シャロームを所有する

私は預言の賜物の回復を願っている。しかし私は預言の賜物を否定する方々を心から尊敬し感謝している。私が預言の賜物を熱心に求めて聖書に従うためなら…私は預言の賜物を否定する方々を不満に思い…全て感謝せよと語る聖書に逆らってよいだろうか?預言を認める牧師先生だけ尊敬し…預言の賜物を否定する牧師先生含む5役者や教団教派の方々を尊敬せず…互いに尊敬しなさいと語る聖書に逆らってよいだろうか?自分が建てたい御言葉を建て上げるために他の御言葉を壊してできた砂の上に自分が建てたい御言葉を建て上げ…家を建ててよいのだろうか?

「①教会が賛美の外套を着るための簡単で単純な方法『主に賛美の外套を捧げよ』①」

多くのクリスチャンが、主によって教会が、イザヤ書 61章にある賛美の外套を着せられることを求めている。

主は私たちから賛美の冠を受けておられる。主は私たちの王であると私たちは認め、宣言し、歌っている。

私たちの祈りの時間の何%が賛美で、私たちの祈りの何%が祈りの課題であろうか。

その比率を人間の体に例えるなら、人間の体の頭くらいの割合が賛美の祈り、頭以外の全体くらいの割合が祈りの課題の時間なのではないだろうか?

祈りの課題の時間が賛美の祈りの時間の何倍も占めている。

偉大な全能の王であられる主は頭に賛美の冠を私たちの王として受けておられるが、

その御体のほとんどは私たちの祈りの課題のリクエストの申請書でおおわれている。

私たちの祈りのほとんどが「主よ、癒してください。」「主よ、救ってください。」「主よ、リバイバルを与えてください」と主に語っている。

主の教会、主に覚えられている者たち、シオンの悲しむ者たちは灰をかぶり、悲しみ、憂いながら祈っている。

灰をかぶりながら、主の御前にへりくだり、神の御前で自分はとるに足りない罪人、ちりや灰であると自分をさげすんでいる。

"アブラハムは答えて言った。「私はちりや灰にすぎませんが、あえて主に申し上げるのをお許しください。"
創世記 18章 27節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会

"それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔いています。"
ヨブ記 42章 6節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会

へりくだりは悪いことではない。良いことだ。神はへりくだるものを祝福してくださる。へりくだる教会を主は今日まで祝福してくださっている。

しかし、主がへりくだる者を高く上げようとしてくださっているのに、高く上げようと伸ばされている手を掴まず、「私はとるに足りない、神のあわれみにすがるしかない罪人です」と祈り、告白し、語り続けるなら、

自分自身が語ったことばを自分自身が聞き、自分自身が語った通りに信じるようになる。

何故なら、聖書に「信仰は聞くことから始まり」とあるからだ。

そして、「心に満ちていることを口が話すのです」とある。

私たちは自らの口で語ったことを聞き、信じ、心に満ちていることを話し、それを聞くことをくりかえす。

私たち教会が神に向かって祈ることばを変えることによって、私たち教会は賛美の外套を着ることができる。

私たちがイエスキリストにあって何者であるのかを語ることによって。

聖書にこう書いてある。"そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、【キリストについてのみことば】によるのです。"
ローマ人への手紙 10章 17節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会

私たちが聞くべき、私たちが語り自ら聞くべきことばは私たち教会がイエスキリストにあって何者であるかだ。

へりくだりの祈りも必要だ。しかし、その何倍も私たち教会がイエスキリストにあって何者であるか、【キリストについてのみことば】を宣言し、賛美し、感謝しなければならない。

へりくだりの祈りの比率を人の体に例えるなら、足首から下くらいで十分ではないだろうか?足首からしたが体の半分以上なんて人はいないだろう。

親は子供が親にたいして、ごめんなさいと言っている時間や、申し訳なかったと反省している時間の割合と、ありがとうと言って嬉しそうにしている時間の割合とどちらが多いことを願うだろうか?

私たち教会がイエスキリストにあって何者であるか、【キリストについてのみことば】を宣言し、賛美し、感謝する祈りと、へりくだりの祈りの比率が逆転してしまっていないだろうか?

さあ、その比率を再び逆転させて教会のあるべき姿を回復させよう。

どのようにしてか?祈りの課題を賛美と感謝に変えることによって。

祈りの課題を手放す必要はない。何故なら、私たちは主を賛美しながら、主に感謝しながら祈りの課題について祈ることができる。

「主よ、誰々さんを癒してください」と祈ることばを「主よ、誰々さんを癒してくださることを感謝します」と感謝し賛美し、私たち教会がイエスキリストにあって何者であるか、【キリストについてのみことば】を宣言することによって。

心が信じていなくてもかまわない。心をかえることは私たちにとって非常に困難だ。

しかし、語ることばを私たちは自由に選択することができる。

今まで自ら語り聞き続けたことばを信じるようになってしまっている自分自身の心に自ら語り聞かせる必要がある。私たち教会がイエスキリストにあって何者であるか、【キリストについてのみことば】を。

私たちの耳がくりかえし聞いたことばは、私たちの心に強い影響を与える。

そのように私たちは主に創られている。人体の構造がそのようになっている。

しかし、人体の構造がそのようになっているという事実より力強い真理が存在する。

"けれども、あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます。"
詩篇 22篇 3節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会

この真理は長年の間、自らに語り聞かせ続けてきたことばによる影響をいとも容易く塗り替えるだろう。

さあ、その深いへりくだりのゆえに主に喜ばれ、主に覚えられている日本の主の民よ。

我らの主人の喜びを共に喜ぼう。

私たち教会がイエスキリストにあって何者であるか、【キリストについてのみことば】を宣言し、賛美し、感謝し、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに、賛美の外套をその身にまとおう。

そのようにして、祈りの課題について、私たち教会がイエスキリストにあって何者であるか、【キリストについてのみことば】を宣言し、賛美し、感謝しながら祈るなら、

私たち教会の祈りの課題のリクエストの申請書でおおわれていた主の御体は私たち教会の賛美と感謝の宣言、祈りで、賛美の外套でおおわれる。

主の御体が賛美で、賛美の外套でおおわれる時、主の御体である私たち教会は、賛美の外套を着ていることになる。