シャロームを所有する

私は預言の賜物の回復を願っている。しかし私は預言の賜物を否定する方々を心から尊敬し感謝している。私が預言の賜物を熱心に求めて聖書に従うためなら…私は預言の賜物を否定する方々を不満に思い…全て感謝せよと語る聖書に逆らってよいだろうか?預言を認める牧師先生だけ尊敬し…預言の賜物を否定する牧師先生含む5役者や教団教派の方々を尊敬せず…互いに尊敬しなさいと語る聖書に逆らってよいだろうか?自分が建てたい御言葉を建て上げるために他の御言葉を壊してできた砂の上に自分が建てたい御言葉を建て上げ…家を建ててよいのだろうか?

イエスキリストの花嫁としてシャロームを所有する【シャロームとはどのようなものか】

シャロームとはどのようなものであるか。主は言われた。「全き愛は恐れを締め出します」「恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです」シャロームは、三位一体の主の全き愛によって恐れが締め出された状態。

シャロームは、三位一体の主の全き愛によって得られる全き平安。

シャロームとはあらゆる領域が満たされていることを意味することば。

例えば、シャロームには体が癒され健康であることも含まれている。

私がこのブログでフォーカスすることによって、照らし、シャロームを満たし、回復させたいと願っている領域…場所は…私たちの心。私が教会の中に回復させたいと願っているシャロームの領域は、心の全き平安。心のシャローム

三位一体の主のシャロームによって、心から恐れを締め出し、心をシャロームの地として管理し、治め、所有する者となること。

敵は私たちの主にたいする愛を利用して私たちを騙し、私たちがシャロームの地にいるのに、シャロームの地にいないかのように錯覚させる。

敵は私たちに「神を愛しているなら、神のために、神に従順な神のしもべであるべきだ。お前の心を捨てろ。」とささやく。

確かに私たちは神のしもべだ。私たちは神のしもべとして、私たちの願い、心を捨てて神に従うべき時がある。

私たちが、私たちの願い、心を捨てて、神に従うようにと神が王の王、主の主として私たちに命じられる時がある。

しかし、そうではない時もある。私たちは、主のしもべであるだけではなく、主の花嫁としての地位をいただいている。主は王の王、主の主であり、私たち花嫁の良き花婿であるお方。

花婿である主は、花嫁に従順だけを要求する亭主関白なのだろうか?花婿なる主は紳士なお方だ。

以下は私の想像にすぎない、だが、私は花婿イエスキリストはこのようなお方であると信じ、信頼している。

花婿の平常時→「ねえ、ハニー?キミはどうしたいんだい?」と優しく語りかけ、花嫁の願い、心に耳を、心を傾け花嫁の心を大切にしてくださるお方。

花嫁にぜひおすすめしたいことがある時→花嫁に丁寧に説明してから、「ね…?ハニー…わかってくれたかな?…そうか…わかった…もう少し時間が必要みたいだね…。キミのペースでゆっくり理解してくれたらいいよ。大丈夫、安心して♪ボクが一緒にいるからね♪」

花嫁にどうしてもしてほしいことがある時→「ハニー…。今はキミには理解できないかもしれない…。でも、今回のこのことについては、どうかボクを信頼してボクの言う通りにしてくれないか?ハニーを後悔させたりなんてしないから…だから、ボクについてきてほしい。」

