シャロームを所有する

私は預言の賜物の回復を願っている。しかし私は預言の賜物を否定する方々を心から尊敬し感謝している。私が預言の賜物を熱心に求めて聖書に従うためなら…私は預言の賜物を否定する方々を不満に思い…全て感謝せよと語る聖書に逆らってよいだろうか?預言を認める牧師先生だけ尊敬し…預言の賜物を否定する牧師先生含む5役者や教団教派の方々を尊敬せず…互いに尊敬しなさいと語る聖書に逆らってよいだろうか?自分が建てたい御言葉を建て上げるために他の御言葉を壊してできた砂の上に自分が建てたい御言葉を建て上げ…家を建ててよいのだろうか?

2次元のうわべではなく3次元のキリストの体を信仰によって見ることによってシャロームを所有する

感想を持つことは、さばきではない。 

例えば、私の場合…、聖書のことばに従わない人々に激しく怒りを発している人にたいして、 

「あなたは今、『すべての事について、感謝しなさい』と書いてある聖書のことばに絶賛違反中なのですが…賛美が絶えていると書いて、絶賛違反中なのですが…それは何の漫才ですか?」 

…このように、かなり失礼な類いの感想が私の心に思い浮かぶこともあるが、このような感想を、私の感想として心で思っていても、さばいていることにはならない。 

このような感想を私が感じている人に、神様も私と同じことを思っておられるだなんてことを私は信じていない。 

私の信仰のことばは、私の感想のことばと同じではない。 

私は 私の心にある このような思いとか、私が感想として持っている このようなことばを真理とか、事実だとは信じていない。 

きっと神様は このように思っておられるにちがいない…と私が信じている思い、考え、ことばが私の信仰のことば。 

私の心に自然と思い浮かぶ感想は、あのようなものであっても、 

私は このように信じている。「主は この方がこんなにも主を愛しておられることを喜んでおられるにちがいない。 

主は 主を愛しておられるがゆえに人々を叱責している この方を、多くのクリスチャン、教会を建て上げる祝福の器として用いておられるにちがいない。」 

私は主について、このように信じている。これが私が信じていること、これが、私の信仰のことば。 

私たちが「さばいた」か「さばいていない」かは、私たちの心にある感想のことばではなく、 

私たちがどのように信じているかによって…私たちの信仰のことばによって左右される。 

「神様は この人の していることを悲しんでおられる。神様は この人がしていることを悔い改めるように願っておられる」「この人は神様を悲しませている。この人は悔い改めるべきだ。」 

もし、私が このようなことを信じているなら、私は さばいていることになる。 

私は さばかずに自由に私の感想を私の感想として持つことができる。 

私は 私を このような感想が心に思い浮かぶ者として私を創って下さった主に感謝し、主を賛美する。 

私は、誰かが誰かを怒り叱責している様子を見る時、心に苛立ちを感じる。 

そして、私は そのようなことに苛立ちを感じる者として私を創って下さっている主に感謝し、主を賛美する。 

私がそのようなことに苛立ってしまうほどに強く願っている願い、志し、飢え渇きを私の心に置いて下さっている主に感謝し、主を賛美する。 

聖書にこう書いてある。「あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。」 

別の訳→「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです」 

そして、私は私の心に生じている苛立ちを、放置したままにはしておかない。 

主は言われた。「怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。」 

別の訳→「怒ることがあっても、罪を犯してはならない。憤ったままで、日が暮れるようであってはならない。」 

人はうわべを見ると聖書に書いてある。私はうわべを見ているがゆえに、私の心は苛立っている。 

私は私の心にある苛立ちを治めるために、信仰によって考え、信仰によって見る。 

私だけが神の御心を行っているとでも言うのか?私が願わない働きは神の御国に不必要だとでも言うのか?私が願う働きだけがあればいいのか?私の好みに合わない働きは、神の御国に不必要な働きなのか? 

この問いかけの答えがYESであるかのように私の肉は感じる。私の肉、五感、心は、私の好みに合わないことを不快に感じる。 

しかし、私は信仰によってNOと宣言して、信仰によって見る。 

私の肉はうわべしかみれない。私の肉は平面、2次元しか見れない。 

しかし、私は信仰によって3次元を見る。私の肉、私の感覚、私の五感、私の心が感じていること、見ているものが全てではないことを信仰によって宣言して見ることができる。 

聖書のことばは紙に書かれた2次元の文字だが、神のみことばが2次元ではないように、神の御国は2次元ではない。キリストの体は2次元ではない。 

私たちは、それぞれ 他の絵と組み合わせられるべき1枚の絵を持っているにすぎない。それは、主からのものであまりにも美しくて完成しているように見えるが、パズルのピースの1つでしかない。 

私たちは2次元のキリストの体を描くのではない。 

3次元のキリストの体を建て上げるために、私たち、1人1人、1枚の絵を与えられている。 

サムエルはエリアブを見て、「確かに、主の前で油を注がれる者だ」と思ったが、主はサムエルに言われた。 

「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る」 

聖書にこう書いてある。「あなたがたは、うわべのことだけ見ています。自分がキリストのものだと信じきっている人がいれば、その人は、自分と同じくわたしたちもキリストのものであることを、もう一度考えてみるがよい。」 

うわべ、2次元しか見れない私が、信仰によって3次元のキリストの体、3次元の神の御国を見る時、私の心から苛立ちは消え失せる。 

「この方の働きは私の好みに合わないが、主はこの方のしておられる働きを必要としておられる。この方は私の好みに合わないが、主はこの方が、この働きができるように、この働きのスペシャリストとして、この方をこのように創造された。この方は神の作品。 

この方は この働きのスペシャリストとして神に用いられ、神に喜ばれているキリストの体の器官」 

聖書にこう書いてある。「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。」 

私の心が苛立ちを感じていた この方の存在を、信仰によって見る時…、 

私が信仰によって3次元のキリストの体、3次元の神の御国を見る時…、 

私の心に生じていた この方にたいする苛立ちが消え去るだけではない。 

この方に たいする尊敬が私の心に生まれ、この方をこのように創造され、この方によって、神の御国を祝福し、神の御国によって私を祝福してくださっている主にたいする感謝と賛美が私の心に生まれる。 

知識だけでなく、信仰だけでなく、私の心で確かに感覚として実感できる喜びと尊敬と感謝と賛美が泉のように私の心に自動的に沸き上がる。 

苛立ちという名のいばらとあざみを生えさせていた私の心の土地がエデンの園のようになる。 

聖書にこのようなことが書いてある。「あなたが、食べてはならないとわたしが命じておいた善悪を知る知識の木から食べたので、土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。 

土地は、あなたのために、いばらとあざみを生えさせる。」 

聖書にこう書いてある。「荒れ果てていたこの土地がエデンの園のようになった。」 

シャロームによって心は治められ、心にシャロームがとどまり、心にシャロームの王が住み、心はエデンの園、シャロームの地となる。 

「わたしたちは、この舌で父なる主をさんびし、また、その同じ舌で、神にかたどって造られた人間をのろっている。 

同じ口から、さんびとのろいとが出て来る。わたしの兄弟たちよ。このような事は、あるべきでない。」 

「あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます」