断食したり、徹夜で祈ったり、賛美したりする中で、聖霊様からの啓示によって、みことばの深い解き明かしを与えられることがある。
それらの全てを、奥義と言っておられる方々もおられるようだが、それら全てはみことばの深い解き明かしではあるだろうけれども、奥義ではない。
断食したり、徹夜で祈ったり、賛美する中で、聖霊様と深く交われば、交わるほど、聖書に啓示されているイエスキリストを、ますます深く知ることができる。
その深さは深遠。人には計り知れない。イエスキリストの愛は人知をはるかに越えている。
聖霊様と深く深く交わり、霊的な深み、聖霊様の啓示によってしか知り得ない聖書の深い解き明かしを見ることはできる。
しかし、奥義は聖霊様と深く深く交わるだけでは見ることはできない。知ることはできない。
聖霊様と深く深く交わり、みことばの深海に潜り得たとしても、
奥義は、神の時が来なければ誰も見ることはできない。
奥義は神によって隠されているもの。どれだけ断食して、祈って聖書を読んだとしても、見いだせるものではない。
奥義は、キリストの体である教会が、その奥義を受け取れる段階になるまで、成長するまで、整えられるまで、神によって隠されているもの。
奥義は神によって隠されている。その奥義が解き明かされるにふさわしい時が来るまで隠されている。
奥義は、その時が来るまで誰も知ることはできない。
主は言われた。「天の下では、何事にも定まった時期があり、全ての営みには時がある」
「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」
知るのに時があるもの、それが奥義だ。
何故なら、神は常に最善をなさるお方。奥義には、それぞれ、あらわされるにふさわしい時がある。その時がまだ来ていない、いくつかの奥義は神によって隠され、封じられたままになっている。
主は言われた…"「まさしく、聖書に書いてあるとおりです。『目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである』
神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。
いったい、人の心のことは、その人のうちにある霊のほかに、だれが知っているでしょう。
同じように、神のみこころのことは、神の御霊のほかにはだれも知りません。
ところで、私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神の御霊を受けました。
それは恵みによって神から私たちに賜ったものを、私たちが知るためです。
この賜物について話すには、人の知恵に教えられたことばを用いず、御霊に教えられたことばを用います。その御霊のことばをもって御霊のことを解くのです。
生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。
また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。
御霊を受けている人は、すべてのことをわきまえますが、自分はだれによってもわきまえられません。
いったい、『だれが主のみこころを知り、主を導くことができたか。』ところが、私たちには、キリストの心があるのです。
さて、兄弟たちよ。私は、あなたがたに向かって、御霊に属する人に対するようには話すことができないで、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように話しました。
私はあなたがたには乳を与えて、堅い食物を与えませんでした。あなたがたには、まだ無理だったからです。実は、今でもまだ無理なのです。
あなたがたは、まだ肉に属しているからです。あなたがたの間にねたみや争いがあることからすれば、あなたがたは肉に属しているのではありませんか。そして、ただの人のように歩んでいるのではありませんか。
ある人が、『私はパウロにつく』と言えば、別の人は、『私はアポロに』と言う。そういうことでは、あなたがたは、ただの人たちではありませんか」"
…かつては、主の民の目が、まだ見たことのないもの、主の民の耳が、まだ聞いたことのないもの、そして、主の民の心に思い浮かんだことのないものであった1つ1つは、
御霊によって、主の民に啓示され、私たちの目が見たことのあるもの、私たちの耳が聞いたことのあるもの、そして、私たちの心に思い浮かぶものとなっていて、
キリストの体である教会の土台、柱となっている。
しかし、今もまだ、私たちの目が見たことのないもの、私たちの耳が聞いたことのないもの、そして、私たちの心に思い浮かんだことのないもののままにされているもの、神によって隠されている奥義がある。
神は教会の1つの時代の上に、もう1つの時代を置き、さらにその上に新しい時代を置く。
神は古い土台の上に新しい土台を。新しい土台の上に次の土台を。新しかった土台の上に新しい土台を、その上に次の土台を置く。
今の土台が整った時、その上に新しい土台が築き上げられる。
私たちは「もっと早い時期にこれを得ていれば」と言う。
しかし、今の土台が整っていないのに、その上に、新しいものが築き上げられるなら、砂の上に建てられた家のように、一応、建ちはするだろうが、雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いて打ちつけるとひどい倒れ方で倒れてしまう。
「主は最善の時に、最善のことをしてくださる」と語られることばをよく耳にする。
私が語る時は、これら2つに、もう1つ、「最善の順序で」を加えて語る。
「主は最善の時に、最善のことを、最善の順序でなしてくださる」
創世記の天地創造を見る時、主は最善の順序で創造しておられる。
私の想像だが、主は天地創造1日目からアダムに会う時をさぞ楽しみにしておられたことだろう。
しかし、主は、1日目に「アダムあれ」ではなく「光あれ」と言われた。
最善の順序で創造なさる主は動物の前に植物を創造された。
もし、動物の後に植物が創造されていたなら…
【例えばフィクション「天地創造」】
牛「モオオオーウ?(神様~、私たちが食べる植物はどこですか?)」
かみさま「ああ、植物ね。明日ちゃんと創ってあげるから、今日は断食しといてくれる?」
牛「モオオオー!?」
…ということにならないように、主は動物の前に、植物を創造し、最善の順序で創造しておられる。
主から来る後のものは、先のものにまさる。だから、私たちは「もっと早い時期にこれを得ていれば…」と思うのだろう。
シャロームは美しく、好ましい。しかし、シャロームは従順の土台の上に築き上げられなければならない。
幼子に必要なのは選択することや、自立や、自由ではなく、親から受けること。保護されること。
幼い教会(エクレシア、主の民)には選択や、自立や、自由も必要だが、それ以上に、神様、牧師、教役者、霊的リーダーに従うこと、受けとること、保護されることが必要。
だから、幼い教会には、シャロームは隠されている必要がある。
従順と聖書の基礎的教えが岩のような土台となるまで。
幼い教会(主の民)が青年となるまで。
牧師、教役者、霊的リーダーから受ける乳(聖書の基礎的教え)によって、幼い教会(主の民)が青年となるまで。
幼い教会(主の民)が青年となった時、乳(聖書の基礎的教え)と牧師、教役者、霊的リーダーに従順することだけでは、青年となった教会は、幼かった頃とは違い、それらだけでは健全に生きることはできず、病んでしまう。
自由を放縦にしてしまう幼子、お菓子ばかりを食べて野菜を食べない幼子にはシャロームは奥義として隠されている必要がある。
主は言われた。「天の下では、何事にも定まった時期があり、全ての営みには時がある」
「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」