シャロームを所有する

私は預言の賜物の回復を願っている。しかし私は預言の賜物を否定する方々を心から尊敬し感謝している。私が預言の賜物を熱心に求めて聖書に従うためなら…私は預言の賜物を否定する方々を不満に思い…全て感謝せよと語る聖書に逆らってよいだろうか?預言を認める牧師先生だけ尊敬し…預言の賜物を否定する牧師先生含む5役者や教団教派の方々を尊敬せず…互いに尊敬しなさいと語る聖書に逆らってよいだろうか?自分が建てたい御言葉を建て上げるために他の御言葉を壊してできた砂の上に自分が建てたい御言葉を建て上げ…家を建ててよいのだろうか?

目から丸太を取り除き、互いに教え合うことによってシャロームを所有する

主は言われた。「互いに教え合いなさい」

互いに教え合いなさいとは、互いに教えてもらい合いなさいということ。

聖書は、一方的に教えることを勧めてはいない。

主は言われた。…"「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。

あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。

あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。

兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。

偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。」"

丸太とは、「私の目に おが屑は ない」という高ぶった思い。

自分の目から丸太をとり除くとは、「私の目に おが屑がある」と認め、へりくだること。

丸太は、そのようにして 取り除くことができる。しかし、目から丸太は取り除くことができても、目に おが屑が残ったままになっている。

では、私の目に ある おが屑は、どのようにして 取り除くことができるだろうか?

私たちの目に ある おが屑は、私たちが、互いに教えてもらい合うことによって取り除かれる。

互いに教えられ合いなさいとは、互いに おが屑を取ってもらい合いなさいということ。

互いに おが屑を取ってもらい合うことによって、互いに はっきり見えるようになり、互いの目から おが屑を取り除き合うことができるようになる。

もし、私たちが自分の目に 丸太を 残したままで、他者の目から 微細な おが屑を取り除こうとして手を伸ばせば、どうなるだろうか?

私たちの目に 丸太があって、はっきり見えるようになっていないのに、他者の目に手をのばせば、他者の眼球を傷つけることにならないだろうか?

私たちが互いに教え合うのではなくて、一方的に教え、互いに さばき合うなら、私たちは互いの眼球を傷つけ合い、互いに ますます目が見えなくなり、目潰し大会が開催されてしまいかねない。

目潰し大会の参加資格は「私は見える」という思いを持っていること。もしくは「私は見えないが、あなたよりは見える」という思いを持っていること。

「私は見える」という思いを私たちが持っているなら、私たちの目には丸太がある。

「私は見えないが、あなたよりは見える」という思いを私たちが持っているなら、私たちの目には 丸太がある。

私たちは「私は見えないが、あなたよりは見える」という思いを持ちながら、誰かを教えているだろうか?

私たちが教えるミニストリーをした後の質疑応答の時間は「教えるためだけの時間」だろうか?

それとも、「互いに教え、互いに教えられ合う時間」だろうか?

私たちは、私たちの教えに誰かが反論してきた時、反論してきた相手を一方的に教えようとしているだろうか?

それとも、私たちの教えに誰かが反論してきた時、おが屑を取り除いてもらえるかもしれないと期待して、反論のことばに耳を傾けているだろうか?

主は言われた。「尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。」

「というのは、私たちの知っているところは一部分であり、預言することも一部分だからです。」