してくださっている聖霊様からきている願い、促しを「こんな誘惑には屈しない!」とか「退け悪霊!サタン!」と言って辞退していることがないだろうか?

聖霊様から私たちの限界近くか、限界以上にするように促してくださる時はあるだろう。

しかし、私は思う。聖霊様からの促しで、限界近くか、限界以上に従順した場合は、例えば、百デナリ貸し与えたなら、

百デナリ以上の経済的祝福が与えられているか、あるいはなんらかの祝福によって心が満たされていて、

首を絞めて百デナリを回収しなくてはならないようなことにはならないのではないか…。私はそのように主を信じ、信頼している。

しかし、聖霊様のふりをしている敵から「あなたが主を愛しているならもっと捧げ、仕え、尽くすべきではないか?」とささやかれてしたことならそうなる保証はないように思う。

しかし、聖霊様の促しに聞き従った時ほどではないにしても、

敵に騙されてしたことでさえも、主を愛してしたことなのであれば、主はなんらかの益とし、主の計画を前進させる何らかの布石として下さっていると私は信じている。