いつまでたっても、花嫁が従おうとせず、花嫁が危機的な時→「わたしはあなたの主である。あなたはわたしの命令に従いなさい」

敵は花婿イエスキリストがいつも、「黙って従え」と言っているかのように錯覚させる。

従順だけでいいなら花嫁はいらない。しもべだけいればいい。だが、主はしもべが、神の子、神の友、イエスキリストの花嫁となることを願っておられる。

従順なしもべは神を喜ばせるが、それ以上に神を喜ばせるのは、神の子、神の友、イエスキリストの花嫁だ。

神に従順なだけでなく抗議したアブラハムは神の友と聖書に書かれている。

エスキリストに従順なだけでなく抗議したぺテロは、地上で人となられていたイエスキリストが牧していた群れ、教会の主任牧師に任命された。

エスキリストに「子犬にパンを投げてやるのはよくないことです」と言われた異邦人の女性は従順して去らずに、自分の意見を語り、イエスキリストを大いに喜ばせた。

従順なしもべは神を喜ばせるが、神の子、神の友、イエスキリストの花嫁は、従順なしもべにまさる。

敵は紳士な花婿イエスキリストを、紳士な花婿イエスキリストではないかのように錯覚させる。

自分の心を圧し殺してただ従順であり続けることが主のみこころであるとささやく。

紳士な花婿イエスキリストは自分の心を圧し殺してでも従順し愛してくれる花嫁を喜んでいてはくださるだろう、しかし、心を痛めてもおられるのではないだろうか。

例えばフィクション「花婿イエスキリストとしもべな花嫁」

花婿「どうしたんだい?ハニー…最近顔色がすぐれないみたいだけど…?」

花嫁「そ…そんなことはありません。私は幸せです。愛するあなたに喜んでもらえるこのことをさせていただけて…本当は私はこのことじゃなくて、こっちがしたいのですが…私は幸せです。」

花婿「ああ、ハニーはこっちを望んでるんだね。いやあ~、ちょうどよかった。ボクもこっちをしてほしいと…こっちがキミをより輝かせると前から思っていたんだよ」

花嫁「いいえ。主よ。これは私の自分勝手な願い。あなたの聖書に、あなたはこのことを願うって書いてあるではありませんか。だから、私はあなたが願うことをさせていただきます」

花婿「いや…願ってるし、嬉しいけど、それは、ボクのロゴス的な願いであって…」

花嫁「大丈夫です。主よ。私は幸せですから。私は辛くてもあなたの一番願っておられるみこころを行い続けます。」

花婿「うん…、いや…ボクが願ってることはね…。キミの心が生き生きすることだよ。そりゃあ、キミにとって辛いことをするように言う時もあるけど、それは、後の日に、キミの心をもっと生き生きさせることができるからなんだよ。

ボクは与え、とるけど、とるのはもっと与えるためなんだよ。」

花嫁「大丈夫です。主よ。私は幸せですから。私の心は気になさらないで下さい。私の心はどうでもよいのです。主よ。あなたの心を喜ばせることさえできれば、私の心はどうでもよいのです。」

花婿「そうか…わかった…これ以上言うと、かえってキミを苦しめてしまうことになるみたいだね…」

主のみこころとはどのようなことだろうか?私が悲しみ、主が喜ぶこと?

そんな時もあるだろう…信仰によって従順すべき時が…。

主のみこころは私が喜び、主も喜んでくださること。

私が喜ぶこと、私が願うことは、主のみこころではない?

主は言われた。「願いを与え、志を与える」

私たちは王が金の笏を差し伸ばしてくれなかったらどうしようと恐れていたエステルのように花婿イエスキリストを恐れていないだろうか…。

みこころと違うことを願えば、罰せられると恐れていないだろうか。

主は言われた「どうしたのだ。王妃エステル。何がほしいのか」「あなたは何を願っているのか。」

私たちは王なるイエスキリストの花嫁、王妃。

花婿イエスキリストは「ねえ、ハニー?キミはどうしたいんだい?」と優しく語りかけ、

花嫁の願いに耳を、心を傾け、花嫁の心を大切にしてくださる紳士なお方。

訳あって、あなたの願いを横に置けと言われる時はあるだろう…だが、それは、花婿と花嫁の日常ではない。

敵は紳士な花婿イエスキリストがいつも花嫁に心を圧し殺して生きることを要求していると錯覚させる。

主を愛しているならお前の心を捨てろとささやく。

しかし、訳あって願いを横に置けと言われる時はあるだろうけど…

花婿イエスキリストは、花嫁の願いに耳を、心を傾け、花嫁の心を大切にしてくださる紳士なお方であると信じるなら、

紳士な花婿イエスキリストの全き愛を信じるなら、イエスキリストの花嫁として心にシャロームを所有することができる。

エスキリストの御名によって、あなたとイエスキリストの夫婦生活にシャロームが今以上に増し加えられますように。

あなたの心にシャロームを満たしてくださる主の御名はほむべきかな。ハレルヤ。